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第6話 あの夜の、話をしよう

(こよみ)が留守にした昼、俺は、書斎の棚の前に、立っていた。


あの日――棚を開けて、革表紙のノートの束を見つけてしまった、あの日から。俺は、この棚を、どこかで、避けていた。厚みは、知っている。中身も、あらかた、見た。更新時刻。誤字の直し。考察。相関図。俺の三年が、一秒の狂いもなく、そこに積み上がっていることも。


ただ、一つだけ、知らないことが、あった。


いちばん古い、一冊の、いちばん最初のページ。そこに、何が書かれているのか。それだけは、まだ、見ていなかった。


俺は、その一冊を、抜き出した。背表紙に、俺のペンネームが、几帳面(きちょうめん)な文字で書かれている。三年前の日付。俺が、初めて『泥の中の星(どろのなかのほし)』の第一話を投稿した、あの日だった。


開いた。


***


最初のページは、ほかのページと、少し、違っていた。


几帳面な、あの筆跡は、同じだ。でも、その一文字一文字が、いつものように、整ってはいなかった。ところどころ、インクが、にじんで、丸く、ぼやけている。


水滴の、跡だった。


一つ、二つじゃない。ページの、あちこちに、乾いた跡が、点々と、残っていた。時間が経っても、消えなかったくらいの。


まるで、このページの上で、誰かが、泣いていたみたいに。


日付は、三年前。俺の、最初の一話の、投稿日。まだ、PVが、一桁だった頃だ。


誰にも読まれていないと思って、それでも書いていた、あの夜。


その夜に――このページの前で、泣いた人が、いた。


***


「見てしまいましたか」


背後から、声がした。


暦が、いつのまにか、戸口に立っていた。氷ではなく、素の、静かな顔で。


俺は、ノートを閉じかけて、やめた。


「この……跡」俺は、訊いた。「これ、もしかして」


暦は、俺の隣まで来て、そのページに、そっと、指を置いた。にじみの、一つに。


「あの日の話を、少しだけ、しましょうか」


***


「あなたの、いちばん最初の一話を、読んだ日のことです」


彼女の声は、静かで、平らだった。


「読んでいるうちに、気づいたら、涙が、止まらなくなっていて。……このページは、その日に、書いたものなんです」


俺は、言葉を、失った。


「文章が、うまいとか。展開が、どうとか。そういうことじゃ、なくて」


暦は、言葉を、探すように、続けた。


「ただ、あなたの書いた、その話が。……こんなわたしにも、未来は明るいという希望を与えてくれている気が、したんです」


***


俺は、しばらく、何も、言えなかった。


驚いて、いたのだと思う。


PV一桁。感想、ゼロ。ランキングの、どこにも、載らない。あの頃、俺の画面に灯っていたのは、零時二分の、一だけだった。


その一が、このノートの、いちばん最初のページで、泣いていた。


自分の書いたものが、誰かを、泣かせる。そんなことが、あるなんて、俺は、思ってもみなかった。


数字じゃ、ない。ランキングでも、ない。


一人だ。俺の話で、泣いた人が、たった一人、いた。ただ、それだけのことが、こんなにも、胸の、奥の、いちばん深いところを、震わせるなんて。


***


暦は、ノートの背を、いとおしそうに、指で、なぞった。


「あの頃のわたしにとって、あなたの言葉が、どういうものだったか。……それは、いつか、ちゃんと、お話しします。ぜんぶ」


いつか。その一言の底に、俺の知らない夜が、まだ、沈んでいる気がした。


いちばん暗い、何か。彼女を、このページの前で泣かせた、その夜の、本当の色。


暦は、それ以上は、語らなかった。ただ、微笑んだ。泣きそうな、微笑みだった。


「でも、今日は。……あなたの話で、泣いた人間が、この世界に、たしかに一人いた。それだけ、覚えていてくだされば」


俺は、うなずくことしか、できなかった。


この分厚いノートの一冊一冊が、なぜ、ここにあるのか。少しだけ、わかった気がした。


俺の話で、泣いた、あの日を。彼女は、忘れたくなかったのだ。だから、記録した。次の話も、その次の話も。一日も、欠かさずに。


なのに――俺は、その最初の一ページの、いちばん深い底を、まだ、何も、知らずにいた。


いちばん古い一冊の、いちばん最初のページ。几帳面な字が、水滴の跡で丸くにじんでいた——三年前の、誰にも読まれていなかったあの夜に、泣いた人がいた。それに胸を打たれたら【泣ける】を。「いつか、ちゃんと、お話しします」の先は、ブクマで見届けて。

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