第2話 氷の令嬢が、頭を下げた
学校一の氷の令嬢が、全校生徒の前で、底辺作家の俺を庇った。
その光景を、俺は一生、忘れないと思う。
***
事件は、翌日の昼、中庭で起きた。日は差していたが、風は、冷たかった。
騒ぎを聞きつけた生徒が、俺の周りにぐるりと集まっていた。中心には、翔太。手にはスマホ。画面には、俺の署名作――『泥の中の星』が開かれていた。
「なあ、みんな聞いてくれよ。これが冬野結先生の代表作な」
翔太は、わざと芝居がかった声で、俺の文章を読み上げた。泥を這ってでも生きろと繰り返す、あの泥臭い話を。読み上げながら、げらげらと笑う。
「うわ、くさっ。なにこれ、生きろ生きろって、宗教かよ」
どっと、笑いが起きた。
「今売れてる小説も、どうせ金積んで一位にしただけだろ。まともに読んだ奴なんて、ひとりもいねえっての」
俺は、うつむいた。反論の言葉は、ひとつも出てこなかった。
くさいのは、知っている。垢抜けないのも、知っている。それでも書いてきた。誰にも読まれなくても。
――ひとりも、いない。
その言葉だけが、胸に刺さった。ひとりも、読んじゃいない。そうかもしれない。
三年間、俺は、誰のために書いてきたんだろう。零時二分の、たった一つの既読。あの一が、暦だったことは、もう知っている。
だが、こうして笑われていると、わからなくなる。俺の泥くさい話が、あの人にとって、本当に必要なものだったのか。「救われた」なんて、そんな大それたことが、この、ひとりも読んじゃいない話に、起きたんだろうか。
俺が惨めさに耐えるために、あの三年ごと、都合よく思い込んでいただけなんじゃないか。
翔太の笑い声が、遠くで反響する。俺は、その場に立っているのが、やっとだった。
いっそ、逃げ出したかった。この中庭から、この学校から、この、剥がされてしまった二つ目の顔から。
そのときだった。
人垣が、割れた。
***
銀色の髪と、コートの裾が、まっすぐ中庭を横切ってくる。
暦だった。誰もが息を呑んで道をあけた。氷の令嬢が、こんな騒ぎに近づいてくること自体が、ありえなかった。
暦は、翔太の前に立った。氷点下の目で、彼のスマホを見下ろす。
「今、あなたが読み上げた一文の、続きを言えますか」
翔太が、たじろいだ。
「は……?」
「『明日を待つ理由が一つでもあれば、人は夜を越えられる』。その一行の重さも知らずに、あなたは笑ったのですね」
しん、と中庭が静まった。氷の令嬢の口から、底辺作家の小説の一節が、一字一句違わずに、こぼれ落ちたのだ。
暦の声が、震えはじめた。白い息が、短く、散った。
「この物語に、希望をもらった人間がいます。どんな声も届かない夜を、この一行だけで越えた人間が、たしかに、います」
翔太が、何か言い返そうとした。
暦は、それを遮った。
「わたくしは――」
そこで、声が、詰まった。
そして、氷が、割れた。
「――わたしは、この話に、救われたんです」
わたし。学校では絶対に崩さない「わたくし」が、全校の前で、素の「わたし」に漏れた。
誰も、動けなかった。
氷の令嬢が、泣きそうな顔をしている。感情のかけらも見せないと言われた、あの暦が。
暦は、俺のほうを振り向いた。そして、大勢の前で、深く、頭を下げた。
「あなたの話は、くだらなくなんて、ない」
俺は、動けなかった。
三年間ずっと、たった一人に向けて書いてきた。その一人が、いま、全校の前で、俺の代わりに頭を下げている。
さっきまで、俺は、疑ったばかりだった。あの三年ごと、思い込みだったんじゃないかと。
思い込みなんかじゃなかった。俺の話に生かされた人間は、いま、この中庭で、銀色の髪と、マフラーの端を地面に垂らして、俺のために頭を下げている。ちゃんと、いた。ずっと、いたのだ。
胸の奥が、じん、と熱くなった。
翔太のスマホを持つ手が、ばつが悪そうに下りていく。周りの笑いは、とっくに消えていた。
暦は、頭を下げたまま、もう一度、はっきりと言った。
「わたしは、この人の――神様の、いちばん古い読者です」
冷たい風が、中庭を渡った。
俺は、この瞬間に、何かが決定的に変わったのを知った。
隠していたものが、二つとも、白日のもとに晒された。俺が冬野結であることと。氷の令嬢が、俺の信者であることと。
でも、暦の氷点下の目が、翔太に向けられたまま動かないのを見て、俺は、別の予感に襲われていた。
この人は、俺の話を笑った人間を――たぶん、許さない。
全校の前で、氷の令嬢が銀の髪を地に垂らして頭を下げる。「わたくし」が「わたし」に漏れた、その一瞬の尊さに胸が熱くなったら【泣ける】と【にこにこ】を。この後に走る予感の続きは、ブクマで。




