第2話 数字が、雪崩れた夜
昨日まで一日に二桁いけば御の字だったPVが、朝起きたら、六桁になっていた。
俺は、寝ぼけた頭で、ノートパソコンの画面を何度も見直した。桁を、指で数えた。
『PV 248193』
見間違いじゃなかった。ゼロが並んでいたあの管理画面に、いま、数字が雪崩れ込んでいる。更新するたびに、末尾がぐるぐると回って、増えていく。
「……壊れたのか、これ」
「壊れていません」
背後から、如月の声がした。
いつのまにか、湯気の立つマグカップを手に、俺の肩越しに画面を覗き込んでいる。氷の令嬢が、朝の光の中で、少しだけ得意げだった。
「昨夜、広告が一斉に出ました。駅も、電車も、ネットの端から端まで。あなたの名前が、いま、この国で一番、目に触れています」
***
その日は、現実感のないまま過ぎていった。
学校では、誰もが「冬野結」の話をしていた。廊下でも、教室でも。あの新作の作者、正体不明の覆面作家、書籍化が即決だってさ、と。
俺のすぐ横で、クラスメイトが、俺の書いた話の感想を、俺と気づかずに熱く語っている。あの覆面作家、絶対に大人だよ、とか。人生何周もしてないと、あんな重い話書けないって、とか。
俺は、笑いそうになるのを、こらえた。その「人生何周もした大人」は、いま、隣で、単語帳をめくっている、ただの高校生だった。
なんとも言えない、変な気分だった。
如月は、教室では、いつもの氷の令嬢だ。俺のことなど、視界にも入れない。完璧な無表情で、窓際の席に座っている。誰も、彼女が「冬野結」の隣にいる女だとは知らない。
俺たちは、学校では他人だ。その綱渡りだけは、今日も、崩れなかった。
***
夜。タワマンに戻ると、如月が、その日の数字をまとめた紙を差し出してきた。
PV、ブックマーク、評価、書籍化の初版部数。桁が、どれも、めまいがするほど大きい。
「すごい数字です。神様。この国で、これだけの人が、あなたの物語を待っています」
彼女は、心から嬉しそうだった。
俺は、その紙を、しばらく黙って眺めていた。
そして、正直に言った。
「……あんまり、実感がないんだ」
如月が、少しだけ、目を見開いた。
「六桁とか、七桁とか。数が大きすぎて、顔が見えない。俺には、一人ひとりが、どんな夜にこれを読んでるのか、わからない」
これは、驕りでも、謙遜でもなかった。
三年間、俺はたった一人に向けて書いてきた。零時二分の、あの一人。顔も名前も知らないのに、その人の夜だけは、なぜか、はっきりと想像できた。
なのに、六桁の数字の向こうには、誰の顔も浮かばない。
「贅沢な悩みだって、わかってる。でも、俺には、この数字が、まだ、俺の話を読んでくれてる『人』には見えないんだ」
言ってから、しまった、と思った。
こんなに手を尽くしてくれた彼女に、水を差すようなことを。
でも、如月は、怒らなかった。
それどころか、その灰色の瞳が、じわりと、潤んだ。
「……やっぱり、あなたは、あなたのままなんですね」
彼女は、そう呟いて、俺の湯呑みに、まだ温かい茶を注ぎ足した。角度まで、いつもと寸分違わない、その手つきで。
***
その夜、俺はふと、感想欄を開いてみた。
新作の――財閥の総力で、この国じゅうに撒かれた、あの一作の感想欄だ。そこには、言葉が、洪水みたいに、押し寄せていた。
昨日まで、三年間、ただの一件もつかなかった男の画面に、いま、何百という感想が、積み上がっている。
俺は、一つずつ、全部、読んだ。
面白かった。続きが気になる。あのキャラが好きだ。短いのも、長いのも。中には、俺の書いた一行をそのまま引き写して、ここが好きだと打ってくれた人もいた。
嘘のない言葉だと、思った。少なくとも、この人たちは、俺の話を読んで、そう打ってくれた。
なのに。
胸の底から滲んできたのは、喜びじゃなくて、うしろめたさだった。
この人たちは、どうやって、俺の話にたどり着いたんだろう。
駅で。電車で。ネットの、端から端まで。昨夜、如月の家が、金と力で、この国じゅうに俺の名前を撒いた。その回路の先で、この人たちは、俺の話を開いた。
――だとしたら。
この何百の言葉を呼んだのは、俺の書いたものじゃない。如月家の、財力だ。
そう思った瞬間、画面いっぱいの「面白かった」が、すっと、遠くなった。
それでも、俺は、返信ボタンを押した。ありがとうございます、と打つ。また次を読んで、また返す。一件ずつ。読んでいない言葉に、返事はできない。だから、読めるだけ読んで、書けるかぎり、返した。
でも、そのありがとうを打つ指は、どこか、他人のもののようだった。
礼を言うべきなのは、たぶん、俺じゃない。この人たちをここまで連れてきたのは、俺じゃないから。
……嬉しくない、わけじゃない。ただ、この言葉を自分の力で呼んだと、どうしても思えなかった。
数字は、雪崩れる。返せば、返事も、返ってくる。それでも、俺がいちばん灯を届けたかった場所だけが、まだ、真っ暗なままだった。
――ちょうどそのとき。
如月のスマホが、暗がりで、小さく震えた。
彼女は、画面を一瞥すると、すっと、表情を消した。氷が、戻った。
「……どうした」
「なんでもありません」
彼女は、スマホを裏返して置いた。
「少し、詮索好きな人がいるようです。……あなたの正体を、知りたがっている人が」
その声は、また、あの冷たさを帯びていた。
数字は、光だ。強くなるほど、遠くまで届く。
でも、光が強くなるほど、その足元には、濃い影が、落ちる。俺は、そのときは、まだ、影のほうを、ちゃんと見ていなかった。
雪崩れ込む数字に、目が、眩んでいたのかもしれない。
昨日まで二桁だったPVが、朝には六桁に雪崩れ込む。なのに感想はゼロ、体温だけがどこにもない——その落差にぞくりとしたら【びっくり】を。光の足元に落ちる影の続きは、ブクマで。




