第7話 近づいてくる、足音
いちばん近くにいた人間が、いちばん危険だと、俺は、忘れていた。
放課後の教室。窓の外は、もう、暮れかけていた。日が落ちるのが、ずいぶん、早くなった。俺が帰り支度をしていると、優奈が、俺の机の前に立った。
三年間、俺を「イタい」と嗤い、翔太に乗り換えて、俺を捨てた幼馴染。もう、口をきくこともなくなっていた、その優奈が。
「ねえ、蓮」
久しぶりに呼ばれた、その名前に、俺は、身構えた。
「あんた、まだ、小説、書いてる?」
心臓が、跳ねた。
***
俺は、努めて、平静を装った。
「……なんで」
「ネットでさ、話題じゃん。冬野結って覆面作家。特定班が、いろいろ言ってるの」
優奈は、スマホの画面を、俺に見せてきた。
そこには、正体探しの書き込みが、ずらりと並んでいた。更新時刻が学生の生活リズムだとか、地方の書店展開が特定の地域に偏っているとか。そして――作風の分析。
『泥を這ってでも生きろ、っていう、異常に泥臭い全肯定系』
優奈の指が、その一文で、止まっていた。
「あたし、これ読んで、ふっと、思い出したの」
彼女の目が、俺を、じっと見た。
「あんたが、昔、あたしに読ませてきた話。あれも、こういう感じだったよなって」
俺は、覚えている。中学の頃、初めて書いた話を、勇気を出して、優奈に読ませた。感想が、ほしかった。たった一人でいい、誰かに、届いてほしかった。
返ってきたのは、「暗いね」の一言だった。それでも、俺は、書くのをやめなかった。やめられなかった。
その、いちばん古い読者が、いま、俺の前で、俺の正体を、言い当てようとしている。皮肉な話だった。
***
俺は、血の気が引くのを感じた。
優奈は、俺の三年間を、いちばん近くで見てきた人間だ。俺がどんな話を書いていたか、いつ更新していたか、なんとなく、知っている。
「イタい」と切り捨てた、あの話の作風を、皮肉にも、優奈は、覚えていた。
そういえば、と俺は思い出す。優奈は、昔、俺のノートパソコンの画面を、覗き込んだことがあった。何それ、暗い、と鼻で笑って、それきりだった。でも、覗いた、その一瞬を、彼女は、忘れていなかったらしい。
いちばん近くにいた人間の記憶ほど、あとになって、鋭い刃になる。
「まさか、と思うんだけどさ」
優奈は、少しだけ、声をひそめた。
「あの底辺だった蓮が、今バズってる冬野結、なわけ……ないよね?」
その口ぶりには、まだ、半信半疑の響きがあった。ありえない、と思いながら、でも、と、疑っている。天秤が、まだ、揺れている。
ここで、俺が、少しでも動揺を見せたら。
天秤は、一気に、傾く。
「……買いかぶりすぎだろ」
俺は、椅子の背にかけたコートを取って、鞄を肩にかけ、席を立った。
「俺が、あんな才能あるわけないだろ。三年やって、鳴かず飛ばずだった男だぞ。知ってるだろ」
自分で言って、胸の奥が、ちりっと痛んだ。それは、嘘じゃない。でも、いま、真実を隠すために使うと、ずいぶん、みじめな響きがした。
三年間、鳴かず飛ばずだった、という事実。かつては、俺を刺す言葉だった。それを、いまは、盾に使っている。守りたいのは、名声じゃない。あの静かな夜と、たった三件の感想を書いてくれた、誰かの顔だった。
優奈は、「……そりゃ、そうか」と、ほんの少し、力を抜いた。
でも、その目の奥には、まだ、消えない火種が、残っていた。
昇降口を出ると、吐いた息が、白かった。今年、初めてだった。
***
その夜、タワマンで、俺は、暦に、優奈のことを話した。
暦の顔から、また、温度が消えた。
「優奈さん、ですか」
作品を「イタい」と切り捨てた、もう一人の名前。暦が、けっして、忘れていない名前だ。
「勘づかれかけてる。……時間の問題かもしれない」
俺が言うと、暦は、静かに、スマホを取り出した。
そして、あるアカウントの投稿を、俺に見せた。
優奈の、SNSだった。
さっき別れたばかりなのに、彼女は、もう、投稿していた。
『幼馴染がバズ作家かもしれない件。心当たりありすぎて震えてる』
俺は、画面を、凝視した。
まだ、名前は、出していない。確信も、していない。
でも――足音は、もう、すぐそこまで、来ていた。
暦が、静かに、画面を消した。
「……明日、何かが、起きるかもしれません」
その声は、氷のように、静かだった。
いちばん近くにいた幼馴染の記憶が、いちばん鋭い刃になる。SNSに灯った火種の足音に、いやな予感がしたら【びっくり】を。明日、何が起きるのか、続きはブクマで。




