第9話 もう、君に読ませたい話は
俺は、幼馴染に、静かに別れを告げた。
仕返しじゃない。ただ、もう、渡すものが、何もなかっただけだ。
***
「蓮、お願い。わたし、もう、あなたしかいないの」
優奈は、涙をこぼしながら、そう言った。
「わたし、これからは、ちゃんと蓮の小説、読むから。いちばんの読者になるから。だから――」
俺は、その言葉を、最後まで聞いた。
三年前だったら、この一言で、俺は、また舞い上がっていたかもしれない。優奈に読んでもらえるなら、それだけで。ずっと、そう思っていた時期も、あった。
でも、もう、遅かった。
「優奈」
俺は、静かに、名前を呼んだ。
「三年前、俺が原稿を見せたとき、君は、なんて言ったか、覚えてるか」
優奈の肩が、びくりと震えた。
「イタい、って言ったんだ。誰が読むの、って。……あのとき、君は、一行も、読まなかった。読もうともしなかった」
責めているんじゃなかった。ただ、事実を、確かめているだけだった。
「今も、同じだ。君が読みたいのは、一位になった俺の話じゃない。一位っていう、数字のほうだ」
優奈は、何も言い返せなかった。
***
俺は、続けた。声を、荒らげはしなかった。
「俺、たった一人でいいから、俺の話を、ほんとうに読んでくれる人のために、書きたいんだ。数字とか、順位とかじゃなくて。俺の書いた一行に、生かされてくれる、そういう一人のために」
優奈の目から、涙が、また一粒、落ちた。
俺は、まっすぐ、その目を見て、言った。
「だから――もう、君に読ませたい話はないんだ」
仕返しの言葉じゃなかった。怒りも、恨みも、そこにはなかった。
ただの、別れの言葉だった。
優奈は、しばらく、俺を見つめて。それから、こくり、と、ちいさく頷いた。何かを、ようやく諦めた顔だった。
俺は、頭を下げて、昇降口を出た。
木枯らしが、思ったより、冷たかった。振り返らなかった。それでよかったんだと思う。仕返しは、何も生まない。俺は、ただ、自分の書きたい相手を、はっきりさせただけだ。
三年前、あの言葉に折れたときの俺は、たしかに惨めだった。でも、あの惨めさがなかったら、俺は書き続けなかったかもしれない。書き続けなかったら、零時二分の、あの「一」とも、出会わなかった。
だから、優奈を、恨む気にはなれなかった。
ただ、もう、俺の物語は、あの子のためには、開かれない。それだけの、ことだった。
***
その夜、俺は、タワーマンションへ帰った。
暦は、いつものように、俺を迎えた。湯呑みの温度も、指出し手袋も、何もかも、いつもと同じだった。
「おかえりなさいませ、神様」
俺は、原稿に向かおうとして――ふと、手を止めた。
机の隅に置かれた、革表紙の分厚いノート。俺の全話、全更新時刻、全誤字の直しまで記録された、あの聖典ノート。
そして、いつだったか、暦がこぼした言葉。
『わたしは、あの話がなかったら、今、ここにいません。文字どおり、いないんです』
どんな声も届かない夜を、俺のたった一行で越えた人間が、たしかにいる。中庭で、暦は、そう言って泣いた。
俺は、今まで、その言葉の底を、覗くのが、こわかった。
彼女が、たった一人でくぐってきた夜が、どういう夜だったのか。その夜に、俺の話が、どんなふうに滑り込んだのか。それを本当に知ってしまったら、俺は、この人の重さを、まるごと引き受けることになる。逃げ場は、なくなる。
だから、ずっと、聞かずにきた。信仰の言葉として、きれいなまま、遠ざけてきた。
でも、それは、ずるいことだった。
暦は、俺の話を、命綱にしてくれた。全校の前で、俺のために頭を下げてくれた。私怨の刃を、俺の一言で、鞘に納めてくれた。この人は、いつも、俺のぜんぶを引き受けている。
なのに、俺だけが、この人のいちばん深いところから、目をそらしている。
もう、逃げないと決めたばかりだった。優奈から逃げないと決めたのと、同じように。
「暦」
俺は、ペンを置いて、この人のほうを向いた。
「君が、俺の話に、救われたって言った、あの夜のこと。……ちゃんと、聞かせてくれないか」
暦の、灰色の目が、ゆっくりと、見開かれた。
その奥で、長いあいだ閉ざされていた扉が、かすかに、軋んだ気がした。
「もう、君に読ませたい話はないんだ」。仕返しでも恨みでもない、ただの静かな別れに頷けたら【いいね】を。蓮がようやく向き合う「あの夜」の続きは、ブクマで。




