第5話 氷は、教室では溶けない
学校で、俺のスマホが鳴った瞬間、俺の心臓は止まりかけた。
昼休みの教室。画面に、通知が浮かんでいる。
『お昼は、召し上がりましたか。今朝の握り飯は、梅と鮭を入れておきました』
差出人の名前は、登録していない。だが、この文面を送ってくる人間は、この世に一人しかいない。
俺は、慌てて画面を伏せた。指が、汗ばんでいた。
「なに慌ててんの、蓮」
顔を上げると、優奈が、俺の机に手をついて、覗き込んでいた。
***
優奈は、俺を「イタい」と捨てた、幼馴染だ。
今はもう、俺のことなど眼中にないはずだった。翔太という、イケメンの転校生に乗り換えて、そっちに夢中のはずだった。
なのに、なぜ、今日に限って。
「なんか最近さ、あんた、雰囲気変わったよね」優奈は、あざとく首を傾げた。「服も、ちょっとマシになったし。彼女でもできた?」
「できてない」
即答した。声が、裏返った。
嘘は、ついていない。彼女ではない。あれは――なんと呼べばいいのか、俺にもわからない。飼い主、とも違う。神様に仕える、逆の立場だ。
「あやしー」優奈は、俺のスマホに、手を伸ばした。「見せてよ、それ」
「だめだ」
俺は、スマホを胸に抱えた。もし、この画面を見られたら。氷の令嬢・如月暦が、俺に握り飯の中身を報告している画面を見られたら。
この学校は、確実に、終わる。
「なんで隠すの。やましいことでもあんの?」優奈は、面白がって、身を乗り出してきた。昔から、こういうところがある。人が困るのを、少し、楽しむ。「まさか、出会い系とか。うわ、蓮がそういうの、ウケる」
違う、と言いたかった。だが、本当のことは、もっと言えない。相手は、この学校で、いちばん、口にしてはいけない名前だ。
俺は、額に汗を浮かべたまま、ただ、スマホを抱えて固まっていた。
***
そのとき。
「優奈さん」
凍りつくような声が、教室の入口から響いた。
如月暦が、立っていた。
クラス中の視線が、一斉に集まる。氷の令嬢が、自分から人に声をかけるなど、めったにないことだった。優奈も、目を丸くしている。
「委員会の資料を、職員室まで。あなたの担当のはずですが」
完璧な、氷点下の口調。用件だけを、正確に。
「え、あ、はい……!」
優奈は、俺のスマホのことなど忘れて、慌てて教室を出ていった。
如月は、それを見送ると、くるりと踵を返した。俺のほうを、一度も、見なかった。
だが、去り際、彼女の唇が、俺にだけわかる形で、ほんのわずかに、動いた。
『梅は、種を取ってあります』
握り飯の話だった。
こんな状況でも、それを伝えにきたのか。俺は、笑うべきか、頭を抱えるべきか、わからなくなった。氷の令嬢は、教室では、一ミリも溶けない。溶けないまま、俺を、助けにきた。
危機を察して、氷点下の顔で、優奈を引き剥がし。それでいて、去り際に、握り飯の梅の種のことを、律儀に伝えていく。この落差を、平然とやってのける。俺の秘密を守るためなら、彼女は、いくらでも、完璧な氷になれるのだ。
俺だけが、その氷の、体温を知っている。
***
放課後、俺は昇降口で、ほっと息をついた。
今日は、危なかった。だが、乗り切った。この綱渡りにも、少しずつ、慣れてきた気がする。
そう思った、そのときだった。
下駄箱の陰で、二人が、話しているのが見えた。
優奈と、翔太。
翔太は、優奈の肩に手を回しながら、こちらを――俺のほうを、ちらりと見た。甘い顔の奥で、値踏みするような、冷たい目が、光った。
優奈が、何か言っている。俺の名前が、混じった気がした。
「……なんで、如月さんが、あいつを」
その一言が、風に乗って、切れ切れに、俺の耳に届いた。
なんで、如月さんが、あいつを。
たった一度、優奈を職員室へ使いに出した。それだけのことだ。だが、氷の令嬢が、俺のような目立たない生徒のために、自分から動いた。その違和感を、優奈は、見逃さなかった。
翔太の、冷たい目が、まだ、こちらを、値踏みしている。
綱渡りの綱が、ほんの少し、軋んだ音を立てた気がした。
俺は、下駄箱の陰から、動けなくなった。
氷点下の顔で優奈を引き剥がし、去り際に「梅は種を取ってあります」。この落差を平然とやってのける氷の令嬢に、思わず笑ったら【笑える】を。軋みはじめた綱の続きは、ブクマで見届けて。




