エピローグ たった一人の、最初の読者へ
俺の新作が公開されたのは、八月八日の零時だった。
もう、PVを気にする必要はなくなっていた。投稿すれば一晩で何万という人が読む。書籍化も続刊も勝手に決まっていく。あのころ、指先を冷やしながらゼロの並ぶ管理画面を更新していた男は、もうどこにもいない。
それでも、俺は零時に投稿した。
昔と同じ時刻に。
反映のラグで、表示されるのは二分後。
その、たった二分を、俺は今も大事にしている。何万のPVが付こうと、俺にとっての本当の意味はあの二分の中にある。
それに、今度の新作はこれまでと違った。異世界の姫君の話じゃない。俺と、あの人の話だ。あの零時二分から始まった、俺と君の、ぜんぶ。書き出しの一行は、もう決めていた。
――学校一の氷の令嬢が、俺の部屋にいる。
作品の名前は伏せてある。けれど俺は、その物語を、心の中でたった一つの呼び名で呼んでいた。零時に更新を待ちつづけた人が、俺にくれた名前で。
***
「先生」
暦が、俺のとなりに座った。
タワーマンションの窓の外は、夏の夜景だった。二人で一つの画面をのぞき込む。
零時二分。
新作の最初の話が、世界へ出ていった。
「読んでも、いいですか」
「君が、いちばん最初だ」
暦は頷いて、画面に指を伸ばした。
三年間、たった一人で俺の物語を読んできた人。ゼロの夜に、必ず一を灯してくれた人。その人が今も、いちばん最初に俺の言葉を受け取ってくれる。零時二分の、となりで。
彼女の指が、本文の前で、止まった。
いちばん上に、俺が置いた、一行の献辞。
暦の瞳が、それを、追いかけた。
『――たった一人の、最初の読者へ』
暦は、しばらく、動かなかった。
やがて、その灰色の瞳から、涙が、一粒、こぼれた。
いつか、暗い部屋で、たった一行のために泣いた夜と、同じ涙だったのかもしれない。けれど、あのときとは、まるで違う涙だった。
もう、朝が来なくていい、なんて、思っていない顔だった。
「わたしの、ことですか」
「ほかに、誰がいる」
俺は、笑った。
「三年間、俺の話に、いちばん最初に付いてくれた、たった一つの一。……あれがなかったら、俺は、この一行を書ける場所まで、来られなかった。だから、これは、君に捧げる話だ」
俺の物語の凄さなんて、俺にはよくわからない。
文章がうまいわけじゃない。財閥が押し上げた数字も、俺のものじゃない。書籍化も平積みも、正直、いまだにぴんと来ない。何万というPVも、俺の手のひらの上ではただの数字だ。あたたかくも、冷たくもない。
はじめて、たった一つの「1」を見たときの、あの、指先があたたかくなる感じ。あれだけが、俺にとっての本物だった。
でも、ひとつだけ、確かなことがある。
俺の書いた言葉が、一人の人間を、生かした。
もう朝が来なくていいと思っていた夜に、たった一行が、その人を繋ぎ止めた。零時二分の更新が、その人の、明日を待つ理由になった。
数字でも、名声でもない。
一人の命を、生かした。
それだけが、俺が三年、書き続けた意味の、全部だった。
暦は、涙を拭って、微笑んだ。
そして、いつかの夜と同じ言葉を、けれど、まるで違う響きで口にした。
「明日を待つ理由が、一つでもあれば」
彼女は、俺を見た。
跪きも、氷りもしない、ただの、となりの読者の目で。
「人は、夜を越えられる。……先生の、いちばん好きな一行です」
「ああ」
俺は、頷いた。
「君の、いちばん好きな一行でもあるだろ」
暦は笑って、それから、画面の隅の日付に目を留めた。
「……なぜ八月八日を、連載開始日に選ばれたのですか」
「……内緒だ」
八月八日。丸が二つ並んで、指輪が二つ並んでいるように見えるから、そう呼ぶ人がいるらしい。ペアリングの日、と。それに、8は、横に倒せば、終わらないという記号になる。
これから先ずっと、この人に新しい話を届けるつもりの男が、その一話目を出す日として。これ以上の日付を、俺は思いつかなかった。……口が裂けても、言えないけれど。
「そうですか」
暦は、それ以上は聞かなかった。ただ、口もとが、ゆるんでいた。
零時二分の更新を、一秒の狂いもなく記録しつづけてきた人だ。この日付の意味に気づかないわけが、なかった。
外では、夏の夜が静かに更けていた。
暦は、画面をスクロールして、俺の新しい話を読み始めた。となりで、その横顔を、俺はそっと盗み見た。ここで少し、眉が動く。ここで、口もとがゆるむ。たった一人の読者が、俺の言葉を、一行ずつ受け取っていく。
その横顔を見ているだけで、俺は、また書けると思った。
零時二分は、もう、孤独な祈りの時刻じゃなかった。二人で次の話を待つ、いちばんあたたかい時刻に変わっていた。
この物語を、俺は、たった一人のために書いた。けれど、この物語が、いつか、まだ見ぬ誰かの零時二分にも届くかもしれない。
俺は、また、書くだろう。
彼女は、また、いちばん最初に、読むだろう。
一生分の連載を、約束したから。
神様と信者じゃなく。作家と、読者として。
俺たちの物語は、ここから、ようやく、始まっていく。
『――たった一人の、最初の読者へ』。三年分の零時二分が、この一行に、静かに返ってくる。読み終えて胸がいっぱいになったら【泣ける】と【にこにこ】を、そして読み切った満足を、ぜひ【★評価】に乗せてください。ここまで見届けてくださって、ありがとうございました。
(世界観の解説とあとがきを note に書きました。「冬野結 note」で検索!)




