第10話 氷が溶けた、その先で
「先生」と呼ばれるのに、俺はまだ慣れない。
神様よりは、ずっといい。それでも、こそばゆい。作家です、なんて胸を張れるほど、俺は立派な人間じゃないからだ。呼ばれるたびに、視線を逸らしてしまう。
「照れていらっしゃいますね、先生」
「照れてない」
「耳が、赤いです」
暦は、くすりと笑った。
氷の令嬢の、あの完璧な微笑みじゃない。もっと崩れた、あたたかいほうの笑い方だった。この笑い方を、俺は最近ようやく、よく見るようになった。
***
学校では、あいかわらずだった。
暦は、氷の令嬢のままだ。廊下ですれ違っても、俺のことなんて見えていないみたいに、背筋を伸ばして通り過ぎる。「わたくし」の顔で。誰も、彼女が家で泣いたことも、笑ったことも、知らない。
その二重が、消えたわけじゃなかった。
放課後、人気のない教室で俺のそばを通るとき、暦はほんの一瞬だけ、こちらを見る。氷の表情のまま、目だけで、笑う。今夜も、待っています、と。その一瞬のギャップに、俺はいまだにどきりとさせられる。
彼女の重さも、消えたわけじゃない。
聖典ノートは今も増え続けている。俺の更新時刻も、誤字の修正も、相変わらず一秒の狂いもなく記録されている。となりで見ていると、正直、まだ少しこわい。人ひとりの三年を、こんなにも克明に記録できる執念が、消えてなくなるわけがない。
でも。
跪くのは、やめてくれた。
俺を見上げるのを、やめてくれた。感想をくれるとき、彼女は俺のとなりに座る。同じ画面を見て、ここの一文がいい、ここの伏線に気づきましたか、と、対等に言い合う。命綱を握り合う二人じゃなく、次の話を待つ、作家と読者として。
氷が溶けきった先に、あったのは、甘い夢じゃなかった。
重さも、危うさも、ちゃんと残ったままの、ふつうの距離だった。ただ、共依存の形が、少しだけ健やかなほうへずれた。それでも、前より、ずっといい。並んで歩けるぶんだけ、二人とも、少しだけ遠くまで行ける気がした。
***
その夜、俺は、新しい連載を書き始めた。
まっさらな原稿の、一行目。
指出しの手袋をはめた手が、キーボードの上で止まった。頭にあったのは、何を書こうか、じゃない。誰に向けて書こうか、だった。
俺は、いつも、たった一人の読者のために書いてきた。零時二分の、あの一のために。
その人は、もう、俺のとなりにいる。
暦は、少し離れた場所で、静かに、俺が書くのを見ていた。給仕をする人の目じゃなかった。次の話を待つ、いちばん最初の読者の目だった。
「先生」
彼女が、言った。
「その新しいお話は、どんな人を、生かすのでしょうね」
俺は、その言葉に、手を止めた。
どんな人を、生かすのでしょうね。以前の暦なら、こんな言い方はしなかった。神様の書くものは、ぜんぶ素晴らしい、と。それしか言わなかった。今は、違う。物語の、いちばん芯を、まっすぐ突いてくる。それは、跪く信者じゃなく、対等な読者の、問いだった。
一人の命を生かす。俺の物語の、いちばん大事なところを、彼女はもう、ちゃんとわかっている。三年間、零時二分で、それを身をもって知っている人だ。数字でも、名声でもなく、たった一人の夜を越えさせること。それだけが、俺の書く意味だと。
「さあな」
俺は、笑った。
「でも、たった一人でも、いればいい。……この話で、夜を越えてくれる奴が、一人でも」
暦は、その言葉に、少し、目を細めた。三年前の自分を、その一人に重ねているのが、俺にはわかった。
「きっと、いますよ」彼女は、静かに言った。「今夜も、どこかの部屋で、朝が来なくていいと思っている人が。……その人に、届くといいですね。零時二分に」
「ああ」
俺は、頷いた。届くといい、と、心から思った。かつての暦みたいな、たった一人の誰かに。その一人のために、俺は、また書く。
でも、1だ。
その原点は、変わらなかった。ただ、今は、その一の名前を、俺は知っている。
俺は、キーボードに、指を落とした。
新しい物語の、いちばん最初のページ。
本文を書き始める前に、俺は、ある一行を、そっと、そこに置いた。
だれに、この物語を捧げるのか。
その献辞を打ち込む俺の指先は、暦がくれた手袋の中で、ほんの少しだけ、あたたかかった。
氷が溶けきった先にあったのは、甘い夢じゃなく、重さも残ったままのふつうの距離。「その新しいお話は、どんな人を、生かすのでしょうね」に微笑んだら【にこにこ】を。物語が返る最後の一行は、ブクマで見届けて。




