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第1話 冬野結は、この教室にいる

結論から言う。俺の秘密は、朝のホームルームが始まる前に、学校じゅうに知れ渡っていた。


かじかんだ指で教室のドアを開けた瞬間、空気でわかった。いつもなら俺を視界にも入れない連中が、いっせいにこっちを向く。ざわ、と声が引いて、次の瞬間、堰を切ったように膨らんだ。


「マジでこいつ?」「冬野結って、あの秋月(あきづき)かよ」


机の上に、何台ものスマホが伏せられている。ちらりと見えた画面に、俺の新連載が映っていた。『|白銀の姫と、夜明けの物語《はくぎんのひめと、よあけのものがたり》』。投稿サイト「物語の樹(ものがたりのき)」の総合ランキングで、第一位。


その作者が、この学校の二年にいるらしい。――ゆうべ、そういう書き込みが回ったのだと、あとで知った。


俺は、自分の席まで歩くだけで、足がもつれそうだった。


三年間、誰にも言わずに書いてきた。昼は冴えない高校生、夜だけが物語を綴る俺。二つ目の顔は、絶対にひとに見せないはずだった。


それが、こんなにあっけなく剥がされるとは思わなかった。


***


昼休みには、もう別の生き物になっていた。


「秋月くんって、実はすごい人だったんだね」


一度も口をきいたことのない女子が、笑顔で話しかけてくる。今まで俺の机の横を、ゴミでも避けるように通っていた男子が、肩を組んでくる。


「なあ、サイン書いてくれよ。今のうちにさ」


あのころの俺なら、舞い上がっていたかもしれない。今は、ただ寒かった。


こいつらが見ているのは、第一位という数字だ。俺の書いた話じゃない。一行だって、読んじゃいない。


俺は、数字で人が態度を変える瞬間を、はじめて間近で見た。そして、たった一つのことを思い出していた。


PVが一桁だったころ。誰にも読まれなかったころ。それでも毎晩、零時二分(れいじにふん)に、たった一つだけ既読がついた。


あの「一」は、この騒ぎのどこにもいない。


――いや。


いる。この教室に、いる。


数字が三万になっても、俺が本当に書いていた相手は、あの「一」だけだった。それが、この騒ぎの、いちばん静かな場所に座っていることを、俺は、もう知っている。


そう思うと、不思議と、頭が冷えた。


「秋月くん、次のサイン会いつ?」「書籍化するんでしょ、印税やば」


耳に流れ込んでくる言葉のどれもが、俺の話じゃなくて、俺にくっついた数字の話だった。この人たちは、俺が三年間、雨の日も風邪の日も休まずに書いてきたことを、知らない。知りたいとも思っていない。


昨日まで俺は、この教室で、いないのと同じだった。今日は、みんなが見ている。けれど、見られているのは、俺じゃない。


同じ場所に立っているのに、まるで違う世界にいるみたいだった。


「なあ、聞いてる? 秋月」


聞いていなかった。俺は曖昧に笑って、視線を逃がした。


教室の反対側。窓際のいちばん奥の席で、(こよみ)が、静かに文庫を閉じるところだった。


***


放課後、下駄箱で、俺は待ち構えられていた。


さっきまで擦り寄ってきた連中とは別の、いつも大きな声で笑っているグループだ。中心にいるのは、翔太(しょうた)優奈(ゆうな)が俺を捨てて乗り換えた、あのイケメン転校生だった。


「冬野結先生じゃん」


翔太が、わざとらしく手を叩く。周りが、どっと笑った。


「いやー、見直したわ。底辺のオタクがコソコソ書いてた小説が、偶然ヒットねえ。財閥の弱みでも握って、宣伝でもさせたんじゃねえの。実力じゃなくて、金の力ってやつ?」


俺は、何も言い返せなかった。金の力。半分は、当たっている。如月(きさらぎ)グループが動かなければ、俺の話は今も一桁のままだった。


「なあ、正直に言えって。ちょっと有名になったからって、いい気になってんじゃねえの」


取り巻きの一人が、囃し立てる。翔太は、それを手で制して、俺の顔を、上からのぞき込んだ。甘い顔立ちが、このときだけ、冷たく歪んで見えた。


「こういう地味なやつが、たまたまバズると、勘違いすんだよな。おまえの書いてるやつ、俺、ちょっと読んでみたけど。あんなの、まともな人間が読むもんじゃねえよ」


読んでいないくせに、と思った。でも、言えなかった。


でも――と、思う。


金では、あの零時二分の「一」は、買えない。


「だんまりかよ。つまんね」


翔太は鼻で笑って、俺の肩をわざとぶつけて通り過ぎた。取り巻きが、後ろに続く。


開けはなたれた昇降口から、冷たい風が、吹き込んできた。俺は、下駄箱の前で、しばらく動けなかった。


明日から、この学校で、俺はどんな顔をして過ごせばいいんだろう。手のひらを返してすり寄る連中と、金の力だと嘲る連中と。そのどちらにも、俺の書いたものは、届いていない。


嵐は、まだ始まったばかりだった。


そして俺は、まだ知らなかった。


この騒ぎの中で、いちばん静かに、いちばん危険なものが、動き出そうとしていることを。


窓際の奥の席の、あの銀色が。


昨日まで空気だった男に、手のひらを返して群がる教室。数字で態度が変わる瞬間の寒々しさに「ぞっ」としたら【びっくり】を。金では買えなかった「一」の続きは、ブクマで栞を。

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