第1話 書くことだけ、考えていてください
目が覚めたら、俺の右手に、指の先だけ出た手袋がはめられていた。
タワーマンションの最上階。見慣れない天井。羽毛布団の重さ。夢だと思いたかったが、指先の感触が、これは現実だと告げていた。
昨夜、俺はここに泊まった。断ろうとして、断りきれなかった。あのアパートには、もう帰る気力が残っていなかった。
「おはようございます、神様」
声のほうを見る。如月が、枕元に膝をついていた。銀の髪が、朝の光を通してほのかに輝いている。
「その手袋、寝ている間に。手が冷えると、キーボードを打つとき動きが鈍るそうですね。指先で操作しやすいよう、指の腹だけ出るものを選びました」
俺は自分の右手を見た。打ち慣れて硬くなった指先の上に、やわらかい布が乗っている。サイズが、ぴったりだった。
「なんで、俺の指のサイズ」
「三年、見てきましたので」
如月は、当たり前のことのように言った。まるで、天気の話でもするみたいに。
三年。俺が、PV一桁のまま、誰にも読まれずに書き続けた、その三年を。この人は、ずっと、見ていた。俺の、指の形まで、覚えるくらいに。
背筋が、ぞくりとした。だが、指先は、あたたかかった。
***
朝食のテーブルには、湯呑みが一つ、置かれていた。
俺が手を伸ばすと、湯呑みは、指がそのまま回る位置にあった。腕を動かさなくても、座ったまま持てる。置き場所が、計算されていた。
「六十度まで落としてあります。猫舌の方は、六十五度を超えると熱いと感じるそうなので」
「……猫舌なの、なんで知って」
「感想欄で、一度だけ書いていらしたので。『熱いラーメンが食べられない主人公』の話のあと、『これは実体験です』と」
俺は、絶句した。三年前の、一言だ。PVも一桁の話の、誰も見ていないはずの、投稿者コメント。
それを、彼女は覚えている。三年前の、たった一言を。俺自身が、とっくに忘れていた言葉を。
背筋が、ひやりとした。同時に、胸の奥が、じわりと、あたたかくなる。この二つの感情が、同時に来ることを、俺は昨日から、何度も味わっている。
如月は、俺の向かいには座らなかった。少し離れた場所で、静かに立って、俺が茶を飲む様子を見ていた。給仕をする人の目だった。いや、もっと言えば、信者が、祭壇を見守るような目だった。
「あの」と俺は言った。「そんなに、かしこまらなくても」
「いいえ」
彼女の声は、揺るがなかった。
「神様には、書くことだけを考えていていただきたいのです。お金のことも、食事のことも、洗濯のことも、ぜんぶ、わたしが引き受けます。あなたが煩わされていい雑事は、この世に一つもありません」
わたし、と彼女は言った。学校で見る、氷のような「わたくし」ではなかった。
***
俺は、茶を飲んだ。熱くもなく、ぬるくもなかった。温度は、正確だった。
こんなふうに世話をされたことは、生まれて一度もなかった。実家は、貧しかった。俺は早くに家を出て、この街でひとり、自分のことは自分でやるのが当たり前で育った。だから、この過剰な優しさが、どう受け止めればいいのか、まるで、わからない。
昼過ぎ、俺は自分のアパートに戻ろうとした。着替えも、充電器も、書きかけのプロットも、全部あっちにある。それに――ここにいると、息が詰まる。優しさで、詰まる。
玄関へ向かうと、如月がついてきた。止めるのかと思った。
違った。
「行ってらっしゃいませ」
彼女は、ドアを開けて、頭を下げた。
「鍵は、かけていません。いつでも、どこへでも、行ってくださって構いません」
拍子抜けした。てっきり、引き止められると思っていた。
「あの部屋の家賃は、今月ぶん、こちらで清算しておきました。電気とガスも止まらないように。ご実家への仕送りも、滞りのないよう手配済みです」
「充電器も、着替えも、同じものをこちらに揃えてあります。……お部屋のものには、触れておりません。書きかけのものが、ありましたので」
足が、止まった。
俺は、月末になると、実家に少しだけ金を送っている。バイト代を削って。誰にも言ったことのない、俺のいちばん柔らかいところだ。
それを、彼女は、もう埋めていた。
「あなたが、どこへ帰っても、困らないように」如月は微笑んだ。「執筆に必要なものは、なんでも、お持ち帰りください」
ドアを、開けた。
開けたのに、俺はもう、どこへ帰ればいいのか、わからなくなっていた。
目覚めたら指出し手袋、湯呑みは四十五度、家賃も仕送りも先回りで清算——愛というより掌握され尽くしている、その解像度に「ぞくっ」としたら【びっくり】を。この飼育契約、蓮がどこへ流れ着くのか、続きはブクマで栞をひとつ。




