3-2-2 DJ BEEF
新川から送られてきた地図の場所は、駅前の大通りから少し外れたところにあった。
三人は、夜の歩道を並んで歩いていた。
通りには、仕事帰りの人がまだ残っている。
スーツの男がコンビニ袋を提げて歩く。
自転車のライトが、横道からふっと出てくる。
ラーメン屋の換気扇から、少し濃い油の匂いが流れてくる。
ライブハウスというより、夜の街の裏側に近い。
wataは、スマホの地図を見ながら眉を寄せた。
「ここ、ほんまに合ってる?」
mcRCは新川からのメッセージを確認した。
「合ってる」
「ライブハウスじゃないよな」
「スタジオ兼ラウンジって書いてある」
EGUIが、歩きながら周囲を見た。
「表の箱じゃなくて、知ってる人が使う場所っぽいな」
wataは、少しだけ肩をすくめた。
「急に界隈やな」
「界隈って何」
mcRCが聞く。
「ほら、あるやん。知ってる人だけが入れる感じ。入口が分かりにくくて、初見に優しくない場所」
EGUIが言う。
「今の俺らやな」
wataは少し笑った。
「初見に優しくない側に来たな」
その雑居ビルは、古かった。
一階には焼き鳥屋。
二階には小さなバー。
三階の窓には黒いカーテンがかかっている。
階段の踊り場には、色褪せたステッカーが何枚も貼られていた。
知らないバンド名。
DJイベントらしきロゴ。
剥がれかけたフライヤー。
手書きの矢印。
誰かが油性ペンで書いた、もう読めないサイン。
壁には、長く音の場所だった匂いが染みついていた。
煙草でも、酒でもない。
古いスピーカー、汗、湿気、貼って剥がされた紙、踏まれた床。
wataが、階段の途中で小さく言った。
「なんか、緊張してきた」
mcRCが横を見る。
「珍しく素直」
「いや、だってBEEFやろ」
EGUIが聞く。
「知ってるのか」
wataは少し迷った。
「詳しくはない」
「ないんかい」
mcRCが突っ込む。
wataは、慌てて手を振った。
「いや、詳しくないけど、名前は分かる。ていうか、DJってどんな人がいるんやろって調べた時に、真っ先に出てくる人の一人がこの人なんよ」
EGUIが眉を少し動かす。
「そんなに有名なのか」
「いろんな意味で有名」
mcRCが聞く。
「いろんな意味?」
wataは、階段の上を見たまま声を落とした。
「プレイがえぐいとか、現場で空気を変えるとか、誰も合わせられんとか、伝説みたいな話もあるし、近寄りがたいみたいな話もある」
「それ、大丈夫なのか」
mcRCが言う。
wataは苦笑した。
「だから緊張してるんやん」
EGUIが静かに言った。
「新川さんが紹介するなら、意味はあるんやろ」
「それはそう」
wataは頷いた。
「そこは信用してる」
三人は三階まで上がった。
扉の前には、小さなプレートがある。
STUDIO / LOUNGE
その下に、黒いテープで貼られた紙。
本日貸切。
mcRCは一度だけ息を吸った。
扉をノックする。
二回。
中で足音がした。
少しして、扉が開く。
新川だった。
白いポロシャツ。
サングラス。
夜の屋内でも、もう誰も突っ込まない。
「お疲れさまです」
mcRCが頭を下げる。
「お疲れさまです。本日はありがとうございます」
wataとEGUIも続けて頭を下げた。
新川は、三人を中へ通した。
「こちらです」
室内は、外から見るより広かった。
奥には小さなDJブース。
ターンテーブル。
ミキサー。
大きすぎないスピーカー。
壁際にはソファ。
床には黒いケーブルが何本も這っている。
ライブハウスほど大きくない。
スタジオほど冷たくない。
バーほど浮ついてもいない。
音を鳴らすための部屋だった。
wataは、DJブースを見た瞬間に少し黙った。
いつものようにすぐ茶化さない。
EGUIは、部屋の構造を見ていた。
入口。
機材。
スピーカーの位置。
ソファ。
照明。
人が立つ場所。
mcRCは、ブースの横に置かれた黒いケースを見た。
ヘッドホン。
ケーブル。
使い込まれた機材ケース。
黒いキャップ。
その奥に、男が立っていた。
黒いパーカー。
黒いパンツ。
深くかぶったキャップ。
手には紙コップのコーヒー。
年齢は、三人より上に見えた。
派手ではない。
大きなアクセサリーもない。
威圧するような立ち方でもない。
それなのに、その人がいるだけで、部屋の空気が少し締まっている。
男は、三人を見た。
「BEEF」
それだけだった。
wataが、ほとんど反射で言った。
「……本物のBEEFじゃん」
男の目が、wataへ向いた。
wataは、一瞬だけ固まった。
「あ、すみません。wataです」
mcRCは、少し遅れて頭を下げた。
「Reverse CrownのmcRCです」
EGUIも続く。
「EGUIです」
BEEFは頷いた。
それだけ。
wataの顔に、完全に「短い」と書いてあった。
けれど、その場では何も言わなかった。
新川が間に入る。
「こちらがDJ BEEFです」
BEEFは足さない。
新川は続けた。
「今日は顔合わせと、簡単な音合わせです。正式加入や継続契約の話ではありません」
mcRCは頷いた。
「分かりました」
新川は、BEEFの方を一度見る。
「お互いに、一度やってみる。まずはそこです」
BEEFは、紙コップを小さなテーブルへ置いた。
「音源」
短い。
mcRCは、持ってきたUSBメモリを取り出した。
「今日使う分を入れてあります」
BEEFは受け取る。
新川が補足した。
「BEEFさんには、事前に音源をいくつか送っています」
wataが少しだけBEEFを見る。
BEEFはUSBをノートパソコンに挿しながら言った。
「全部聴いた」
三人の動きが少し止まった。
mcRCが聞いた。
「全部、ですか」
BEEFは画面を見たまま答えた。
「全部」
wataが思わず言う。
「今日使う曲だけじゃなくて?」
「全部」
EGUIが静かに聞いた。
「リバクラの曲を、ですか」
BEEFは、そこで初めて三人の方を見た。
「知らねえ曲で、客の前に立つな」
部屋が少し静かになった。
その言葉は、強かった。
大きな声ではない。
怒鳴ってもいない。
ただ、BEEFの中では当たり前のことを言っただけに見えた。
wataは、言葉を探して、結局何も言わなかった。
mcRCも、すぐには返せない。
EGUIだけが、ゆっくり頷いた。
「それは、そうですね」
BEEFの視線がEGUIに向く。
EGUIは続けた。
「自分たちの曲でも、全部をちゃんと見直せているとは限らない。外から聴いて来てくれるなら、こちらもちゃんと向き合います」
BEEFは数秒、EGUIを見た。
「まっすぐだな」
EGUIは、淡々と答えた。
「そのつもりです」
wataは横で、少しだけ息を吐いた。
茶化す場面ではなかった。
BEEFはノートパソコンの画面を操作しながら言った。
「THAT’S LIVE」
mcRCの表情が変わる。
「はい」
「興味出た」
短い。
けれど、その一言で、何かがつながった。
新川は、黙ってその場を見ている。
BEEFは続けた。
「あれはライブだ」
mcRCは、ゆっくり頷いた。
「トラブルがあって、その場で作った曲です」
「知ってる」
「え」
wataが反応する。
BEEFは、画面から目を離さない。
「流れも聞いた」
新川が静かに補足する。
「BEEFさんには、私から少し話しています。あの日のトラブルと、三人がどう場を持たせたか」
mcRCは、新川を見る。
新川は、いつもの落ち着いた表情のままだった。
BEEFは、ミキサーのつまみに触れながら言う。
「事故を隠すためじゃねえ」
mcRCは、息を止めた。
BEEFは続けた。
「客を落とさないために、場を変えた」
wataの目が少しだけ開く。
EGUIも、静かにBEEFを見る。
BEEFはそれ以上説明しなかった。
でも、言いたいことは伝わった。
BEEFは、THAT’S LIVEをただの即興対応として見ていない。
トラブルを美談として消費したわけでもない。
ライブの場で、予定外を価値に変えた。
そこに興味を持った。
mcRCは、短く言った。
「ありがとうございます」
BEEFは、頷きもせずにヘッドホンを片耳に当てた。
「やるぞ」
それが、音合わせ開始の合図だった。
三人はマイクを持った。
スタジオの空気が少し変わる。
さっきまでの会話の空気から、音を出す前の空気へ。
BEEFは、まず一曲目をヘッドホンで確認した。
フックの位置。
バースの入り。
三人の声が重なるところ。
落ちるところ。
長くは聴かない。
数秒聴いて、飛ばす。
また聴く。
止める。
戻す。
少しだけ音を出す。
wataは、小さくmcRCへ言った。
「早いな」
mcRCは頷いた。
EGUIはBEEFの手元を見ている。
BEEFは何も言わず、フェーダーに指を置いた。
スピーカーから音が出た。
最初の入りは、ほとんど原曲通りだった。
余計な音を足さない。
無理に派手にしない。
勝手に切らない。
壊さない。
ただ、イントロの音量の出し方が少し違った。
音が、部屋の奥からゆっくり前へ出てくる。
ただ再生されたというより、誰かが手で押し出したみたいだった。
mcRCは、その一拍を聞いてからマイクを握った。
入る。
いつものように景色を作る。
狭い部屋。
黒いカーテン。
古いスピーカー。
床に這うケーブル。
白ポロの新川。
ブースの奥で無言のまま音を見ているBEEF。
その場にあるものを、短く言葉に変えていく。
BEEFは何もしない。
正確には、何もしていないように見える。
けれど、音は少しだけ呼吸していた。
大きく変わったわけではない。
でも、三人が入る場所を邪魔しない。
wataが続く。
いつものように言葉を転がす。
少し探りながらも、フロウは崩れない。
BEEFは、wataの入りを待っているようだった。
早くも遅くもない。
ただ、wataが乗った瞬間、低音がほんの少し前に出る。
wataの眉が、ほんの少し動いた。
気持ち悪いほどではない。
むしろ、やりやすい。
けれど、誰かに足場を作られたような感じがあった。
EGUIが最後に入る。
言葉を置く場所は変えない。
BEEFも変えない。
EGUIの声が部屋の奥へ届くまで、音は余計な動きをしなかった。
一曲目が終わる。
BEEFはすぐに次の曲へ行かなかった。
完全に止めることもしなかった。
残っている音を、ほんの少しだけ長く残す。
余韻が消えきる直前に、次の曲の入りを薄く重ねる。
それだけだった。
派手な技ではない。
でも、曲が終わって、部屋がただの部屋に戻る前に、次の景色へ足場が渡された。
mcRCは小さく頷いた。
「そのまま行きます」
BEEFは返事をしない。
ただ、次の音が少しだけ前へ出た。
二曲目に入る。
今度はwataが、さっきより少し自然に乗った。
「……なるほどな」
小さく呟いた声は、マイクには乗らない。
隣のmcRCには聞こえた。
曲と曲の間が、完全には切れていない。
説明しなくても、次の景色に入れる。
BEEFは大きく動かない。
チョップもしない。
止めもしない。
壊しもしない。
ただ、三人が入りやすい場所に音を置く。
それだけで、ライブの輪郭が少し変わる。
二曲目が終わる。
BEEFは音をすっと落とした。
雑ではない。
余韻を残しすぎることもなく、切りすぎることもない。
部屋に、三人の息だけが残った。
BEEFはヘッドホンを外した。
「こんなもん」
短い。
wataはマイクを下ろした。
「……短」
BEEFは返さない。
mcRCは、少し息を整えてから言った。
「やりやすかったです」
BEEFは紙コップを取った。
「ならいい」
それだけ。
EGUIが言った。
「曲の意味は変わっていません。でも、入る時の姿勢が変わる感じがありました」
BEEFはEGUIを見る。
EGUIは続けた。
「言葉で全部説明しなくても、次に入れる場所がある」
BEEFは小さく頷いた。
「そういうこと」
wataは、マイクを手で回しながら言った。
「正直、もっと好き勝手やってくるんかと思ってました」
新川が少しだけwataを見る。
BEEFは表情を変えない。
「初回だろ」
「それはそうですけど」
「壊す必要がねえ」
wataは、その返しに少しだけ黙った。
壊す必要がない。
つまり、必要があれば壊すということか。
そこまでは、まだ誰も口にしなかった。
mcRCは、BEEFを見た。
今日の音合わせでは、問題は感じなかった。
むしろ、やりやすかった。
でも、BEEFの底は見えない。
今は、かなり抑えている。
それは分かる。
ただ、それを警戒するほどのことは、まだ起きていない。
新川が口を開いた。
「今日のところは、問題なさそうですね」
mcRCは頷いた。
「はい」
wataも言った。
「普通に、やりやすかったです」
EGUIも頷く。
「違和感はありませんでした」
BEEFは、特に嬉しそうでもない。
当たり前、という顔をしている。
新川は続けた。
「では、今後の話です」
三人が新川を見る。
「今日の時点で、正式加入や専属の話をするつもりはありません」
mcRCが頷く。
「はい」
「まず、一度一緒にやってみる。ゲストとして入ってみる。そういう形でいいと思います」
wataが言う。
「体験してみる感じですね」
「そうです」
新川は静かに言った。
「先のことは、お互いまだ分からないはずです」
BEEFは、紙コップを置いた。
何も言わない。
新川は続ける。
「でも、こういう出会いは大事です。今のReverse Crownにとっても、BEEFさんにとっても」
mcRCは、その言葉を受け取った。
出会い。
正式加入ではない。
契約でもない。
体制変更でもない。
一度、やってみる。
そのくらいの距離だからこそ、試せることがある。
BEEFが言った。
「一回、客の前でやれ」
wataが反応する。
「客の前?」
BEEFは短く言う。
「ここじゃ分かんねえ」
それだけだった。
wataは、少しだけ目を細めた。
「まあ、確かに」
mcRCも頷いた。
この部屋では分からない。
音は鳴った。
問題はなかった。
やりやすかった。
でも、ライブは客席があって初めて分かる。
EGUIが言った。
「配信なら、試せる」
mcRCがEGUIを見る。
「配信」
EGUIは続けた。
「いきなり大きなライブに入れるより、一度見える形でやる。リバクルーにも届くし、反応も見える」
wataも頷いた。
「ライブハウス借りて、配信でやるとか」
mcRCは少し考えた。
「ありだな」
新川が頷く。
「現実的です。小さめの箱で、配信あり。観客を少し入れるかどうかは、後で考えればいい」
BEEFは、特に反応しない。
ただ、嫌そうでもない。
mcRCはBEEFを見た。
「BEEFさん、一度配信で一緒にやるのはどうですか」
BEEFは、少しだけmcRCを見た。
「いい」
短い。
wataが小さく笑った。
「返事も短い」
BEEFはwataを見る。
「長い方がいいか」
wataはすぐに手を振る。
「いや、大丈夫です」
EGUIが静かに言った。
「必要なことは返ってきてる」
wataは小声で言う。
「それはそう」
新川は、話をまとめるように言った。
「では、一度配信で試す方向で進めましょう。詳細はまた詰めます」
mcRCは頭を下げた。
「ありがとうございます」
wataとEGUIも続く。
BEEFは、ヘッドホンをブースへ戻した。
「音源、あとで全部まとめて送れ」
mcRCが頷く。
「分かりました」
「本番で使うかどうかは別」
「はい」
「聴く」
その一言に、wataは少しだけ表情を変えた。
さっき全曲聴いてきた人が、さらに聴くと言っている。
やっぱりこの人は、雑ではない。
話しやすくはない。
愛想がいいわけでもない。
何を考えているかも読みにくい。
でも、音に対しては雑ではない。
それは、今日一番大きい収穫だった。
顔合わせは、それで終わった。
扉の前で、新川が三人を見送る。
「今日はここまでで十分だと思います」
mcRCは頷いた。
「はい」
wataが少しだけ肩を回す。
「なんか、想像より平和でした」
新川が言う。
「初回ですから」
wataはその言い方に少し反応した。
「初回だから、ですか」
新川は、答えなかった。
ただ、少しだけ口元を動かした。
BEEFは、もうブースの方へ戻っていた。
こちらを見ない。
でも、完全に無視している感じでもない。
会話は終わった。
用事も終わった。
だから戻る。
そういう切り方だった。
三人は雑居ビルを出た。
夜の空気が、少し冷たく感じた。
焼き鳥屋の匂いがまだ通りに漂っている。
駅へ向かう人の流れ。
遠くの車の音。
ビルのガラスに映る自分たちの姿。
wataは、しばらく黙って歩いた。
mcRCも何も言わない。
EGUIも、前を見ている。
三人とも、さっきの音を体のどこかで反芻していた。
やりやすかった。
三人は雑居ビルを出た。
夜の空気が、少し冷たく感じた。
焼き鳥屋の匂いが、まだ通りに残っている。
駅へ向かう人の流れ。
遠くの車の音。
ビルのガラスに映る、自分たちの姿。
三人とも、すぐには喋らなかった。
さっきの音合わせは、問題なかった。
むしろ、やりやすかった。
BEEFは原曲を大きく壊さなかった。
勝手に曲を切らなかった。
派手に技を見せつけることもしなかった。
ただ、曲の入り方と終わり方が少し変わった。
曲と曲の間に、ほんの少し足場ができた。
それは、たしかに良かった。
でも。
良かったからといって、全部をすぐ受け入れられるほど、三人は単純ではなかった。
駅前の喫茶店の前で、wataが立ち止まった。
「入らん?」
mcRCが見る。
「今?」
「今」
EGUIが時間を確認する。
「少しなら」
wataは、自動ドアの向こうを見た。
「このまま帰るには、ちょっと胸の中が散らかってる」
mcRCは小さく頷いた。
「分かる」
三人は喫茶店に入った。
店内は静かだった。
窓際に会社員が一人。
奥の席に年配の夫婦。
BGMは古いジャズ。
三人は、奥のボックス席に座った。
mcRCとEGUIはコーヒー。
wataは少し迷って、クリームソーダを頼んだ。
mcRCが一瞬だけ見る。
wataがすぐ言った。
「何」
「いや」
「今、子どもやなって思ったやろ」
EGUIが言う。
「思った顔はしてた」
wataは胸を押さえた。
「音合わせ後にそれ言う?」
mcRCは少し笑った。
「似合うからいいやん」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんで褒めるな」
少しだけ笑いが戻った。
でも、いつものようには広がらない。
まだ、BEEFの余韻が残っている。
コーヒーとクリームソーダが来る。
グラスの中で、氷が小さく鳴った。
wataは、クリームソーダを見ながら言った。
「で、どう思った?」
mcRCは、コーヒーカップを両手で持った。
「音は、やりやすかった」
EGUIも頷く。
「邪魔はされなかった」
wataが続ける。
「むしろ、入りやすかった」
「うん」
mcRCは言った。
「音が、次の場所を作ってくれる感じがあった」
EGUIが少し考えてから言う。
「曲の意味は変わらない。でも、姿勢は変わる」
wataが頷く。
「それ。ちょっと前に出される感じ」
mcRCはコーヒーを一口飲んだ。
苦味が、少しだけ頭を冷やす。
「ただ」
wataが顔を上げる。
mcRCは、少しだけ言葉を選んだ。
「人として、好きかって言われたら、今のところ微妙」
wataは、ストローをくわえる前に止まった。
それから、深く頷いた。
「分かる」
EGUIも静かにカップを置いた。
「態度だけ見れば、かなり上からに見える」
その言葉で、三人の間に少しだけ硬い空気が落ちた。
上から。
その匂いに、三人は敏感だった。
リバクラは、そこを嫌ってきた。
役職を盾にして、人を見ないこと。
実績を笠に着て、相手の心を無視すること。
分かるやつだけ分かればいい、という態度で置いていくこと。
自分の正しさを押しつけて、相手の立場を見ないこと。
そういうものが、嫌いだった。
大っ嫌いだった。
だからこそ、曲にしてきた。
だからこそ、THAT SEATを歌った。
CALL ME OUTを歌った。
Unseen Handsを歌った。
人を雑に扱うな。
上から人の価値を決めるな。
その思想で立っている三人が、BEEFのあの短い物言いに何も感じないわけがなかった。
wataは、クリームソーダの氷をストローで軽く突いた。
からん、と小さな音がした。
「正直、嫌いな香りはする」
mcRCは否定しなかった。
「うん」
wataは続ける。
「“知らなくていい。音で分かれば”とか、“初回だろ”とかさ。分かるよ。かっこいいのも分かる。でも、俺らが今まで嫌ってきたタイプにも見える」
EGUIは、wataの言葉を受けて、少しだけ前を見た。
「ただ、同じではない」
wataがEGUIを見る。
「どう違う?」
EGUIは、短く終わらせなかった。
「上から言っているように見える。でも、少なくとも今日の音は雑じゃなかった。曲も壊していない。三人の入りも邪魔していない。THAT’S LIVEに興味を持った理由も、客席を落とさないために場を変えたところだった」
mcRCは頷いた。
EGUIは続ける。
「つまり、態度は嫌な匂いがする。でも、音と見ている場所は、今のところ否定できない」
wataは、少し黙った。
それから、苦笑した。
「それが一番めんどい」
mcRCも、薄く笑った。
「めんどいな」
wataは背もたれに体を預けた。
「はっきり偉そうで、音も雑なら簡単なんよ」
「断ればいいからな」
mcRCが言う。
「そう。でも、今日の音は普通に良かった」
EGUIが頷く。
「そこは事実」
wataは、少しだけ悔しそうに言った。
「事実なんよなあ」
mcRCは、コーヒーカップを見つめた。
「個人的には、今すぐ一緒にやりたいかって言われたら、俺も正直、微妙」
wataが顔を上げる。
mcRCは続けた。
「偉そうに見える人、苦手やから」
「分かる」
「でも、それって俺の感情の話で、音楽の話とは別やん」
EGUIが頷いた。
「分けた方がいい」
mcRCは静かに言った。
「うん。ここを混ぜたら、たぶん子どもになる」
wataは、少しだけ目を細めた。
「子ども」
「嫌いな感じがした。だから可能性も見ない。これは、ちょっと違う」
mcRCは、自分に言い聞かせるように続けた。
「もちろん、嫌なものを無理に受け入れる必要はない。でも、今日の段階では、あの人が俺らを雑に扱ったとはまだ言えない」
EGUIが言った。
「言葉は少ない。態度も柔らかくはない。でも、曲への扱いは丁寧だった」
wataは、クリームソーダを一口飲んだ。
炭酸が音を立てる。
「そこなんよな」
彼はグラスを置いた。
「俺ら、上からが嫌いって言ってる。でも、嫌いな匂いがする相手を全部敵にしたら、それもまた決めつけやん」
mcRCは頷いた。
「うん」
wataは少し顔をしかめた。
「うわ、俺いま大人っぽいこと言った」
EGUIが言う。
「言った」
wataはEGUIを見る。
「そこは茶化して」
「茶化すところじゃない」
wataは小さく笑った。
「正論で逃げ道塞ぐなあ」
そのやり取りで、空気が少しだけ柔らかくなった。
でも、話の芯は残っている。
mcRCは、窓の外を見た。
駅へ向かう人たちが、店の前を通り過ぎていく。
誰も、さっき三階のスタジオで起きた小さな音合わせのことなど知らない。
当たり前だ。
でも、三人の中では、確かに何かが入ってきていた。
mcRCは言った。
「どっちにしても、俺ら、一回成仏してるところやん」
wataが、少しだけ笑った。
「また出た、成仏」
EGUIは笑わずに聞いている。
mcRCは続けた。
「単独ライブをやった。成功した。言いたかったことも、かなり歌えた。もちろん全部終わったわけじゃないけど、最初の怒りとか、切実さみたいなものは、一回ちゃんと客席に渡せた」
wataは黙った。
それは分かる。
THAT SEATを歌った。
Unseen Handsを歌った。
SMALL WINを渡した。
リバ点呼で声を聞いた。
自分たちの中で煮えていたものは、少なくとも一度、形になった。
だから今、少しだけ空いた場所がある。
新しいものが入る余地。
mcRCは言った。
「だから、今は新しい風を入れる時期なのかもしれん」
wataはストローで氷を揺らした。
「風っていうか、黒い扇風機みたいな人やったけどな」
EGUIが静かに言う。
「風量はまだ弱だった」
wataが吹き出した。
「その言い方、やめろ」
mcRCも笑った。
笑ったあと、EGUIは少しだけ真面目な声に戻した。
「でも、今日の段階では、試す価値はある」
wataが頷く。
「うん」
EGUIは続けた。
「嫌な匂いはある。そこは忘れない方がいい。でも、それだけで閉じるには、音の可能性も見えた」
mcRCは言った。
「大人の心で頑張るか」
wataが苦笑する。
「言い方よ」
「でも、そんな感じやろ」
「まあな」
wataは、少しだけ姿勢を正した。
「個人的には嫌。でも音楽的には気になる。だから、一回だけやってみる」
EGUIが言う。
「ゲストとして」
mcRCが頷く。
「正式な何かじゃなくて、一回の企画として」
wataは、クリームソーダのアイスを少し崩した。
「配信でやってみる?」
mcRCが見る。
「うん」
wataは続けた。
「いきなり大きなライブじゃなくて、ライブハウス借りて、配信で一回。リバクルーにも見てもらえる。反応も見える」
EGUIも頷いた。
「客前でないと分からない。でも大きくしすぎる必要はない」
mcRCは、テーブルの上にスマホを置いた。
「じゃあ、新川さんに伝える」
wataが言う。
「今?」
「今」
EGUIも頷く。
「方向が決まったなら、早い方がいい」
mcRCはメッセージを開いた。
少しだけ考えてから、打ち始めた。
⸻
新川さん
今日はありがとうございました。
三人で少し話しました。
BEEFさんとは、まず一度ゲストという形で配信ライブをやってみたいです。
正式な形を決める前に、一緒に客前で鳴らしてみる経験をしたいです。
正直、まだ人としての距離感は分かりません。
ただ、音合わせでは可能性を感じました。
小さめのライブハウスかスタジオで、配信ありの形を考えています。
詳細はまた相談させてください。
⸻
mcRCは、二人へ画面を見せた。
wataが読んで、少しだけ頷いた。
「いいと思う」
EGUIも言った。
「正直でいい」
mcRCは送信した。
数秒後、既読がつく。
返事はすぐに来た。
⸻
新川:
承知しました。
良いと思います。
BEEFさんにも伝えておきます。
日程と場所の候補を出します。
⸻
wataが、スマホの画面を見て小さく息を吐いた。
「決まってきたな」
mcRCは頷いた。
「うん」
EGUIが言った。
「まだ始まってない。でも、始めることは決まった」
三人は、しばらく黙っていた。
喫茶店のBGMが、曲の終わりに近づいている。
ピアノの音が少しだけ余韻を残した。
完全に止まる前に、次のベースがゆっくり入る。
wataは、それを聞いて、ぽつりと言った。
「今の曲間、ちょっとBEEFっぽかったな」
mcRCは笑った。
「もう影響出てる」
EGUIが静かに言う。
「始まってるんやろ」
wataは、クリームソーダの氷をストローで軽くつついた。
からん、と小さな音がした。
まだ何も壊れていない。
まだ何も揉めていない。
ただ、新しい音が一つ、リバクラの近くに来た。
好きか嫌いかで言えば、まだ嫌いに近い。
でも、気になる。
腹立つところもある。
でも、音は悪くない。
だから、大人の心で一度やってみる。
三人は、その夜、少しだけ長く喫茶店にいた。
何かを決めきるためではない。
胸の中に入ってきた新しい風を、すぐに好き嫌いで切らず、少しだけ眺めるために。
外では、夜の街がいつも通り流れていた。
その中で、リバクラは次の小さな企画を決めた。
DJ BEEFをゲストに呼ぶ。
一度、配信でやってみる。
それだけ。
でも、その「一度」が、どこへつながるのかは、まだ誰も知らなかった。




