第3話 湯呑みは、いつも同じ温度で
書けなくなったときに何が出てくるかで、その人の生活がわかる。
俺の場合は、コーヒーだった。安いインスタントを、濃く、何杯も。胃を痛めながら、キーボードの前で唸る。それが、俺の執筆だった。
タワーマンションに来て、それが、変わった。
新しい話を書こうとしていた。異世界の、銀色の髪の姫が出てくる、ラブコメ。誰をモデルにしたかは、口が裂けても言えない。プロットが、まだ固まらない。手が止まる。
コーヒーを淹れようと立ち上がると、もう、温かい飲み物が、机の端に置かれていた。
「詰まっていらっしゃるときは、ホットミルクのほうが、頭が回るそうです」
如月が、いつのまにか、そこにいた。
手を伸ばせば、そのまま持てる位置にある。湯気の立ち方まで、いつもと同じだった。飲めば、きっと、いつもと同じ温度だ。
一度も、間違えない。俺が猫舌だということを、彼女は、決して、忘れない。この小さな温度に、三年分の観察が、詰まっている。そう思うと、ただの一杯の飲み物が、ひどく、重たく感じられた。
***
締切、というものが、俺にはある。
誰に言われたわけでもない。ただ、毎晩零時に一話、更新する。それを、三年、続けてきた。PVが一桁でも、読者がいてもいなくても、その時刻だけは、守ってきた。
俺の、たった一つの、意地だった。
その意地を、如月は、知っていた。
夕方になると、机に、小さな皿が並ぶ。一口で食べられる大きさの、握り飯。素焼きのナッツ。皮を剥いた果物。どれも、キーボードを打つ手を止めずに、片手でつまめるものばかりだった。
「夜通し書かれるなら、血糖値を緩やかに保つものを。甘いものを一気に摂ると、そのあと集中が切れますので」
栄養の管理まで、されていた。
俺は、この三年、コンビニのおにぎり一個で夜を越えてきた。倒れなかったのが、不思議なくらいだ。
だが、如月の世話は、ただ甘やかすのとは、違った。俺が書き続けられるように、身体を整える。俺の意地を、壊さないように、支える。零時の更新を守れるように、逆算して、全部が用意されている。俺の三年の習慣を、彼女は、俺以上に、理解していた。
「そこまで、しなくても」
「します」
如月は、譲らなかった。
「神様の身体は、神様一人のものではありませんから」
その言い方に、俺は少し、ぞっとした。だが、それ以上に、胸の奥が、あたたかくなってしまう自分がいて、それが、いちばん怖かった。
***
深夜。零時が近づく。
俺は、まだ新連載の一話目を、書けずにいた。プロットだけ立てて、本文に入れない。姫の口調が、どうしても決まらない。
如月は、部屋の隅で、静かに本を読んでいた。俺の邪魔をしないように。だが、いなくなりもしなかった。
「如月」
「はい」
「銀髪の姫が、主人公に礼を言うとき、なんて言うと思う」
彼女は、少し考えて、答えた。
「『ありがとう』では、軽すぎます。その姫が、本当にその人に救われたのなら――言葉にならないはずです。だから、深く、頭を下げる。それだけで、伝わります」
俺は、はっとした。
そうだ。言葉じゃない。所作だ。
あの雨の夜、俺のアパートで、三つ指をついて頭を垂れた、あの姿が、頭に浮かんだ。
キーボードに、指が、動きはじめた。
不思議だった。三年、一人で唸ってきた執筆が、彼女がそばにいるだけで、少しずつ、ほどけていく。答えを、教わったわけじゃない。ただ、俺の書くものを、心から信じている人間が、隣にいる。それだけで、こんなにも、筆が進む。
指出し手袋の中で、指先が、あたたかかった。
***
翌朝、俺は玄関で、明日の準備がすべて整っていることに気づいた。
通学車の手配。教科書の入ったバッグ。乾いた制服。財布には、いつのまにか、俺が使う分だけの現金。
俺が、何も考えなくていいように。
俺が、明日を、迷わなくていいように。
ふと、思う。俺は今、あのアパートに、どれくらい帰っていないだろう。もう、あの部屋に、俺の生活は、一つも残っていないんじゃないか。
帰る理由が、一つずつ、静かに、こちらへ移されている。
ドアは、今日も、開いている。
開いているのに、俺の足は、もう、外へ向かう理由を、見失いはじめていた。
猫舌を守る湯呑みの角度も、片手でつまめる夜食も、零時の更新を守れるよう逆算されている。世話の解像度が、そのまま三年分の重さに見えたら【にこにこ】を。帰る理由が静かに移されていく続きは、ブクマで。




