5-4-10 水に椅子を残す
My restのあと、店の個室には、まだ笑いの残りがあった。
「魂の声じゃない」
「魂の叫びだろ」
「距離と敬意」
「飯は感情」
「牛、戻った」
そんな言葉が、皿の上の湯気みたいに、まだ少しだけ漂っている。
けれど、笑いきったあとに来る静けさもあった。
負けは消えていない。
10.9対11.2。
その数字は、まだ誰の胸にもある。
でも、さっきとは違う。
さっきまでは、その数字が心を沈めていた。
今は、その数字を見ても、少なくとも息はできる。
食べた。
笑った。
歌った。
手紙を受け取った。
返事もした。
それだけで、人は少しだけ戻ってこられる。
テーブルの上には、少し冷めた肉料理の皿。
空になったグラス。
半分だけ残ったスープ。
使われた紙ナプキン。
natsuのフルートケース。
renaのギターケース。
shihoの小さなキーボードケース。
BEEFのタブレットと、丸めきれていないケーブル。
wataがそれを見て言った。
「BEEF、ケーブルまた絡まってるで」
BEEFは低く返した。
「絡まってねえ」
Saraが横から見て、静かに言う。
「絡まっています」
「お前は見るな」
「見えています」
「見えるな」
「物理的に不可能です」
wataが笑った。
「Saraさん、今日はずっと強いな」
Saraは表情を変えない。
「乱れている人が多いので」
BEEFが眉を寄せる。
「誰のことだ」
Saraは即答した。
「BEEFさんです」
「即答すんな」
そのやり取りに、部屋がまた少し笑う。
Kateは店員と会計の確認をしている。
Ninaは次の移動手段をスマホで調べている。
Miwaは残った料理を持ち帰れるか聞きに行く準備をしている。
Yuiは「帰路確認」「荷物確認」「眠気確認」と小さく項目を書いている。
その中で、mcRCは席を立った。
「水、入れてくるわ」
そう言って、空いたグラスを持つ。
負けたあと、歌ったあと、笑ったあと。
喉が、少し渇いていた。
個室の外に出ると、店の通路は思ったより静かだった。
木の壁。
低い照明。
少し奥から聞こえる食器の音。
厨房の湯気の匂い。
会場の音はもう届かない。
そこにあるのは、ただの夜の店だった。
mcRCは、水差しの前に立ち、グラスへ水を注ぐ。
透明な水が、グラスの底を叩く。
その音が、妙に大きく聞こえた。
「RCさん」
後ろから声がした。
mcRCが振り返る。
renaが、ギターケースのストラップを片手で直しながら立っていた。
少しだけ遠慮している顔。
でも、逃げようとはしていない顔だった。
「renaさん」
「すみません。今、少しだけいいですか」
「もちろん」
mcRCは、水を注いだグラスを横に置いた。
「どうしたん?」
renaは、すぐには答えなかった。
ギターケースの金具を一度だけ指で触る。
かち、と小さな音がした。
「さっきのMy rest」
「うん」
「すごく、よかったです」
mcRCは、少しだけ笑った。
「ありがとう。あれ、だいぶその場の勢いやったけど」
「でも、今だから届く歌でした」
renaは、ゆっくり言った。
「休むために、今したいことを歌っている感じがしました」
mcRCは、少し目を伏せる。
「うん。そうかもしれん」
「勝ち負けの話を、すぐに整理するんじゃなくて」
renaは、言葉を選ぶ。
「今、自分を戻すものを、ひとつずつ並べている感じ」
mcRCは、水の入ったグラスを見た。
カフェ。
コーヒー。
音楽。
休日。
席。
一口ずつ自分に戻していく時間。
自分で歌ったくせに、renaに言われて初めて、少し輪郭が見える。
「歌ってる時は、そこまで考えてなかったかもしれん」
「そうなんですか」
「うん。どっちかというと、今いる俺らに必要なもんを、そのまま出した感じやな」
renaは小さく頷いた。
「だから、よかったんだと思います」
通路の奥で、店員が小さく「失礼します」と言う声がした。
その声が過ぎてから、renaは続けた。
「特に、RCさんのところ」
mcRCは、少し身構えた。
「俺の?」
「はい」
renaは、ほんの少しだけ歌詞を思い出すように目を伏せた。
≫ カフェの隅っこ 窓ぎわ seat
≫ 昼の光がテーブルに lean
≫ 外はまだ忙しそうに moving
≫ 俺はちょい抜け my rest routine
mcRCは、黙って聞いていた。
自分で歌った言葉が、renaの声で読まれると、少し違って聞こえた。
renaは続ける。
「ここ、すごく見えました」
「見えた?」
「はい。窓ぎわの席も、外の忙しさも、そこから少し抜ける感じも」
mcRCは、小さく息を吐く。
「それは、よかった」
「それで」
renaは、少しだけ顔を上げた。
「そのあとが、すごくRCさんらしいなと思いました」
≫ カップを持てば ほっとする熱
≫ 一口飲んで ふっと抜ける stress
≫ 苦味の奥に甘い余韻
≫ 心の味覚が少ししびれる
renaの声は、歌ではない。
でも、水のように静かだった。
「熱があって、味があって、余韻があって。ちゃんと身体に戻ってくる感じがしました」
mcRCは、照れたように笑った。
「そんなちゃんと聞かれると、恥ずいな」
「すみません」
「いや、ええねん。ありがたい」
renaは、少し笑ってから、また真面目な顔になった。
「でも、少しだけ、感じたことがあって」
mcRCは、グラスを置き直した。
「うん。聞かせて」
renaは、すぐには言わなかった。
ここで急いで言うと、言葉が強く当たりすぎる。
そう思っているようだった。
「RCさんの景色は、すごく親切です」
「親切?」
「はい」
renaは、通路の壁に反射する柔らかい照明を見た。
「場所が分かるんです。光も、匂いも、手触りも。どこにいるのか、何をしているのか、何が心に起きているのか」
mcRCは頷く。
「そこは、自分でも意識してる」
「はい。だから、聴く人は迷わないと思います」
「うん」
「でも」
その一言で、少し空気が締まる。
renaは、すぐに首を横に振った。
「悪い意味じゃないです」
「大丈夫。聞く」
「景色が、見えすぎる時があるのかなって」
mcRCは、黙った。
「見えすぎる」
「はい」
renaは、ギターケースの持ち手を両手で持った。
「RCさんが、全部の椅子を用意してくれる感じがする時があります」
「椅子」
「はい」
「それは……悪いこと?」
「悪くないです」
renaはすぐ言った。
「優しいことだと思います。聴く人を迷わせないように、ちゃんと座れる場所を作ってくれている感じがします」
mcRCは、少しだけ苦笑した。
「やりがちかもしれん」
「でも」
renaは、少しだけ声を落とした。
「聴く人が、自分で座る椅子も、少し残っているといいのかなって思いました」
mcRCは、何も言わなかった。
水差しの中の水が、照明を受けて少し揺れている。
renaは続ける。
「たとえば」
また歌詞を、そっと置く。
≫ うまいとか ただ苦いとか
≫ そんな言葉じゃ足りないな
≫ 香りが胸まで降りてきて
≫ 昨日のノイズを溶かしてく
「ここ、すごく好きです」
mcRCが少し顔を上げる。
「そこ?」
「はい」
renaは頷く。
「うまいとか、ただ苦いとか、そんな言葉じゃ足りない。ここで、少し余白がある気がしました」
「余白?」
「はい。どんな苦味なのか、どんな昨日だったのか、全部は言っていないから」
mcRCは、歌詞を頭の中でなぞった。
確かに、そこは全部を説明していない。
昨日のノイズ。
それが何かは言っていない。
仕事かもしれない。
人間関係かもしれない。
負けかもしれない。
疲れかもしれない。
自分でも分からない何かかもしれない。
「そこに、聴く人が自分の昨日を置ける気がしました」
renaは言った。
「それが、すごくよかったです」
mcRCの胸の奥で、何かが静かに落ちた。
全部を描くことだけが、景色ではない。
描かない場所があるから、聴く人が自分のものを置ける。
それは、たぶん今日、MIRROR LINEを見て感じた差とも繋がっている。
MIRROR LINEは、迷わせなかった。
でも、全部を説明していたわけではない。
導線があり、余白があり、客席が入るタイミングがあった。
リバクラは、熱く、近く、手を引く。
でも、手を引きすぎると、相手が自分の足で歩く場所が少なくなる。
mcRCは、ゆっくり言った。
「俺、景色を作るって、全部見せることやと思ってたところあるわ」
renaは、静かに聞いていた。
「光も、音も、匂いも、動きも、できるだけ置いた方がええって」
「それは、RCさんの強さだと思います」
renaは言った。
「なくさなくていいと思います」
mcRCは、少しだけ目を細める。
「なくさなくていい?」
「はい」
renaは、ここだけは迷わず言った。
「RCさんの景色があるから、私はリバクラの歌に入れました」
その言葉に、mcRCは息を止めた。
renaは少し照れたように目を伏せる。
「でも、その景色の中に、少しだけ何も置かない場所があると、もっと入れる人が増えるかもしれないって」
「何も置かない場所」
「はい」
renaは、水差しを見た。
「水も、全部が透明だと、底まで見えて安心します。でも、少し揺れている方が、光が綺麗に見える時があります」
mcRCは思わず笑った。
「やっぱり水の人やな」
renaも小さく笑う。
「すみません。こういう言い方しかできなくて」
「いや、分かりやすい」
「本当ですか」
「うん」
mcRCは、さっき自分が歌った別の部分を思い出す。
≫ コーヒー越しにほどける休日
≫ この席ごと鳴らす life
≫ 好きなもんを一口ずつ
≫ 自分に戻してく rest time
「この席ごと鳴らす life」
mcRCは小さく呟いた。
renaが顔を上げる。
「はい」
「俺、席を作るのは好きなんやと思う」
「はい」
「でも、その席にどう座るかは、聴く人が決めてもええんやな」
renaは、静かに頷いた。
「たぶん」
「たぶん、か」
「はい。断定は、まだできません」
mcRCは笑った。
「それくらいがええ」
答えじゃない。
改善策でもない。
今すぐ何かを変える話でもない。
ただ、感じたこと。
でも、その感じたことは、胸の中に残った。
景色を作る。
でも、全部の椅子を埋めない。
聴く人が、自分で座れる場所を残す。
それは、今夜すぐに形になるものではない。
でも、きっとあとで効く。
mcRCは、renaを見た。
「renaさん」
「はい」
「ありがとう」
「いえ」
「たぶん、今の話、すぐには使えんと思う」
renaは頷く。
「はい」
「でも、残る」
renaは、少しだけほっとした顔をした。
「それなら、よかったです」
mcRCは、水の入ったグラスを持った。
「今日、ReShiNa Letterでさ」
renaの肩が少し動く。
「あの歌でも、同じことしてくれてた気がする」
「同じこと?」
「全部、答えを言い切ってない」
renaは黙った。
mcRCは、慎重に言葉を選ぶ。
「負けないで、じゃなくて。勝って、でもなくて。壊れないでって置いてくれた」
renaは、少しだけ目を伏せる。
mcRCは続ける。
「俺らがどう受け取るか、残してくれたんやと思う」
renaは、すぐには答えなかった。
少しして、静かに言った。
「そうかもしれません」
「そこも、余白なんかな」
「はい」
renaは、やわらかく笑った。
「手紙は、読んだ人の中で続くので」
mcRCは、その言葉に少しだけ胸を押された。
手紙は、読んだ人の中で続く。
歌も、たぶん同じだ。
歌い手が全部を言い切って終わるものではない。
聴いた人の中で、少しずつ続いていく。
それなら、続くための場所を残さなければいけない。
mcRCは、小さく息を吐いた。
「やばいな」
renaが驚く。
「え?」
「今の、めっちゃ大事な気がする」
renaは少し慌てた。
「あ、でも、私は感じたことを言っただけで」
「うん。それが大事なんやと思う」
mcRCは、個室の方をちらりと見た。
中からwataの笑い声が聞こえる。
たぶん、BEEFかSaraが何か言ったのだろう。
「戻ろか」
renaは頷く。
「はい」
二人は、個室へ戻るために歩き出した。
扉の前で、mcRCが一度だけ足を止める。
「renaさん」
「はい」
「俺、次からすぐ変わるとか、そういうのはできんと思う」
renaは、静かに頷いた。
「はい」
「でも、椅子は覚えとく」
renaは、少しだけ笑った。
「椅子」
「聴く人が、自分で座る椅子」
renaの表情が、やわらかくなる。
「はい」
mcRCは、水のグラスを持ち直した。
「それ、覚えとく」
二人が個室へ戻ると、部屋の中はまた少しだけ騒がしくなっていた。
BEEFがSaraに何か言い返している。
wataが笑っている。
EGUIが少し遠くから呆れた顔で見ている。
natsuは、フルートケースを抱いたまま、三人の方を見ている。
正確には、三人を見ているようで、もっと遠くを見ていた。
誰にも拾われないくらい小さく、natsuの視線だけが、少し遠い場所にあった。
その視線の意味は、まだ誰も知らない。
今はまだ、ただの夜だった。
負けたあとに、少しだけ戻った夜。
そして、ひとつの椅子の話が、RCさんの胸の中に静かに残った夜だった。




