第6話 あの人たちの、家族は
俺は、財閥の令嬢の手を掴んで、その怒りを止めた。
自分でも、なぜそんなことをしたのか、掴んでから考えた。
***
暦の手首は、驚くほど細くて、冷たかった。
この人の手を、俺のほうから握ったのは、これが初めてだった。いつも、世話をされ、湯呑みを置かれ、手袋を揃えられる。差し出されるのは、いつも暦のほうで、俺は、ただ受け取っているだけだった。
その手を、俺は、止めた。
「……神様?」
暦が、灰色の目で、俺を見上げる。掴まれたことより、俺がそれを望んでいないことのほうに、戸惑っている顔だった。
俺は、うまく言葉にできないまま、口を開いた。
「やめてくれ。あの会社を、切るのは」
「どうして」
暦の声が、ほんの少し、尖った。
「あの人は、神様の話を笑ったんですよ。それでも、庇うんですか」
「翔太を庇うんじゃない」
俺は、首を振った。
「あの会社には、翔太の父親だけじゃなくて、働いてる人が、大勢いるんだろ。工場で、資材を運んで、印刷して、その給料で、飯を食ってる家族が」
暦が、黙った。
「その人たちは、俺の話を笑ってない。俺のことなんて、名前も知らない。翔太が俺に何をしたかなんて、一生、関係のないところで生きてる」
***
俺の頭の中に、自分の書いた話の一行が、ふいに浮かんだ。
泥を這ってでも生きろと、俺はずっと書いてきた。惨めでも、報われなくても、それでも生きようとする人間を、全肯定すると。この世界のいちばん底で、泥にまみれて、それでも明日を待っている人間の味方でいたいと。
その俺のために、暦が、誰かの飯の種を、私怨で、上から握りつぶそうとしている。工場で資材を運ぶ人。伝票を打つ人。その給料で、子どもに飯を食わせている人。俺の顔も名前も知らない、大勢の人を。
「そんなの、俺の書いてきたものと、まるっきり逆じゃないか」
暦の手から、力が抜けていくのが、掌に伝わった。
「あいつが俺を笑ったのは、あいつの問題だ。俺が、あいつの父親の会社を潰す理由には、ならない。ましてや、そこで働く、顔も知らない人の生活を、巻き添えにする理由には」
俺は、掴んでいた手を、そっと離した。
「暦の気持ちは、うれしいよ。本気で、怒ってくれてるのは、わかる。……でも、その怒りで、関係ない人を泥に沈めるのは、やめてくれ。俺の神様が、そんなことをする人だって、思いたくない」
言ってから、恥ずかしくなった。神様なんて呼ばれてるのは、俺のほうなのに。
暦は、しばらく、動かなかった。
***
やがて、暦は、スマホを、机に置いた。
灰色の書類も、そっと、閉じた。
「……ずるい人ですね、神様は」
暦が、ぽつりと言った。うつむいた頬に、髪がかかって、表情は見えなかった。
「わたし、あなたを笑った人間を、絶対に許さないと、決めていました。それが、あなたを守ることだと、思っていました」
顔を上げた暦の目が、潤んでいた。氷点下じゃない。あの、俺の話を語るときの、光の差した目だった。
「なのに、あなたは、あなたを笑った人の、家族の心配をする」
暦は、微笑んだ。泣きそうな顔で。
「そういう人だから――わたしは、あなたの話に、心を動かされたんだと思います」
俺は、何も言えなかった。
俺の書いてきたものは、たぶん、たいした文章じゃない。垢抜けなくて、泥臭くて、笑われても仕方のない話だ。でも、そこに書いた「生きろ」だけは、嘘じゃない。その嘘のなさを、暦は、誰よりも先に、見つけてくれた人だった。
だったら、俺は、その言葉のとおりに生きなきゃいけない。自分の書いた「生きろ」に、恥じないように。
「わかりました。あの会社には、手を出しません。神様が、そう言うなら」
暦は、灰色の書類を、机の引き出しに、しまった。
私怨の刃は、鞘に納められた。俺は、ほっとした。
これでいい、と思った。暦が誰かの暮らしを壊すのを、俺は、見たくなかった。この人の手を、そんなことで汚させたくなかった。俺の神様は、俺の話を、いちばん深いところで読んでくれた人だ。その手は、人を沈めるためのものじゃない。
でも、暦は、引き出しを閉める間際に、ひとつだけ、小さな声で、付け加えた。
「――わたしが、何もしなくても」
その横顔に、俺の知らない、静かな確信のようなものが、浮かんでいた。
「あの人たちの家族は、関係ない」。自分を笑った相手の、そのまた先の顔まで見てしまう蓮の器に頷けたら【いいね】を。私怨の刃が鞘に納まる、その続きはブクマで。




