第8話 神様は、やめよう
翌朝、俺は暦と、彼女の淹れた茶をはさんで座っていた。
湯呑みは、いつもの位置に置かれていた。手を伸ばせばそのまま持てるところに、いつもの温度で。三年、見てきましたので――彼女は、いつも、そう言う。
俺はその湯呑みを両手で包んだ。あたたかさが、手のひらにゆっくり伝わってくる。
昨日の続きを話さなきゃいけなかった。ゆうべは、答えを出せないまま眠ってしまった。でも、逃げたままでは、俺たちはいつまでも神様と信者のままだ。
ひと晩、考えた。神様をやめろ、と突き放すだけではだめなんだ。それは、彼女の三年を否定することになる。かといって、このまま跪かせておくのも違う。俺は、その間のちょうどいい場所を探さなきゃいけなかった。
彼女を、傷つけずに。それでいて、一本きりの命綱から、そっと、降ろしてやれる言葉を。
「昨日の、話だけど」
俺が言うと、暦の肩がほんの少しこわばった。
また神様をやめろと言われる。そう身構えた顔だった。
「君の信仰を、捨てろって言ってるんじゃない」俺は、ゆっくり言った。「あの三年間の、零時二分を、なかったことにしてほしいわけでもない。……あれは、俺の宝物でもあるんだ。君が握ってくれた一が、なかったら、俺はとっくに書くのをやめてた」
暦は、黙って聞いていた。
「ただ、な」
俺は、湯呑みを、そっと置いた。
「神様と信者っていうのは、片方が上で、片方が下だろ。君は、俺を見上げてる。ずっと、下から。……それが、俺は、いやなんだ」
「あなたは、見上げられるべき方です」
「違う」
俺は、はっきり、言った。
「俺は、君と、同じ高さで話したい。君が俺を見上げてる限り、君は、俺のいない夜を、越えられない。神様が沈めば、信者も沈む。そういう関係を、俺は、続けたくない」
暦の瞳が、揺れた。
「じゃあ……あなたは、わたしと、どうなりたいのですか」
俺は、少し、言葉をさがした。
うまい言い方は思いつかなかった。俺は、こういう大事なところでいつも言葉に詰まる。それでも、いちばん素直な言葉をそのまま出した。
「神様は、やめよう」
暦が、息を、のんだ。
「神様と信者は、やめよう。俺は、君の神様になりたいんじゃない。……もっと、長く、続くものになりたいんだ」
窓の外は、よく晴れた冬の朝だった。
暦は、しばらく、何も言わなかった。
俺の言葉をひとつずつ、聖典ノートに書き写すみたいに噛みしめている。そういう横顔だった。
「わたしは」
やがて、彼女は、小さく言った。
「あなたを、神様と呼ぶことでしか、あなたに触れる方法を、知りませんでした」
「知ってるよ」
「氷でいるか、跪くか。わたしには、その二つしか、なかったのです。完璧な令嬢でいるか、命綱にすがるか。……対等というものを、教わったことが、ありません」
俺は、その言葉に、胸が痛んだ。
対等というものを、教わったことがない。さらりと言ったその一言に、彼女の十七年が、全部つまっていた。褒められることも、叱られることも、ただ並んで笑うことも、この子はまともに知らないまま、ここまで来たんだ。
完璧を求められて、氷になるしかなかった令嬢。そのたった一つの逃げ場が、俺の物語だった。だから彼女は、その書き手を神様にするしかなかった。跪くことでしか、愛せなかった。誰にも、対等に愛される練習を、させてもらえなかった。
それは、彼女のせいじゃない。
「なら、これから、覚えればいい」
俺は、言った。
「俺と、いっしょに。……見上げるんじゃなくて、となりに立つやり方を。ゆっくりでいい。三年かけて、俺を神様にしたんだ。ほどくのにも、それくらい、かかってもいい」
暦は、俺を見た。
はじめて、跪きも、氷りもしない目だった。ただの、十七歳の女の子の目で、俺をまっすぐ見た。
その目を見て、俺は思った。氷の令嬢も、限界オタクも、跪く信者も、ぜんぶ、彼女がかぶってきた仮面だったんだ。そのどれの下にも、ただ、誰かにとなりにいてほしかった、ひとりの女の子がいた。
俺は、その子と、話がしたかった。神様としてじゃなく。ひとりの、書き手として。
「となりに、立ってもいいのですか」
その声が、あまりに心細くて。
俺は、次に言うべき言葉を、静かに、決めた。
「対等というものを、教わったことが、ありません」。さらりと零れたその一言に、彼女の十七年が全部つまっている——胸が痛んだら【泣ける】を。氷をほどく道のりの続きは、ブクマで。




