第4話 帳簿の、影
翔太の父親の会社が、如月グループの下請けだということは、少し前に暦から聞いていた。世界は、存外せまいと。
でも、その帳簿が、はじめから濁っていたことまでは――そして、暦がそれを、ずっと前から知っていたことまでは、俺は、思ってもみなかった。
***
その夜、タワーマンションの最上階。
俺が原稿に向かっていると、暦がいつものように、湯呑みを俺の右手のちょうど届く角度に置いた。指を冷やさぬための、あの指出し手袋も、机の端にそっと揃えてある。
俺が学校でどんな一日を過ごしたか、暦はもう、ぜんぶ知っている顔をしていた。優奈が俺の袖を掴んだことも、翔太が俺を下駄箱で嘲ったことも。誰から聞いたのか、聞いても、たぶん答えないだろう。この人は、俺の周りのことを、俺以上に、こまやかに把握している。
「神様。ひとつ、お伝えしておきたいことが、あります」
暦が、静かに切り出した。
「以前、お話ししましたね。翔太くんのお父様の会社が、如月グループの下請けだと」
俺は、うなずいた。少し前に、この人から聞いた話だ。
暦は、聖典ノートの隣に、別の分厚いファイルを置いた。革表紙のノートとは違う、事務的な、灰色の書類の束だった。
「あの会社の帳簿に、おかしなところがあります。……あのとき、お伝えしなかったのですが」
俺は、ペンを止めた。
あの夜――翔太の名前が出たとき、暦の微笑みが、ほんの一瞬だけ、冷たく見えた。あれは、気のせいなんかじゃ、なかったのだ。
「知ってて、黙ってたのか」
「言う必要が、ありませんでしたから」
暦は、灰色の書類の束に、そっと指を置いた。
「これは、あの会社の、取引の記録です」
***
俺は、その書類を、うまく読めなかった。数字と専門用語の羅列だ。
でも、暦の細い指が、ある一行の上で止まったとき、俺にもわかった。
そこだけ、数字が、不自然だった。
「納品されたことになっている資材が、実際には、どこにも入っていません。伝票だけが、宙に浮いています」
暦の声は、いつもの、感情のない氷点下に戻っていた。
「架空の取引です。下請けが、元請けに水増しして請求する。よくある、けれど、決してやってはいけない手口です」
俺には、経営のことも、帳簿のことも、まるでわからない。それでも、暦の指がなぞった一行の、その居心地の悪さだけは、伝わってきた。あるはずのものが、ない。ないはずのものに、金が払われている。子どもが見ても、どこか歪んでいる、その感じ。
「これ、一回や二回じゃ、ないんだよな」
「ええ。何年も、少しずつ。額を、ばれない程度に。……ばれないと、思い込んでいたのでしょう」
「……それ、まずいんじゃないのか」
「ええ。とても」
暦は、灰色の書類を、指の背で、そっと撫でた。まるで、汚いものに触れるみたいに。
「何年も、誰にも、気づかれずにか」
「如月グループでは、毎年、すべての取引先に定例監査が入ります。……ですが、通年の監査は、数字の辻褄さえ合っていれば、それで通ります。伝票の一枚一枚を、現物と突き合わせることまでは、しません」
「じゃあ、見落とされてた、ってことか」
「見落とされていた、というより――そもそも、そこまで深くは、見ていないのです」
暦は、書類の角を、指先で揃えた。
「ですから、あの人たちは、思い込んだのでしょう。この程度なら、ばれない、と」
俺は、背筋がすっと冷えるのを感じた。
ばれない。何年も、ばれなかった。だから、これからも、ばれない。――そうやって、少しずつ積み上げてきた嘘が、あの灰色の束の中に、そのまま残っている。
消えたわけじゃないのだ。ただ、誰も、見ていなかっただけで。
翔太は、この後ろ暗さを、たぶん漠然と知っている。知っていて、父の名刺を笠に着て、俺の話を「金の力」と笑ったのだ。自分の実家こそが、金の力で成り立っているのを棚に上げて。
でも――と、俺は思った。
「その会社には、翔太以外にも、働いてる人が、いるんだよな」
暦は、答えなかった。
俺の言葉が聞こえなかったふりをして、灰色の書類を、静かに閉じた。
その横顔が、いつもの信仰の顔とも、氷の令嬢の顔とも違って見えた。
俺は、翔太の、あの余裕の笑みを思い出していた。父の名刺をちらつかせ、実家の余裕を匂わせ、俺の話を「金の力」だと笑った、あの顔を。その余裕の足元が、こんな砂の上に立っていたなんて。
翔太は、たぶん、うすうす、感づいている。感づいていて、見ないふりをして、その上でふんぞり返っている。自分の家こそが金の力で回っているのを棚に上げて、俺を見下ろしていたのだ。
「暦」
「――神様は、書くことだけ、考えていてください」
暦は、微笑んだ。けれどその目は、笑っていなかった。
灰色の書類の背表紙が、蛍光灯の下で、鈍く光っている。
そこに書かれた会社の名前を、暦の指が、もう一度、ゆっくりと、なぞった。
俺は、その指の動きが、何を意味するのか、まだわかっていなかった。
「金の力」と蓮を笑った男の足元が、砂の上に立っていた。宙に浮いた伝票の影に、ひやりとしたら【びっくり】を。誰も見ていなかっただけの嘘の、その先は、ブクマで。




