第1話 その一冊のために、財閥が動く
学校一の氷の令嬢が、俺の書いた小説を世に出すために、この国の大人たちを電話一本で動かしている。
タワーマンションの最上階。夜景を背に、如月は長い脚を揃えて座り、膝の上のタブレットに視線を落としていた。銀の髪が一筋、頬にかかっている。声は静かで、氷のように平らだった。
「ええ。初版はその数字で構いません。書店の平台は、系列全店で確保してください。……いえ。著者校正を最優先に。作家の時間を、一秒も削らないように」
電話の向こうは、大手の出版社の役員らしかった。俺の名前など知らなかったはずの大人が、はい、はい、と繰り返している。
俺は、ソファの端で、ただ呆然と座っていた。
三年だ。俺は、三年かけて、誰にも届かなかった。バイトで書く時間を削り、安いカップ麺をすすりながら、それでも指を止めなかった。その三年が、この令嬢の、たった数時間の電話で、軽々と、飛び越えられていく。
悔しさは、なかった。ただ、めまいが、した。
俺が三年、爪で壁を引っ掻いても届かなかった高さに、彼女は、当たり前の顔で、手を伸ばす。それが、財閥というものの、正体だった。
***
通話を切ると、如月は俺の方を向いた。
その瞬間、氷が、ほどけた。
無表情だった顔に、やわらかい熱が差す。灰色の瞳が、俺の作品を語るときの、あの潤んだ光を宿す。
「神様。ご報告があります」
彼女は、テーブルに一枚の資料を滑らせた。俺の新連載――『|白銀の姫と、夜明けの物語《はくぎんのひめと、よあけのものがたり》』の、展開計画書だった。
出版。広告。書店展開。メディア露出。俺が三年、指をくわえて眺めるしかなかった場所の全部が、そこに、当たり前のように並んでいた。
「一週間後に、大々的な書籍化を発表します。広告は系列の代理店が、全国の駅と、電車と、書店の一等地に出します。あなたの物語が、この国のいたるところに現れます」
俺は、言葉を失った。
「そんな……大袈裟だ」
やっと出たのが、それだった。
三年間、俺の話を読んでくれたのは、零時二分の、たった一人だ。何万人に届けたくて書いていたわけじゃない。その一人に届けば、俺の夜には意味があった。
「規模なんて、いらないんだ。俺は――」
「わかっています」
如月は、静かに遮った。
「あなたが、数字のために書く人でないことは、誰よりも知っています。……でも」
彼女は、資料の上にそっと手を置いた。
「あなたの言葉に生かされる夜が、この国には、まだいくつもあるはずなんです。わたしは、それを一つでも多く、見つけたい。それだけなんです」
その声には、祈りに似た、静かな重さがあった。
俺は、何も言い返せなかった。
規模はいらない、と俺は言った。でも、彼女が言っているのは、規模の話じゃなかった。届く夜の、数の話だった。俺の言葉で、朝まで生き延びる誰かが、一人でも増えるなら。そのために、財閥の全部を使う、と。
その言い方は、ずるかった。俺が、いちばん、断れない言い方だった。
***
如月は、次のページをめくった。流通の系列図が、細かく書き込まれている。
「印刷は系列の製紙と印刷会社が。輸送はグループの物流網が。……世界は、存外せまいものです」
彼女の指が、図の隅で、ふと止まった。
「二次下請けに、こんな会社もあります。秋月様のクラスの――水城翔太さん。あの方のお父様の会社です」
俺は、その名前で、少しだけ息を詰めた。
翔太。優奈が、俺を「イタい」と捨てて乗り換えた、あの転校生だ。
まさか、あいつの家が、如月グループの傘の下にあったとは。世界は、本当にせまい。
「……偶然だな」
俺がそう言うと、如月は、資料を閉じた。そして、何でもないことのように、微笑んだ。
「ええ。ただの、偶然です」
その微笑みが、なぜか、ほんの少しだけ、冷たく見えた。
でも、俺はそのとき、深く考えなかった。
これから自分の名前が国中に貼り出される、その現実のほうに、頭がついていっていなかったからだ。
如月は、立ち上がり、窓の外の光の海を見下ろした。
「来週、あなたの世界が変わります」
夜景が、彼女の銀の髪を、青白く縁取っていた。
「財閥の、全力を。……ようやく、お見せできます」
三年、爪で壁を引っ掻いても届かなかった高さに、令嬢は電話一本で手を伸ばす。「財閥の全力を、ようやくお見せできます」——その規模に呆然としたら【びっくり】を。世界が変わる続きは、ブクマで栞を。




