第4話 その一行に、救われた人がいる
自分の書いた小説を、作者以上に読み込んでいる人間が、目の前にいる。
それは、恐ろしくもあり、少しだけ、泣きそうになる光景でもあった。
その夜、如月は、革表紙の分厚いノートを一冊、膝に置いていた。俺の全話を、印刷して綴じたファイルの、いちばん古い一冊も。
「神様。少し、お話ししても、よろしいですか」
俺が頷くと、彼女は、ファイルの、あるページを開いた。『泥の中の星』の、序盤。俺が、書き始めたばかりの頃の、話だった。
そのページは、何度も開かれたのだろう、角が、やわらかく丸まっていた。付箋が、何枚も、貼られている。書き込みが、余白を、埋めている。読み込まれた本の、匂いがした。
「わたし、この回が」
学校の「わたくし」ではなかった。二人きりの、「わたし」だった。
「この回が、いちばん、好きです」
***
如月は、指で、一つの行を、そっとなぞった。
「ここです。主人公が、夜が明けるのが怖くて、膝を抱えている場面。あなたは、こう書きました」
彼女は、その一行だけを、読み上げた。
『明日を待つ理由が一つでもあれば、人は夜を越えられる』
声が、少し、震えていた。
「わたし、この一行を、何度も読みました。何十回も。何百回も。数えきれないくらい」
「そんなに」
「はい」
如月は、ノートを開いて見せた。そのページには、この一行が、彼女の万年筆の字で、びっしりと、書き写されていた。日付とともに。同じ言葉が、何ページにもわたって。
俺は、言葉を失った。
これは、感想じゃない。祈りだ。
「あなたは、たぶん、軽い気持ちで書いた一行かもしれません」如月は言った。「でも、この一行に、救われた人が、この世に、確かに、います」
彼女は、続けた。
「派手な展開でも、うまい文章でも、ありません。この物語には、これ見よがしなところが、何一つ、ないんです。ただ、這ってでも生きろと、そればかり書いてある。だから、届いたんです。飾りのない言葉ほど、いちばん暗いところまで、届く」
俺の書いたものを、俺より深く、彼女は、読んでいた。
***
俺は、自分の作品を、たいしたものだと思ったことがない。
PVは一桁。ブックマークも、片手で数えられた。書籍化なんて、別の世界の話だった。文章がうまいわけでも、話が斬新なわけでもない。ただ、這ってでも生きろと、書き続けただけだ。
だから、如月が「救われた」と言うたびに、俺は、いつも、身の置き所がなくなる。
「俺の書いたものなんて」と言いかけて、やめた。
彼女の前で、それを言ってはいけない気がした。彼女が、それに救われたと言うなら、俺がそれを否定するのは、彼女の三年を、否定することになる。
「……ありがとう」
俺に言えたのは、それだけだった。
自分の作品が、誰かの命綱になった。そんな大それたことを、俺は、まだ、うまく信じられない。だが、如月の目を見ていると、否定できなくなる。彼女の三年は、嘘じゃない。この物量は、嘘をつけない。
如月は、微笑んだ。潤んだ、灰色の瞳で。
「お礼を言うのは、わたしのほうです。ずっと」
***
「あの夜も」
如月が、ふと、呟いた。
ファイルのページを見つめたまま。俺のほうを、見ていなかった。
「あの夜、もし、あの話がなかったら。わたしは、たぶん――」
言葉が、途切れた。
彼女の横顔から、いつもの完璧な静けさが、一瞬、剥がれた。氷の下に、何か、暗くて、深いものが、沈んでいるのが、見えた気がした。
俺は、訊こうとした。あの夜、って、なんだ。
だが、如月は、すっと顔を上げて、いつもの微笑みに戻っていた。剥がれかけたものは、もう、綺麗に、覆われていた。
「……なんでもありません。お茶を、淹れ直しますね」
彼女は、立ち上がって、キッチンへ消えた。
俺の手元には、あの一行を書き写した、彼女のノートが、開いたまま、残されていた。
同じ言葉が、何百回も。まるで、それだけが、彼女を、この世につなぎ止めていたみたいに。
俺は、その厚みを、まだ、何も知らなかった。
「この一行に、救われた人がいます」——軽い気持ちで書いた一行が、誰かの祈りになっていた。その静かな告白に胸が熱くなったら【泣ける】を。「あの夜」と途切れた言葉の先が気になったら、ブクマして次話へ。




