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第3話 感想が、三件

書籍化が、正式に決まった日。俺は、泣いた。


でも――そのことで、泣いたんじゃない。


その報せは、昼過ぎに、如月(きさらぎ)からもたらされた。初版部数も、印税の見込みも、想像したこともない額だった。彼女は、我がことのように、静かに喜んでいた。


「おめでとうございます、神様。あなたの作品が、本になります」


「……ああ。ありがとう」


正直、実感は、やっぱり湧かなかった。本になる。すごいことのはずだった。でも、俺の胸は、そんなに、動かなかった。


俺という人間は、たぶん、どこか壊れているんだと思う。人が喜ぶところで、うまく喜べない。


普通なら、飛び上がるところなんだろう。三年、鳴かず飛ばずだった男の本が、書店に並ぶ。夢みたいな話だ。優奈(ゆうな)に「イタい」と嗤われた俺が、と、見返したい気持ちだって、あってもいいはずだった。


なのに、俺の胸の真ん中は、しんと、静かなままだった。まるで、他人の慶事を、遠くから、眺めているみたいに。


***


その夜のことだ。


零時に、いつもの癖で、新作の話を投稿した。閲覧数は、もう、桁を数える意味もない。


投稿のあと、俺は、ふと、いちばん古い連載を開いた。『泥の中の星(どろのなかのほし)』。三年間、日に一桁のPVで沈んでいた、財閥が一度も宣伝していない、俺の処女作だ。


その閲覧数が――静かに、伸び始めていた。新作から俺の名前をたどって、こんな泥みたいな古い話の底まで、降りてきてくれた人が、いるらしい。


俺は、その数字を、しばらく見ていた。


昨夜からこの国じゅうに撒かれた広告に、この話の名前は、一文字も載っていない。財閥の金は、新作にしか届いていない。ここは、如月家の力の、外側だ。


なのに、この人たちは、わざわざ作者の名前をたどって、宣伝もされていない三年前の話まで、自分の足で降りてきた。


誰かに連れてこられたんじゃない。読んで、この男の書くものをもっと読みたいと思って、探して、来た。


――だったら。


少なくとも、俺の書いているものは、間違ってはいなかったのかもしれない。


三年間、一度も、そう思えたことはなかった。


指先が、隣の欄へ滑った。感想欄。三年間、ずっと空っぽだった、あの場所。


『感想 三』


止まった。


三年間、一件もつかなかった感想が、三件、ついていた。


俺は、震える指で、一つ目を開いた。


『しんどい夜に、たまたまこの話を見つけました。這ってでも生きろって、あなたの言葉で、今日も生きてます』


二つ目を、開いた。


『泥の中でも息はできるって、何度も読み返してます。あなたが書いてくれて、よかった』


三つ目を、開いた。


長い、長い感想だった。名前も知らない誰かが、自分の夜のことを、俺の話に、そっと打ち明けていた。仕事も、家族も、うまくいかなくて、何もかも投げ出したかった夜に、たまたま、この話に出会った、と。這ってでも生きろという、その一行に、背中を、蹴飛ばされた気がした、と。


まだ、うまくは生きられない。でも、今日は、生きてみる。だから、書き続けてください。


そう、結ばれていた。


***


気づいたら、俺は、泣いていた。


ぼろぼろと、みっともなく。ノートパソコンの、ひびの入った天板に、しずくが落ちた。


六桁のPVには、一滴も動かなかった心が、たった三件の言葉で、決壊した。


数字は、顔が見えない。でも、この三件には、顔があった。夜があった。体温があった。


三年間、俺は、零時二分(れいじにふん)のたった一人に向けて書いてきた。届いてほしかったのは、数字じゃない。この、たった三人みたいな、誰かの夜だった。


本になることが、すごいんじゃない。何万人に読まれることが、すごいんじゃない。


俺の書いた一行が、誰かの、いちばん暗い夜に、たまたま、間に合った。ただ、それだけのことが、俺には、この世界のどんな数字より、重かった。


「……よかった」


俺は、しゃくりあげながら、そう呟いた。


「書いてて、よかった」


書籍化が決まっても動かなかった涙腺が、名も知らぬ三人の言葉で、こんなに簡単に、壊れる。


自分でも、笑ってしまうくらい、俺は、そういう男だった。


***


顔を上げると、如月が、部屋の入り口に立っていた。


いつからそこにいたのか。彼女は、泣きじゃくる俺を、まっすぐ見ていた。


そして――彼女も、泣いていた。


氷の令嬢が、声もなく、灰色の瞳から、静かに涙をこぼしていた。


「……如月」


俺は、(かす)れた声で、彼女を呼ぼうとして。


なぜか、その名字が、口の中で、しっくりこなかった。


三年間の記録を、この六畳分の祈りを、俺の涙の意味を、たった一人、全部わかってくれている女。数字が決めた「すごさ」なんかじゃなく、俺が本当に泣く場所を、知っている女。


その人を、他人行儀な名字で呼ぶのは、もう、違う気がした。


「……(こよみ)


初めて、そう呼んだ。


彼女の肩が、びくりと、震えた。


俺は、自分でも、なぜそう呼んだのか、うまく説明できなかった。ただ、そう呼ぶのが、いちばん正しい気がした。


暦は、口元を押さえた。あふれる涙を、こらえきれずに。


その涙の意味を、俺は、まだ、半分も知らなかった。


書籍化に動かなかった涙腺が、名も知らぬ三人の言葉で決壊する。「書いてて、よかった」に一緒に泣けたら【泣ける】を。蓮が初めて彼女を名前で呼んだ、その意味は、ブクマして次話へ。

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