第9話 一生分の、連載を
「となりに、立ってもいいのですか」
暦のその問いに、俺は頷いた。
「ああ。……ただ、ひとつだけ、約束させてくれ」
俺は、姿勢を正した。
こういう大事なことを、俺はいつもうまく言えない。学ランのボタンをかけ違えるみたいに、肝心なところで言葉がつっかえる。それでも、これだけはちゃんと伝えなきゃいけなかった。
三年間の零時二分に報いる言葉を。彼女が握ってくれた、たった一つの一に返す言葉を。
「神様と信者は、やめる」
俺は、言った。
「でも、俺と君が、ばらばらになるって話じゃない。切れるんじゃなくて、結びなおすんだ。……もっと、対等で、もっと、長く続く形に」
暦は、じっと俺を見ていた。
「俺は、これからも書く。書き続ける。君は、それを読む。読み続けてくれ。俺が更新して、君が感想をくれる。誤字を見つけて、伏線を読み解いて、そのたびに、となりで、ああだこうだ言い合う。……そういうのが、いい」
作家と読者なら、上も下もない。崇めなくていい。跪かなくていい。ただ、次の話を、いっしょに待てばいい。それは、命を懸けるような、こわい関係じゃない。もっとゆるくて、もっと、長く続くものだ。
俺は、息をひとつ吸った。
「神様と信者じゃなくていい」
窓から差す冬の光が、暦の銀の髪を白く照らしていた。
「……作家と、読者でいい。一生分の連載を約束するから」
暦の唇が、わずかに開いた。
「一生分の……連載」
「ああ」俺は、少し照れて、視線を逸らした。「俺が死ぬまで、書く。君が、いちばん最初に読む。零時二分じゃなくてもいい。何時だっていい。俺は、君のために書き続けるし、君は、俺を読み続ける。……それなら、神様がいなくても、君は、朝を待てるだろ」
一生分、と口にしてから、俺は内心、少し焦った。一生、なんて大きな言葉を、俺みたいなのが使っていいのか。耳が、じわりと熱くなった。
でも、後悔はなかった。三年間、零時二分に俺を待ち続けた人だ。この人の一生ぶんくらい、俺が書き続けたって、罰は当たらない。むしろ、それが、俺にできる、たった一つの恩返しだった。
作家が書くのをやめない限り、読者の明日は、続いていく。
あなたが消えたら、わたしの朝は、二度と来ないと思いました――あの雨の日の話をした彼女に、俺が返せる答えは、それしかなかった。
命綱じゃなくて、約束。
一本の綱で吊り合うんじゃなく、同じ道を、並んで歩いていく。片方が転んでも、二人とも崖下へ落ちるんじゃなく、もう片方が、手を貸せる距離で。それが、俺たちの、いちばん自然な形だと思った。
暦は、しばらく動かなかった。俺の言葉が、体の奥まで降りていくのを待っているみたいだった。
やがて、その瞳から、涙が静かにあふれた。頬を伝っていくのを、彼女は、拭おうともしなかった。
昨日みたいに、崩れる涙じゃなかった。氷が時間をかけて溶けていく、ゆっくりとした涙だった。長いあいだ張りつめていたものが、ようやくほどけていく涙だった。
彼女は、三つ指をつかなかった。
跪きも、しなかった。
ただ、俺のとなりへ、少しだけ身体を寄せた。同じ高さで、同じ景色を見るみたいに。肩が触れるか触れないかの、まだぎこちない距離だった。三年間、零時二分の画面ごしにしかいなかった距離が、いま、ちゃんと手の届くところにあった。
そして、小さく、けれどはっきりと言った。
「はい」
冬の光の中で、暦は、微笑んだ。
「……よろしくお願いします、先生」
俺は、息を、のんだ。
神様、じゃなかった。
三年間、彼女が俺を呼び続けた、跪くための、たった一つの呼び名。それが、いま、並んで歩くための呼び名に変わった。
先生。
作家を呼ぶ、読者の言葉に。
俺は、なんて返せばいいのかわからなくて。ただ、となりに座る彼女の、その言葉の重さを、しばらく噛みしめていた。
神様と、先生。たった二文字の違いだった。けれど、その二文字の間に、俺たちは、ずいぶん長い道のりを歩いてきた気がした。
それは、神様と呼ばれるより、ずっと、こそばゆくて。そして、ずっと、あたたかかった。
「先生」
暦は、もう一度、その言葉を確かめるように口にした。まだ慣れない響きを、大事に、転がすみたいに。
「よろしく、お願いします」
「ああ」俺は、頷いた。「こちらこそ。……一生、よろしく」
「神様はやめよう。……作家と、読者でいい。一生分の連載を約束するから」。跪くための呼び名が、並んで歩くための呼び名に変わる瞬間に泣けたら【泣ける】と【にこにこ】を。着地の続きは、ブクマで。




