第7話 誰も読まなくても、一人は
その夜、俺の新連載に、感想が、一件、ついた。
『続きが読みたいです。明日も、待っています』
たった、それだけ。名前も知らない、どこかの誰か。
でも、俺は、その一行を、何度も、読み返した。画面が、少し、滲んだ。
「泣いていらっしゃいますか」
如月が、そっと、訊いた。
「泣いてない」
俺は、目元を、手の甲で拭った。
「……一人でも、明日を待ってくれてる人が、いる。それだけで、俺は、また書ける。誰も読まなくても、一人は、いる。その一人のために、書く。ずっと、そうやってきた」
如月は、何も言わなかった。
ただ、俺の隣で、その一件の感想を、一緒に、じっと見つめていた。彼女の横顔が、なぜか、俺以上に、泣きそうだった。
「よかったですね」
彼女は、やっと、そう言った。声が、湿っていた。
「あなたの言葉が、また、一人に、届いた。……明日を、待ってくれる人が、また、一人」
また、一人。
その言い方が、少し、引っかかった。まるで、そこに、もう一人を数えているみたいな。
「……君も、待ってたのか」
俺は、訊いた。三年間、零時二分に、と、口に出すまでもなかった。彼女は、一度だけ、頷いた。
「わたしは、いちばん最初の、読者ですから」
いちばん最初の、と、彼女は言った。妙に、力の込もった言い方だった。
読者。ただの読者が、三年間、一日も欠かさず、日付が変わって二分の画面を、開き続けるだろうか。
***
書斎の、あのノートのことは、俺は、あえて、訊かなかった。
三年分の、彼女の記録。あの厚み。訊けば、彼女が、何かを、話してしまいそうで。そして、それを聞いたら、もう、後戻りできない気がして。
俺たちは、その夜、ただ、静かに、過ごした。
如月が、温かい飲み物を淹れて、俺の机の端に置く。俺が飲めるちょうどの温度まで、落として。俺が、それを飲みながら、次の話のプロットを、口に出す。彼女が、静かに、頷く。
静かな夜だった。
タワーマンションの、防音の効いた部屋。街の喧騒は、届かない。聞こえるのは、俺のキーボードの音と、彼女がページをめくる、かすかな音だけ。それが、心地よかった。この三年、俺の夜は、いつも、一人だった。誰もいない部屋で、零時の更新だけを、支えに書いてきた。
今は、隣に、一人、いる。俺の言葉を、世界でいちばん、信じている人が。
「その姫は、幸せになりますか」
如月が、ふと、訊いた。
「なる」俺は言った。「泥の中を這ってきた人間ほど、幸せになる資格がある。そう書く。ずっと、そう書いてきた」
彼女は、少しだけ、微笑んだ。
「……そう、ですか」
そのひとことが、なぜか、ひどく、大切な確認みたいに、聞こえた。
***
深夜。
執筆に疲れて、俺は、ベランダに出た。タワーマンションの最上階。眼下に、街の明かりが、絨毯みたいに、広がっている。
如月も、少し離れて、俺の横に立った。
夜風が、彼女の銀の髪を、揺らした。
「如月」
「はい」
「なんで、俺なんだ」俺は、街を見たまま、訊いた。「もっと、うまい作家は、いくらでもいる。有名なやつも。なんで、PV一桁の、俺なんだ」
如月は、しばらく、黙っていた。
それから、静かに、言った。
「うまいから、ではありません。有名だから、でもありません。あなたの言葉が、わたしを――」
彼女は、そこで、言葉を、切った。
俺が、横顔を見ると、如月は、街の明かりを、見つめていた。
その瞳が、いつもの、潤んだ光ではなかった。
もっと、遠い、暗い、どこかを、見ていた。まるで、この明かりの、どれも灯っていなかった、真っ暗な夜を、思い出しているみたいに。
「……なんでも、ありません」
彼女は、微笑んだ。
でも、その微笑みの奥に、俺は、一瞬、見てしまった。
夜が明けるのを、待てなかった人間の、横顔を。
俺は、何も、言えなかった。
風が、また、彼女の髪を、揺らした。如月は、もう、いつもの微笑みに戻っていて、俺のために、羽織るものを取ってこようとしていた。俺の身体を、気遣って。
彼女は、いつも、俺の心配ばかりする。
だが、彼女自身の、あの遠い目は、誰が、気遣うのだろう。
俺は、その夜、初めて、そう思った。
「誰も読まなくても、一人はいる。その一人のために書く」。隣で、なぜか蓮以上に泣きそうな横顔——その静けさに胸を掴まれたら【泣ける】を。彼女の遠い目の理由は、ブクマして先で。




