第4話 1という、数字の話
世間が「天才作家 冬野結」と呼びはじめても、俺は、自分が凡人だと知っている。
雑誌の取材依頼が来た。テレビの企画も来た。覆面のまま、時の人だった。ネットには、俺の文章を分析した記事が並び、「現代文学の新しい才能」なんて言葉まで、ちらほら見かけた。
そのどれもが、他人の話に思えた。
俺は、三年、鳴かず飛ばずだった男だ。文章がうまいわけじゃない。派手なものも書けない。泥臭い話を、意地だけで書き続けてきた、それだけだ。
急に「天才」と呼ばれても、着せられた服が、まるで、サイズの合わない他人の上着みたいだった。
俺は、自分の作品を、そんなに大したものだと、思ったことがない。むしろ、拙いと思っている。もっと上手い書き手は、いくらでもいる。ランキングの上には、俺なんかよりずっと洗練された文章が、きらきらと並んでいる。
俺の話は、ただ、泥臭いだけだ。「生きろ」と、そればかりを、不器用に、繰り返しているだけだ。
それが売れたのは、財閥が、動いたからだ。俺の実力じゃない。そう思うと、天才、という言葉が、余計に、こそばゆかった。
***
「浮かれないんですね」
夕食の席で、暦が言った。氷が解けた、家での声だ。一人称も、いつのまにか「わたし」になっている。
「浮かれられないんだ」俺は箸を止めた。「俺は、自分がすごいって、どうしても思えない。運がよかっただけだって、心のどこかで、ずっと思ってる」
「運」
「そう。たまたま、君みたいな人が見つけてくれて、君が、財閥を動かして。……本当は、何も変わってないんだ。俺は、あの六畳で書いてた男と、同じだよ」
暦は、しばらく、俺を見ていた。
そして、ゆっくりと、首を横に振った。
「あなたは、勘違いをしています」
その声は、静かで、けれど、譲らなかった。
「あなたの本当の凄さは、六桁のPVでも、書籍化でもありません。……あなたの凄さは、たった一人の夜を、越えさせたことです」
俺は、顔を上げた。
「文章が上手いから、ではありません。数字が大きいから、でもありません。あなたの言葉が、この世界のどこかで、一人の人間を、明日まで生かした。それが――あなたの、本当の凄さです」
***
暦は、湯呑みに手を添えたまま、窓の外を見た。
夜景の光が、一つずつ、その瞳に映り込んでいる。
「1という数字を、あなたは軽く見すぎです」
「……1?」
「あなたは、いつも言っていました。『でも、1だ』と。誰も読まなくても、一人は読んでくれている、と」
俺は、箸を置いた。
「……なんで、それを」
三年間、俺が、あの零時二分の画面に向かって、誰もいない六畳で、ずっと呟いてきた言葉だ。声に出していただけの、まじないみたいなもの。誰にも、言ったことがない。
「一度だけ、書いていらっしゃいました。三年前の、投稿者コメントに。『今日も一だった。でも、1だ』と。……翌朝には、消えていましたが」
俺は、思い出せなかった。深夜に書いて、朝になって、恥ずかしくなって消した。そんな一行が、あったのかもしれない。
俺が消したものまで、彼女は、持っていた。
「その1が、どれだけの重さか。わたしは、知っています」
彼女の声が、わずかに、震えた。
「たった一つの光が、人を、朝まで連れていくことが、あるんです。……どんなに、暗い夜でも」
俺は、動けなかった。
暦の横顔に、いつもの信仰とは違う、もっと深い、暗い水の底のような色が、差していた。
まるで――彼女自身が、いつかの暗い夜を、たった一つの光に、掬われたことがあるみたいに。
「暦」
俺が呼ぶと、彼女は、はっと、我に返った。
そして、いつもの、やわらかい微笑みを、慌てて貼り直した。
「……すみません。少し、語りすぎました」
***
その夜、俺は、なかなか眠れなかった。
暦の言葉が、頭の中で、ずっと回っていた。たった一人の夜を、越えさせた――。
彼女は、なぜ、あんな顔をしたんだろう。あの、暗い水の底のような横顔――あれは、たとえ話なんかじゃ、なかった気がした。
あの零時二分の一が、暦だったこと。それは、もう知っている。夏の夜に、本人の口から聞いた。
だが、わかったのは、誰かだけだ。
なぜ、彼女が、三年間、一日も欠かさずに、あの時刻の画面を開き続けたのか。俺の作品に「救われた」と、彼女は最初から言っていた。でも、俺は、その言葉の底を、まだ、何も知らない。
六桁のPVでも、書籍化でもない。文章が上手いわけでも、たぶん、ない。それなのに、彼女は、俺のたった一つの言葉を、強く握りしめている。
俺の小説の、いったい、何が。彼女を、その暗い夜から、朝まで連れていったんだろう。
考えかけて、俺は、なぜか、その先へ進むのが、ためらわれた。踏み込んだら、戻れなくなる気がした。
暗い天井を見上げながら、俺は、ふいに、こわくなった。
彼女の信仰は、たぶん、俺が思っているより、ずっと、深いところに根を張っている。
「1という数字を、あなたは軽く見すぎです」。誰にも言えなかったまじないを、なぜか彼女は知っている——その言葉の重さにじんとしたら【泣ける】を。彼女の「1」がどこから来たのか、続きはブクマで。




