5-4-14 風が淀んでいたころ
店を出ると、夜の空気が少し冷たかった。
さっきまでいた個室には、食事の湯気と、人の声と、歌の余韻が残っていた。
ReShiNa Letter。
My rest。
飯は感情。
牛、戻る。
魂の声じゃない。
魂の叫びだろ。
笑い声が、まだ耳の奥にいる。
natsuは、フルートケースを胸に抱いたまま、店の入口の横で少し立ち止まった。
みんなはまだ、会計や荷物の確認をしている。
Kateさんが人数を数えている。
SaraさんがBEEFさんのケーブルを見ている。
BEEFさんが「見るな」と言っている。
wataさんが笑っている。
RCさんが苦笑している。
EGUIさんが「忘れ物ないか」と確認している。
renaがギターケースを肩にかけ直している。
shihoがキーボードケースの持ち手を確かめている。
人が多い。
音も多い。
でも、嫌ではなかった。
natsuは、少しだけ空を見た。
ビルの間に、狭い夜空がある。
広くはない。
けれど、風は通っていた。
強くはない。
でも、止まってはいない。
natsuは、小さく息を吸う。
冷たい空気が、胸の中へ入った。
その冷たさで、ふと昔のことを思い出した。
風が淀んでいたころ。
黒百合の夜のあと。
百合根が、知らないところで回り始めたころ。
あの時、natsuは今よりもずっと、風の向くままだった。
今もそうだ。
風の向くまま。
でも、あのころは少し違った。
風が吹けば動く。
風が止まれば止まる。
風が濁れば、自分も濁る。
風が戻らなければ、自分も戻れない。
そんなふうに、ただ流されていた。
自分で風を読んでいるつもりだった。
でも、本当は風に読まれていた。
ローホイッスルを持っても、息が入らない日があった。
フルートを出しても、音が高く抜けすぎて怖い日があった。
ケースを開けて、閉じる。
また開けて、閉じる。
それだけで、夕方が夜になった。
あのころのnatsuは、よく窓の外を見ていた。
何かを考えていたわけではない。
答えを探していたわけでもない。
ただ、外を見ていた。
風が動いているかどうか。
木の葉が揺れるかどうか。
カーテンが少し膨らむかどうか。
誰かが歩くたびに、空気が変わるかどうか。
そんなものばかり見ていた。
人の言葉は、少し遠かった。
「大丈夫?」
「今日は吹けそう?」
「無理しなくていいよ」
renaもshihoも、やさしかった。
でも、そのやさしささえ、うまく受け取れない時があった。
うん、と言う。
大丈夫、と言う。
吹ける、と言う。
でも、音は出ない。
出ても、戻ってこない。
natsuは、自分の音がどこへ行ったのか分からなかった。
風は戻らない。
あの言葉は、歌になったあとも、ずっと胸に残っていた。
戻らない風。
戻らない声。
戻らない自分。
自分が出した音は、誰かの中で違う名前になって帰ってくる。
癒し。
眠れる音。
怖い。
忘れられない。
綺麗。
レア。
やばい。
黒百合。
百合根。
どれも、間違いではなかった。
でも、どれも少し違った。
その「少し違う」が積み重なって、風が淀んだ。
natsuは、誰かに強く怒ることができなかった。
怒っていいのかも分からなかった。
録られたこと。
回されたこと。
知らないところで聴かれたこと。
嫌だった。
怖かった。
でも、少しだけ、聴かれたことが嬉しい自分もいた。
その自分が嫌だった。
嫌なのに嬉しい。
嬉しいのに怖い。
怖いのに、誰かに届いたならよかったと思ってしまう。
届いたなら、なぜこんなに苦しいのか分からない。
natsuは、その矛盾に名前をつけられなかった。
だから、ただ淀んだ。
風が濁ると、natsuも濁る。
風が止まると、natsuも止まる。
あのころ、renaは水の底に沈んでいた。
shihoは森の奥へ入りすぎていた。
natsuは、風なのに部屋の角に溜まっていた。
流れない風。
それは、風ではなく、重い空気だった。
「natsu?」
声がして、natsuは今に戻った。
renaが、少し離れたところからこちらを見ていた。
「寒くない?」
natsuは首を横に振った。
「寒いけど、平気」
renaは小さく笑った。
「寒いんだ」
「うん」
「でも平気?」
「うん」
shihoも近づいてきた。
「夜風、好き?」
natsuは少し考えた。
「今日は好き」
shihoは、優しく頷いた。
「そっか」
今日は好き。
その言い方が、自分でも少しおかしかった。
昔は、夜風が好きかどうかも分からない日があった。
夜が近い夕方。
黒百合のあと、三人で練習室に入ったあの日。
夜になる前の空気。
あの時の風は、どこか戻れない感じがした。
でも、今日は違う。
夜は夜だった。
負けた夜だった。
悔しい夜だった。
でも、人がいた。
ご飯があった。
笑いがあった。
BEEFさんが肉を食べていた。
Saraさんが観察していた。
wataさんが腹立つと言いながら、少し前を向いていた。
RCさんが、水を持って戻ってきた時、少し静かだった。
EGUIさんが、低い声でありがとうと言った。
renaは、ちゃんと歌を渡した。
shihoは、ちゃんと言葉を沈めた。
そして自分は、何も答えを持っていなかった。
それでいいと思った。
natsuは、答えを持っていない。
大きな正解を隠しているわけでもない。
みんなが見えていない真実を、ひとりで握っているわけでもない。
ただ、感じている。
風が動いたら、動いたと感じる。
風が止まったら、止まったと感じる。
水が濁ったら、濁ったと感じる。
森がざわめいたら、ざわめいたと感じる。
それをうまく説明できない。
だから、言葉は短くなる。
「風、止まってる」
「少し、動いた」
「牛、戻る」
「帰り道」
それだけ。
自分でも、もう少しちゃんと言えたらいいのにと思う時がある。
でも、ちゃんと言おうとすると、風は言葉の中で死んでしまう。
だから、natsuは短く言う。
感じたままを、ぽつんと置く。
それしかできない。
でも、今日はそれで少し笑ってもらえた。
牛、草。
牛、戻る。
肉の人。
BEEFさんは怒っていた。
でも、肉を食べた。
Saraさんが観察していた。
wataさんが笑っていた。
あの笑いで、風が少し動いた。
natsuは、それを見た。
楽しかった。
そう思った瞬間、natsuは自分で少し驚いた。
楽しい。
今、楽しい。
負けた夜なのに。
みんな悔しがっているのに。
まだ何も解決していないのに。
それでも、楽しい。
それは不謹慎ではないかと思った。
でも、すぐに違うとも思った。
楽しいは、軽いだけじゃない。
楽しいは、戻ってくる力だった。
あのころのnatsuには、それがなかった。
黒百合のあと、百合根のあと。
音が誰かの手に渡って、自分たちの知らないところで回っていった時。
natsuは、自分の音が遠くへ行くことを怖がった。
遠くへ行くなら、戻ってこない。
戻ってこないなら、もう吹けない。
そう思っていた。
でも、今日、リバクラを見ていたら少し違った。
音は戻らない。
それは、たぶん本当。
でも、戻らないから終わりではない。
行った先で、誰かを連れてくることがある。
ReShiNa Letterは、リバクラへ行った。
My restが返ってきた。
同じ形ではない。
同じ風ではない。
でも、返ってきた。
手紙が、休息になって返ってきた。
水と森と風が、コーヒーと温泉と綺麗に変わって返ってきた。
なんだそれ、と思った。
でも、楽しかった。
natsuは、少し笑った。
renaがその顔を見て、首を傾げる。
「どうしたの?」
natsuは、少し考えた。
「楽しい」
renaの表情が、ふっと緩んだ。
「そっか」
shihoも、静かに笑った。
「楽しいね」
natsuは頷いた。
「うん」
少し離れたところで、BEEFさんがまたSaraさんに言われていた。
「タブレットはバッグに入れましたか」
「入れた」
「ケーブルは」
「入れた」
「感情は」
「持ってる」
wataさんが笑った。
「持ってるって言った!」
BEEFさんが睨む。
「うるせえ」
Saraさんは真顔で頷いた。
「確認完了です」
natsuは、それを見てまた笑った。
昔、自分が淀んでいた時。
こんなふうに誰かが笑ってくれたら、少し違ったのかなと思った。
でも、すぐに首を横に振った。
違う。
あの時は、あの時の風だった。
淀んだ風も、自分の一部だった。
黒百合も。
百合根も。
眠れなかった夜も。
戻らなかった風も。
全部なかったことにはできない。
なかったことにしたら、今の自分のフルートも、ローホイッスルも、少し嘘になる。
だから、natsuはあの時の自分を嫌いではない。
好きでもない。
ただ、いた。
あの時の自分は、あそこにいた。
風が淀んだ場所に、ちゃんといた。
そして今は、ここにいる。
人がいる。
笑いがある。
音がある。
ご飯がある。
肉がある。
Saraさんの確認がある。
BEEFさんの「うるせえ」がある。
wataさんの「腹立つ」がある。
RCさんの静かな水のグラスがある。
EGUIさんの低い「ありがとう」がある。
renaの歌がある。
shihoの森がある。
自分のフルートケースが、胸の前にある。
natsuは、フルートケースを少し抱き直した。
風が、ケースの中で眠っている気がした。
まだ吹かない。
今日は、もう吹かなくていい。
今日は、感じるだけでいい。
Kateさんが全員に声をかけた。
「では、そろそろ出ましょう。帰りの車、分かれます」
Ninaさんが言う。
「BEEFさん、ちゃんと乗る車間違えないでくださいね」
BEEFさんがすぐ返す。
「間違えねえ」
Saraさんが言う。
「感情が乱れている場合、乗車ミスは発生し得ます」
「しねえよ」
Yuiさんがメモを見て言う。
「BEEFさんは右側です」
「案内すんな」
wataさんが笑いながら言う。
「牛、誘導されてる」
BEEFさんがwataさんを睨む。
「お前も一拍空けろよ」
wataさんが一瞬止まる。
それから、少しだけ笑った。
「今それ言う?」
「言う」
「腹立つわ」
でも、wataさんの声は少し嬉しそうだった。
natsuは、それを見ていた。
ああ。
さっきより、風が通っている。
まだ強くない。
まだ遠くまでは行かない。
でも、止まっていない。
それだけで十分だった。
renaがnatsuの横に来る。
「行こう」
shihoも隣に立つ。
「忘れ物ない?」
natsuはフルートケースを持ち上げた。
「ある」
renaが驚く。
「え?」
natsuは、自分の胸を指差した。
「楽しい」
shihoが一瞬止まった。
それから、笑った。
「それは、持って帰って」
natsuは頷いた。
「うん」
楽しいは、忘れ物にしない。
あのころ置いてきたみたいに、練習室の黒い吸音材の中に置きっぱなしにしない。
知らない誰かの録音ファイルの中に閉じ込められたままにしない。
今日は、持って帰る。
風が淀んでいた自分にも、あとで少しだけ見せたい。
大丈夫。
まだ全部は分からない。
答えはない。
でも、こんな夜もある。
負けたのに、食べて、笑って、歌って、返して、少し楽しい夜がある。
だから、風はまた動く。
店の扉が開いた。
夜の空気が入る。
natsuは、フルートケースを抱えたまま外へ出た。
ビルの間を、細い風が抜けていく。
風の向くまま。
でも、今日はただ流されるだけではなかった。
natsuは、小さく息を吸って、誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「楽しい」
その言葉は、すぐ夜風にほどけた。
でも、消えなかった。
胸の中に、ちゃんと残った。




