第8話 財閥が、動き出す
ある朝、リビングのテーブルに、分厚い資料の束が、置かれていた。
表紙に、如月グループのロゴ。その下に、俺の作品のタイトルが、印刷されていた。『|白銀の姫と、夜明けの物語《はくぎんのひめと、よあけのものがたり》』。
「なんだ、これ」
俺が訊くと、如月は、湯呑みを俺の前に置きながら、静かに言った。
「企画書です。あなたの作品を、世に出すための」
***
俺は、資料を、めくった。
広告出稿の計画。書店での展開。メディアへの露出。書籍化の、想定スケジュール。数字が、桁違いだった。俺の、三年分のPVを、初日で、軽く超える規模の話が、そこに、並んでいた。
財閥の、物量だった。
俺は、資料を、めくる手が、止まった。ここに書かれている数字は、俺の理解を、超えていた。広告費だけで、俺が一生かかっても稼げない額が、ぽんと、計上されている。書店の平積み。特設コーナー。俺の、天板にひびの入ったノートPCから生まれた話に、桁外れの物量が、注ぎ込まれようとしていた。
「待ってくれ」俺は、資料を置いた。「俺は、こんなこと、頼んでない」
「存じています」
如月は、頷いた。
「あなたは、数字を求めていない。一人でも読んでくれれば、それでいいと。……それは、わかっています。何度も、聞きました」
「なら」
「でも」
彼女の声が、静かに、強くなった。
「あなたの言葉に、救われる人は、この世に、まだ、たくさんいます。今夜も、どこかで、夜が明けるのを、待てずにいる誰かが。その人たちに、あなたの一行が、届いていない。それは――間違っている、と、わたしは思うのです」
***
俺は、彼女の目を、見た。
そこにあったのは、信仰だった。狂気にも見える、まっすぐな、信仰。
「あなたは、一人の読者のために書く。それでいい。あなたは、そのままでいてください」如月は言った。「数字を、集めるのは、わたしの仕事です。あなたが、一人ずつしか救えないのなら、その"一人"を、何万も、何十万も、あなたの前に、連れてきます」
財閥の総力で。
俺の、六畳一間から始まった、誰も読まなかった話を。
「あなたは、凍えた心を、明日へと結ぶ名を、持っているのに」彼女は、俺のペンネームを、口にした。「その結びが、届く範囲が、狭すぎる。わたしが、それを、世界中に、広げます」
俺は、ぞっとした。そして、同時に、胸が、震えた。
この人は、本気だ。俺の作品のために、財閥を、一つ、動かすつもりだ。
嬉しい、とは、素直に思えなかった。俺は、数字が欲しくて、書いてきたわけじゃない。バズも、書籍化も、望んだことはない。ただ、一人に届けば、それでよかった。
だが、如月の言葉には、否定できない芯があった。今夜も、どこかで、夜を越えられずにいる誰かがいる。その誰かに、俺の一行が、届いていない。それは――たしかに、俺が、いちばん、書きたかったことのはずだった。
***
その日の夕方、俺は、書斎で、電話の声を聞いた。
如月が、誰かと、話していた。
いつもの、家での「わたし」ではなかった。学校の「わたくし」でも、なかった。もっと、冷たく、鋭い、命令する者の声だった。
「――ええ。全部門を、動かしてください。出版も、広告も、書店も。最優先で。……予算の上限は、設けません」
俺は、息を、呑んだ。
彼女は、電話の向こうの相手に、告げていた。
「わたくしが、世に出します」
氷の令嬢の、声だった。
「この国の、すべての夜に――神様の言葉を、届けます」
電話が、切れた。
静まり返った書斎で、俺は、理解した。
もう、後戻りは、できない。
俺の知らないところで、巨大な何かが、静かに、動き出していた。誰も読まなかった、俺の物語を、無理やり、世界の真ん中へ、引きずり出すために。
俺は、あの六畳一間の、静けさを、思い出した。誰にも読まれず、それでも書き続けた、あの夜のことを。
あの静けさは、もう、終わる。
如月は、俺を、光の当たる場所へ、引きずり出そうとしている。彼女の信仰が、財閥という、途方もない力を得て、動き出した。止められる気が、しなかった。
嵐が、来る。
その予感だけが、俺の胸に、冷たく、残った。
「この国の、すべての夜に——神様の言葉を、届けます」。氷の令嬢の声が、財閥という力を得て動き出す。その予告に息を呑んだら【びっくり】を。嵐の始まりを、ブクマで追ってください。




