第7話 神様と、信者のままで
「神様は、やめてくれないか」
俺がそう言ったとき、暦の顔が、はじめて凍りついた。
学校で見せる氷の令嬢とは違う凍りかただった。もっと幼い。足もとが崩れる音を聞いた子どもみたいな顔だった。
「……どうして、ですか」
***
タワーマンションの最上階に戻っていた。
窓の外は冬の夜景だった。無数の光が足もとに広がっている。この部屋も、この景色も、暦が俺のために用意したものだ。俺が煩わされていい雑事は、この世に一つもありません――彼女は、いつもそう言う。
俺は、ずっと考えていた。
暦は、俺を神様と呼ぶ。俺の物語がなければ、あの夜を越えられなかった。だから命綱みたいに俺にすがる。世話をして、支えて、俺が書くことだけを守ろうとする。
それは、たしかに尊いものだと思う。
でも。
「もし、俺が、書けなくなったら」
俺は、言った。
「もし、俺がいなくなったら。……君はまた、あの夜に、戻るのか」
暦は、答えなかった。
答えられない、という沈黙だった。
俺は、その沈黙の色を知っていた。あの六畳で、もし、あの日やめていたら、と聞いたときと同じ色だ。あのとき彼女は、わからない、と答えた。ただ、あなたが消えたら朝が二度と来ないと思った、と。それから、微笑んだ。
「それが、こわいんだ」俺は続けた。「君の夜を越える理由が、俺ひとりしかないってことが。俺は、神様なんかじゃない。ただの、猫背で、貧乏で、締切に追われる高校生だ。そんな一人に、君の命がぜんぶ懸かってるなんて、俺は、背負いきれない」
「背負ってくださいなんて、言っていません」
暦の声が、震えた。
「わたしは、ただ、あなたを信じているだけです。それの、なにが、いけないのですか」
俺は、言葉に詰まった。
いけなくは、ないんだ。彼女の信仰を否定したいわけじゃない。あの三年間の零時二分の記録を、拙い物語だと切り捨てられたら、俺だって耐えられない。それは、彼女の生きてきた証で、俺の書いてきた証でもある。
ただ――このままでいいのか、と。
俺が神様でいる限り、暦は、俺なしでは夜を越えられない人のままだ。命綱を一本きりにして、その一本に全体重をあずけて生きている。もし、その綱が切れたら。想像するだけで、指の先が冷たくなった。
作家なんて、いつ書けなくなるかわからない。スランプもある。事故だってある。
想像じゃ、なかった。何度も、そうなりかけている。俺が自分でも気づいていなかった諦めを、この人は読点の位置ひとつで嗅ぎ取って、雨の中を走った。次に俺が折れるとき、彼女はまた走るんだろう。走って、間に合わなかったら。
あの日記を、思い出した。
『発声。失点、三』『ピアノ、四十分。失点、一。左手』
十歳の彼女は、毎晩、自分に点をつけていた。三年前、それをやめて、代わりに俺の更新時刻を書きはじめた。
やめたわけじゃ、なかったんだ。この人は、書く相手を、変えただけだ。
だったら――俺が消えたら、この人は、また、自分を数えはじめる。
彼女を生かした物語が、いつか彼女を殺しかねない。その危うさが、見えてしまった。見えてしまった以上、知らんふりは、できなかった。
「わたしは」
暦が、ぽつりと言った。
「神様のいない世界を、もう、考えられません」
窓に、彼女の横顔が映っていた。夜景の光が、灰色の瞳の中でにじんでいる。
「あなたが書いてくださる限り、わたしは生きていけます。だから、ずっと、書いていてほしい。それだけを、願ってきました。……それの、どこが、危ういのですか」
その言葉に嘘は、なかった。彼女は本気でそう信じている。俺が書き続ける限り、自分は大丈夫だと。
俺は、その横顔を見ながら思った。
危ういのは、たぶん、俺のほうも同じだった。
暦の一を失えば、俺もまた書けなくなる。俺たちは互いを命綱にして、片方が落ちれば、もう片方もいっしょに落ちる。支え合っているようで、二人で崖のふちに立っているだけなのかもしれなかった。
それは、愛と呼ぶには、少し、こわい形をしていた。
神様と、信者。
その名のままでは、たぶん、俺たちは、いつか一緒に、沈んでしまう。
かといって、この信仰を無理やり引き剥がす気も、なかった。それは、彼女を三年間、生かしてきたものだ。乱暴に否定していいものじゃない。
だから、俺は、間の言葉を探していた。
「暦」
俺は、夜景に背を向けて、彼女に向き合った。
「俺は、君に、神様のいない夜も、越えてほしいんだ」
暦の唇が、なにか言いかけて、止まった。
そのまま、長い沈黙が落ちた。
冬の夜が、二人の間で、静かに更けていった。
「もし、俺がいなくなったら。君はまた、あの夜に、戻るのか」。目をそらさずに、いちばん怖いところを二人で見つめる誠実さに頷けたら【いいね】を。間の言葉を探す蓮の続きは、ブクマで。




