第1話 失点、六
冬の入り口の寒い夜だった。
俺は暦を連れて、あの六畳のアパートに戻った。
もう住んではいない。段ボールも本の山も、とっくに片付いた。それでも暦は、この部屋を解約しなかった。畳も、切れかけの蛍光灯も、あの頃のままにしてある。訊いたら、「消したくなかったのです」と、それだけ言った。
「なつかしいですね」
暦は、玄関で靴をそろえて言った。学校で見せる氷の令嬢の声ではなく、家で出る、やわらかいほうの声だった。
底冷えのする部屋だった。俺は真ん中にあぐらをかいて座った。暦はその少し離れたところに、いつものように膝をそろえて座る。
外を木枯らしが通り過ぎていった。
優奈のことも、翔太のことも、もう終わった。
俺の連載は、今や何万というPVを集めている。三年前、PV一桁だった男の話とは思えない。
でも、俺はずっと、いちばん大事なことを、聞けずにいた。
暦が、いちばん最初に言った言葉。「あなたに救われた」。あの一言の底に、何があるのか。
知るのが、こわかったんだと思う。聞いてしまえば、俺は、数字や名声とはまるで違う重さを背負うことになる。
でも、もう、逃げたくなかった。
「暦」
俺は畳の目を見ながら言った。
「聞いても、いいか」
暦の手が、止まった。
「あの言葉のこと。……救われた、って、君は言っただろ。いちばん最初に。あれ、どういう意味だったんだ」
しばらく、返事はなかった。
じじ、と蛍光灯が鳴った。
暦は、持ってきた鞄に手を入れた。
また、あのノートだろう、と俺は思った。革表紙の、分厚い手記。更新時刻。誤字の直し。考察。相関図。厚みも中身も、夏にあの棚で見てしまったから、もう知っている。
けれど、出てきたのは違うものだった。
革ではない。ありふれた布張りの、古いノートだった。角が丸くすり切れて、背が二度、直された跡がある。何冊もあるうちの最後の一冊なのだと、暦は言った。
見たことが、なかった。
「これは、まだ、お見せしていないものです」
暦は、それを両手で持っていた。俺の全話を綴じたファイルを扱うときとは、違う持ち方だった。もっと遠くのものに、触るみたいな。
「わたしの、日記です」
「……日記」
「あなたに出会う、前の」
俺は受け取った。
一ページ目を開いて、最初に思ったのは——字が、幼い、ということだった。
まだ十歳かそこらの子どもの字だ。線がふらついている。それなのに、書いてある形式だけは、恐ろしいほどきちんとしていた。
『六時起床。発声。失点、三』
『ピアノ、四十分。失点、一。左手』
『夕食。姿勢。失点、二』
『本日、失点合計、六』
俺は、ページをめくった。
同じだった。次の日も。その次の日も。日付と、項目と、失点。感想も、愚痴も、ない。天気すら、書いていない。
「これ」
声が、うまく出なかった。
「これ、君が、書いたのか」
「はい」
「……お母さんが、つけてたんじゃ、なくて?」
「母は、何も、書いておりません」
暦は、静かに言った。
「ですから、わたしが、数えました。……次は、間違えないように」
めくり続けた。
字がだんだんうまくなり、線がまっすぐになって、あの几帳面な筆跡へ近づいていく。それと同じ速さで、失点の欄が長くなっていった。
叱られた記録は、一つもなかった。誰も、この子を怒鳴っていない。手を上げてもいない。ただ、静かに、失望していただけだ。
だから、この子は自分で自分を採点した。毎日。何年も。一日も、抜かさずに。
俺は、ページの端が持てなくなった。
そして——ぞっとしたことが、一つ、あった。
この日記の書き方は、あの革表紙のノートと、同じだった。日付。項目。取りこぼしを一つも許さない、あの形。
最後の日付は、三年前だった。
そこで、日記は終わっていた。その先は、白紙のまま、何十ページも続いている。
俺は、何か言おうとした。
言葉が、出てこなかった。
俺がこの子にかけてやれる言葉なんて、全部、俺がもう書いてしまったものばかりだ。這ってでも生きろ。明日を待つ理由が一つでもあれば。……この子は、それを三年、読んできたのだ。
俺が今から言えることは、この日記の隣に、もう、置いてある。
「暦」
名前を呼ぶだけで、精一杯だった。
俺は、白紙のページに指を置いた。
「ここで、終わってる。三年前で。……なんで、だ」
いつか、ちゃんと話します。ぜんぶ。——彼女は、あの日、そう言った。
「――あの夜、君に、いったい、何があったんだ」
暦は、ゆっくりと目を閉じた。
長いまつげだった。
そして、ずっと閉じていた扉を初めて自分から開けるみたいに、静かに口を開いた。
「聞いて、くださいますか」
俺は、頷いた。
「あの夜のことを。……わたしが、どうして、あなたを神様と呼ぶのかを」
蛍光灯が、また、じじ、と鳴った。
暦の声は、もう、氷の令嬢のものでも、家でのやわらかいものでもなかった。
もっと、奥の。誰にも見せたことのない、いちばん深いところの声だった。
誰にも叱られないまま、幼い字で自分に点をつけ続けた一冊。かける言葉が、どこにも見つからない——その静けさに息を詰めたら【泣ける】を。三年前で途切れた白紙の理由は、ブクマして次話で。




