第2話 わたくし、と彼女は言った
学校で、如月暦は、俺を人間として認識していなかった。
朝、通学車で校門の手前まで送られ、俺は一人で歩いて教室に入る。如月は、俺より三十分早く、別の車で登校している。同じ屋根の下から来たとは、誰も思わない。
一時間目の前。廊下ですれ違った。
「如月さん、おはよう」
クラスの誰かが声をかける。如月は、足を止めもせず、視線だけをわずかに動かした。
「おはようございます」
氷だった。完璧な発音で、完璧に他人行儀な、一分の隙もない挨拶。声をかけた生徒が、それだけで背筋を伸ばすほどの。
その如月が、俺の横を通り過ぎる。
目も、合わなかった。
***
如月暦は、学校では「氷の令嬢」と呼ばれている。
メガ財閥・如月グループの令嬢。銀髪ロングストレート、白磁の肌、背筋のまっすぐ伸びた立ち姿。誰も近づけない。話しかけても、氷点下の礼儀正しさが返ってくるだけで、二度目はない。
その完璧さを、俺は今朝、間近で見てきたばかりだった。
同じ人が、数時間前、俺の指に手袋をはめ、湯呑みの茶を六十度まで冷ましていた。「神様」と俺を呼び、「わたし」と自分を呼んでいた。潤んだ瞳で、俺の書いた一行を、祈るように読んでいた。
この教室にいる誰も、それを、知らない。氷の令嬢が、家では、こんなにも――言葉にしづらいが、あたたかいのだと。あたたかすぎて、少し、怖いのだと。
ここでは、彼女は「わたくし」だ。
一人称が、一文字、違う。それだけで、別人だった。
俺は、なんだか笑いそうになって、それを噛み殺した。この秘密を知っているのは、この校舎で、俺一人だ。
***
この秘密は、重い。だが、同時に、ほんの少しだけ、誇らしくもあった。誰にも見せない氷の令嬢の、素顔を知っているのは、俺だけ。そう思うと、この綱渡りも、悪くない気がしてくる。
昼休み、俺は購買のパンを持って、階段の踊り場にいた。
窓の外に、中庭が見える。如月が、数人の生徒に囲まれていた。何かの委員の話らしい。彼女は表情を変えず、淡々と指示を出している。近づく者を、静かに拒む空気。
その横顔を、俺は少し、見ていた。
すると。
囲みの外側にいた如月の視線が、ふっと持ち上がって、窓のこちらを――俺を、とらえた。
一瞬だった。
まわりの誰にも気づかれない、コンマ数秒。だが、確かに、目が合った。
彼女の氷点下の瞳の奥で、何かが、灯った。潤むような、光が差すような。俺の作品を語るときに見せる、あの表情の、ほんの欠片。
俺は、思わず、手にしたパンを落としそうになった。
心臓が、跳ねた。恋、とは違う。もっと、ひやりとした、特別な共犯の感覚。この広い校舎で、彼女の氷の下を知るのは、俺だけ。その視線は、俺だけのために、一瞬だけ、溶けた。
次の瞬間、如月は、もう俺を見ていなかった。何事もなかったように、生徒たちのほうへ向き直り、また氷に戻っている。
見事な、切り替えだった。あんまり見事で、俺は、さっきの一瞬が、自分の見た幻だったんじゃないかと、疑いそうになった。
***
放課後。昇降口。
俺が靴を履き替えていると、後ろを、銀の髪が通り過ぎた。
如月だった。ほかの生徒に混じって、まっすぐ前を見て歩いていく。俺のことなど、目に入らないように。
すれ違う、その一瞬。
彼女の唇が、声にならない形で、わずかに動いた。
読み取れた。
『お先に、帰ります』
顔は、氷のまま。誰にも聞こえない。俺にだけ、届く言葉。
俺が返事をする間もなく、如月は、迎えの車のほうへ歩いていった。銀の髪が、遠ざかる。
先に帰る、と、わざわざ、俺に告げた。それだけのことだ。だが、それだけのことが、彼女にとっては、氷を破るほどの、危険な行為なのだ。誰かに気づかれれば、この完璧な演技は、崩れる。それでも、彼女は、告げずにいられなかった。
俺は、その意味を、噛みしめた。
俺と彼女をつなぐものは、この校舎の中には、何一つ、ない。
ただ、視線だけが、さっき、一瞬だけ、絡んだ。
その熱の残りが、まだ、俺の頬のあたりに、貼りついていた。
廊下では一分の隙もない氷点下、なのに中庭で一瞬だけ溶けた視線。校舎でその秘密を知るのは蓮ひとり——この共犯の綱渡りに口元がゆるんだら【にこにこ】を。次の一瞬が見たくなったら、ブクマして明日へ。




