第6話 あの「一」は、この部屋にいた
新連載の一話目を、俺は、零時ちょうどに、投稿した。
『|白銀の姫と、夜明けの物語《はくぎんのひめと、よあけのものがたり》』。異世界の、銀髪の姫と、しがない語り部の話。誰をモデルにしたかは、言わない。
投稿ボタンを押すと、少し遅れて、画面に反映される。零時二分。三年、変わらない、俺のリズムだった。
「投稿、なさいましたか」
如月が、俺の背後で、息を詰めるように、訊いた。
「ああ。今、上がった」
衣ずれの音。彼女が、タブレットを開く音。「物語の樹」のその話を、一行目から、食い入るように読みはじめる気配。三年前から、この瞬間を待っていたみたいに。
俺は、閲覧数の欄に指をかけたまま、動けずにいた。
---
この部屋に来てから、俺は、一度も、そこを見ていない。
三年、毎晩くり返してきた仕草だ。指が勝手に動くはずの、その一箇所だけを、俺は、避けて通っていた。
あの雨の夜。六畳の真ん中で三つ指をついた彼女の後ろに、俺の全更新時刻が、三年分、一秒の狂いもなく、書き写されていた。あのとき背筋を走ったものを、俺は、頭を振って、追い払った。まさか。そんな偶然が、あるはずない。
追い払ったつもりで、ずっと、喉の奥に、刺さっていた。
見なければ、まさか、のままでいられる。そんな理由で、俺は、三年間の支えを、確かめずにいた。
俺は、息を吸って、画面を、更新した。
『PV 1』
零時二分。
三年間、一度も欠けたことのない、あの一が、今夜も、そこに灯っていた。
俺は、ゆっくりと、振り返った。
如月は、タブレットの光を顔に受けて、俺の一行目を読んでいた。まつげが、文字を追うたびに、細かく震えている。この世界に、俺の文章と、彼女しか、いないみたいな顔だった。
投稿から、二分。この部屋の、俺の、背中側で。
---
「PV、いくつになりました」
読み終えた如月が、顔を上げて、訊いた。いつもと同じ、静かな声だった。
俺は、答えずに、画面を、彼女のほうへ向けた。
『PV 1』
如月の呼吸が、止まった。
「――やはり、君なんだな」
声が、うまく出なかった。
「三年間。毎晩、零時二分。誰も読まないゼロの画面に、一つだけ灯ってた、あの一は。……君、だったんだな」
長い、沈黙だった。
如月は、タブレットを、そっと胸に抱いて、目を伏せた。そして、あの雨の夜と同じやり方で、静かに、姿勢を正した。
「……はい」
たった二文字だった。
「わたし、です」
三年間、顔も名前も知らないまま、俺が、たった一人に向けて書いてきた相手が、いま、俺の背中側に座っている。体温があって、俺の茶を六十度まで冷ましてから出す人間として。
「なんで、何も、反応をくれなかったんだ」
言葉が、勝手に、こぼれた。
「感想の、一件でも、くれたら。俺は」
「感想を、書けば」
如月は、目を伏せたまま、言った。
「見つかって、しまいますから」
意味が、わからなかった。見つかって困ることなんて、何もないはずだった。俺は、PV一桁の、ただの男だ。
彼女は、それ以上、言わなかった。ただ、胸のタブレットを、少しだけ、強く抱き直した。
---
翌日。書斎の、奥の棚。
俺が、資料を探して、何気なく開けた、その棚には――革表紙のノートが、ずらりと、並んでいた。
一冊、二冊、では、なかった。
背表紙の日付は、三年分。俺が「物語の樹」に、最初の一話を投稿した、あの日から。
一冊を、抜き出して、開いた。
俺の、全話のタイトル。掲載日。更新時刻が、一秒単位で。深夜の、同じような時刻が、判で押したように、何百と、並んでいる。その横に、誤字の修正履歴。「第百三話、三行目、『崩れる』を『頽れる』へ。日付――」。俺自身が、忘れている、細かな直しまで。
考察のページ。相関図。細かな字が、余白を埋め尽くしていた。一行の隙間も、惜しむように。
俺は、棚を見渡した。この一冊は、ほんの一部でしかない。すべての背表紙が、同じ密度で、書き込まれているのだ。
指が、震えた。
これは、感想でも、記録でもない。三年分の、時間の、重さだった。
ゆうべ、俺の背中側にいた「一」の、正体だった。
「――如月」
俺の声に、彼女が、振り返った。俺の手の中のノートを見て、その顔から、すっと、色が引いた。
彼女の視線が、俺の指のあたりを、素早く辿った。どの一冊の、どのページを、俺が開いているのか。それを、確かめるみたいに。
「……それは、何冊目、ですか」
声が、わずかに、硬い。俺が意味を掴みかねていると、彼女は、言い直した。
「いちばん古い一冊の、いちばん最初のページ。……そこは、ご覧に、なりましたか」
俺は、手元を見た。抜き出したのは、棚のなかほどの一冊だった。いちばん端にある、いちばん古い一冊では、ない。
「いや。……これは、途中の一冊だ」
如月の肩から、ほんの少しだけ、力が抜けた。安堵と呼ぶには、あまりに、ひそやかな緩みだった。
「そう、ですか」
彼女は、それ以上、何も言わなかった。ただ、棚のいちばん端の、いちばん古い一冊にだけ、まもるように、一瞬、視線を送った。
零時二分の「一」が、誰なのかは、わかった。
だが、その一が、なぜ、三年間、一度も欠けなかったのか。俺は、まだ、そのノートの、いちばん最初のページに、何が書かれているのか――知らなかった。
三年間、こわくて見られなかった管理画面に、今夜も灯る『PV 1』。零時二分、その一を、背中側で読んでいた人がいた——「やはり、君なんだな」に息が止まったら【びっくり】を。棚の三年分のノート、その最初のページに何が書かれているのかは、ブクマして先で。




