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第5話 許せない、という氷

「あの会社を、切ります」


暦(こよみ)は、俺の代表作を笑った翔太(しょうた)の父親の会社を、財閥の令嬢の一言で、消してしまえると言った。


しかも、それを、いちばん静かな声で言った。


***


翌日の夜。暦は、あの灰色の書類を、また机に出してきた。


「定例監査を、待つまでもありません。契約の更新を、こちらから止めればいいだけです。理由なんて、いくらでも作れます」


俺は、原稿から顔を上げた。


「暦。それ、何を言ってるか、わかってるのか」


「わかっています」


暦は、微笑んだ。氷点下の目のまま、口元だけで。


「あの人は、神様の話を、大勢の前で笑いました。くだらないと。ひとりも読んでいないと。――そういう人間を、わたくしは、この世界に、置いておきたくないんです」


背筋が、ぞっとした。


これが、暦の独占欲だと、俺は知っていた。この人が氷点下になるのは、俺自身にじゃない。俺の話を、侮辱した者にだけだ。俺の自由は、指一本ぶんも縛らないくせに。どこへ行こうと、誰と会おうと、暦は決して止めない。鍵だって、かけない。


ただ、俺の書いたものを笑った人間のことだけは、絶対に、許さない。


それが、この人の愛し方だった。ゆがんでいて、まっすぐで、こわい。


「翔太を、こらしめたいってことか」


「いいえ」


暦は、首を横に振った。


「翔太くん個人には、興味がありません。ただ、あの人の足元を支えているものを、静かに、抜くだけです。あの人が、何を失うのかも知らないうちに」


こわい、と思ったのは、暦の言葉に、怒鳴り声も、荒々しさも、ひとかけらもないからだった。


もし暦が、顔を真っ赤にして「許せない」と叫んでいたら、俺はまだ、なだめようがあった。でも、この人は、俺の原稿の誤字を直すのと同じ静けさで、人の暮らしを消そうとしている。感情が高ぶっているんじゃない。とっくに、決めているのだ。


「暦。それは、やりすぎだ」


「やりすぎ、ですか」


暦は、ふしぎそうに、首をかしげた。本当に、わからない、という顔だった。


「神様を笑った人間が、これまでどおりの暮らしを続けることのほうが、わたくしには、よほど、耐えられません」


***


俺は、言葉を失った。


暦の細い指が、灰色の書類の上を滑る。そこに書かれた会社の名前を、契約の期日を、金額を、なぞっていく。まるで、原稿の誤字を直すときの、あの丁寧さで。


こわい、と思った。


でも、それ以上に、俺は、この人の底にあるものを、少しだけ、覗いてしまった気がした。


「暦。なんで、そこまでするんだ」


暦の指が、止まった。


しばらく、沈黙があった。


「……神様には、わからないと思います」


暦は、うつむいた。銀色の髪が、頬を隠す。


「あの話が、ただの物語だと思っている人には。あれを、暇つぶしや、笑いのネタだと思える人には。――絶対に、わからない」


声が、少しだけ、掠(かす)れた。


「わたしは、あの話がなかったら、今、ここにいません。文字どおり、いないんです」


暦は、それだけ言って、口を閉じた。


言い過ぎた、とでも思ったのか、すぐに視線を、灰色の書類のほうへ戻す。けれど、一度こぼれた言葉は、もう、部屋の空気に、静かに沈んでいた。


俺は、息を呑んだ。


暦が「わたし」と言った。家で素が出るときの、あの「わたし」だ。学校の氷の令嬢が絶対に崩さない仮面が、この言葉のときだけ、いつも剥がれ落ちる。


いないんです、と暦は言った。今、ここに、いない。


その言葉の底には、俺がまだ知らない、深くて暗い何かが、沈んでいる。俺の話を読んでいた、あの零時二分(れいじにふん)の夜。あの人は、いったい、どんな夜を、越えていたんだろう。


それ以上は、何も言わなかった。暦は、決して、その先を語らなかった。ただ、そのひと言だけで、俺は、この人の氷の底に、俺の知らない、深くて暗い夜があることを、はっきりと感じた。


俺の話は、この人にとって、暇つぶしなんかじゃない。命綱だったのだ。だからこそ、それを笑う人間を、許せない。


暦は、顔を上げた。氷点下の目が、もとに戻っていた。


「明日、担当の者に、話を通します」


そう言って、暦は、スマホに手を伸ばした。


その指が、画面に触れる寸前で。


俺は、気づいたら、その手首を、掴んでいた。


原稿の誤字を直すのと同じ静けさで、人の暮らしを消そうとする。「あの話がなかったら、今ここにいません」——その底の暗さにぞくりとしたら【びっくり】を。掴んだ手首の続きは、ブクマで。

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