4-4-4 まだ開いていないもの
renaの指は、アコギケースの取っ手に触れたまま止まっていた。
メールは、もう読み終わっている。
一文字ずつ、三人で読んだ。
TSUBOMI。
ラブソング。
苦手。
まだ咲ける。
咲こう。
言葉を持ち寄る。
準備ができたら、実際に会って作る。
その時、話す前に、お互いの曲を少しだけ鳴らしてみないか。
言葉を交わすよりも、音を聴いた方が分かることがある気がしている。
その最後の方まで、ちゃんと読んだ。
読み終わったうえで、renaはアコギケースに触れていた。
開けるわけではない。
まだ弾くわけでもない。
ただ、触れている。
それだけなのに、指先から何かが戻ってくるような気がした。
木の匂い。
弦の冷たさ。
自分の声が、まだどこかに残っているかもしれないという感覚。
それは、怖かった。
でも、嫌ではなかった。
shihoは、メール画面を見つめたまま動かなかった。
ピアノの方を見ない。
バスクラリネットのケースも見ない。
ただ、画面の中の文字を見ている。
natsuは、ローホイッスルを包んだ布を膝の上で軽く握っていた。
いつもなら、指先だけで布の端を撫でる。
今日は、少し強く握っていた。
三人とも、何も言わなかった。
けれど、黙っている理由は、昨日までとは少し違っていた。
言葉がないのではない。
言葉になる前のものが、多すぎた。
最初に口を開いたのは、shihoだった。
「……TSUBOMIって、ずるいね」
renaは顔を上げた。
「ずるい?」
shihoは、画面から目を離さずに頷いた。
「花じゃない」
「うん」
「でも、種でもない」
「うん」
「まだ開いてないだけ。中にはもう、何かある」
その言い方に、renaの胸が少し痛んだ。
まだ開いていないだけ。
中にはもう、何かある。
それは、今の自分たちに一番言ってほしかったことかもしれない。
咲けと言われたら、苦しかった。
前に出ろと言われたら、閉じた。
大丈夫、きっとできるよと言われても、信じられなかった。
けれど、TSUBOMI。
その言葉は、急がせない。
開けと命令しない。
それでも、空っぽだとは言わない。
natsuが、ぽつりと言った。
「花だったら、見られるものになる」
renaとshihoが、natsuを見る。
natsuは、ローホイッスルの布を握ったまま続けた。
「TSUBOMIなら、まだ守られてる」
その言葉が、部屋に静かに落ちた。
まだ守られている。
それは、今のReShiNaにとって、とても大きなことだった。
見られることが、ずっと怖かった。
褒められることすら、時々怖かった。
癒される。
眠れる。
前に出すぎない。
邪魔しない。
そう言われるたびに、悪意がないと分かっているのに、どこかが少しずつ削れていった。
花として見られるなら、きれいでいなければならない。
咲いたものとして扱われるなら、もう完成していなければならない。
でも、自分たちはそんな場所にいなかった。
まだ分からなかった。
まだ怖かった。
まだ閉じていた。
だから、TSUBOMIという言葉が、思ったより深く入ってきた。
renaは、メールの一文を思い出した。
俺たちも、皆さんも、まだ咲き切っていない。
でも、まだ咲ける。
咲こう。
「俺たちも、って書いてあった」
renaが言うと、shihoは静かに頷いた。
「うん」
「あなたたち、じゃなかった」
「うん」
shihoは、そこでようやく画面から目を離した。
「それが、たぶん一番ほどけた」
renaは黙って聞いた。
shihoは、低い声で続ける。
「私たちだけが未完成です、って言われたら、たぶん苦しかった」
「うん」
「あなたたちはまだ咲けます、って言われても、たぶん受け取れなかった」
「うん」
「でも、俺たちも、って書いてある」
natsuが、静かに言った。
「同じ高さ」
shihoは頷いた。
「そう。同じ高さ」
同じ高さ。
その言葉で、renaは少しだけ息を吸った。
ReShiNaは、ずっと見られる側に置かれていた気がしていた。
癒しとして見られる。
雰囲気として見られる。
眠れる音として見られる。
前に出ないものとして見られる。
でも、このメールは違った。
上から見ていない。
下から持ち上げてもいない。
横に来ている。
しかも、完成した人たちとしてではなく、まだ咲き切っていない人たちとして。
だから、怖いのに、逃げたくならなかった。
natsuは、布の端をほどいた。
ローホイッスルの金属が、少しだけ見える。
夕方の光を受けて、鈍く光った。
吹くわけではない。
でも、隠しきるわけでもない。
natsuは、それを見ながら言った。
「あったかい風」
renaは、natsuを見る。
natsuは、続けた。
「優しい風」
そこまでは、前にも言っていた。
けれど、今日はその先の声が少し違った。
「でも、体を突き通す風」
shihoが、静かに目を伏せた。
renaの喉の奥が詰まる。
分かる。
リバクラの言葉は、やさしいだけではない。
あたたかいだけでもない。
ちゃんと痛いところまで届いてくる。
でも、傷口をこじ開ける感じではない。
そこに傷があることを、こちらが自分で気づいてしまうような届き方。
natsuは言った。
「冷たくないのに、逃げられない」
renaは、小さく頷いた。
「うん」
「でも、追い詰められてる感じじゃない」
shihoが言った。
「逃げなくてもいい、って感じ」
natsuは頷いた。
「うん。逃げなくても、飛ばされない」
その言葉に、renaはケースの取っ手を少しだけ握った。
逃げなくても、飛ばされない。
自分たちはずっと、何かから逃げていたのかもしれない。
評価から。
期待から。
自分たちの音に貼られた言葉から。
見られることから。
そして、自分たちの中にある「本当はもっと見てほしかった」という気持ちから。
見られたい。
でも、見られたくない。
分かってほしい。
でも、掘られたくない。
その矛盾の中で、ずっと止まっていた。
けれど、このメールは、そこへ無理に踏み込んでこなかった。
TSUBOMIという言葉を、そっと置いただけだった。
それだけなのに、何かがほどけていた。
shihoが、ピアノの方を見た。
まだ立たない。
でも、見た。
「私たち、何か生み出せるのかな」
その声は、不安だった。
でも、完全な否定ではなかった。
renaは、すぐには答えられなかった。
生み出せる。
その言葉自体が、久しぶりだった。
最近はずっと、出せないと思っていた。
音も。
言葉も。
意味も。
何を出しても、また違う名前で呼ばれる気がした。
また、眠れる音と言われる気がした。
また、前に出すぎないのがいいと言われる気がした。
また、自分たちの奥まで届かないまま、表面だけを持っていかれる気がした。
でも、今は少し違った。
TSUBOMI。
まだ開いていないもの。
でも、中にはもう何かがあるもの。
そう呼ばれたら、何かを出してみてもいいような気がした。
renaは、静かに言った。
「出せるかは、まだ分からない」
shihoは頷いた。
「うん」
「でも、何もないわけじゃない気がする」
natsuが、小さく言った。
「ある」
二人がnatsuを見る。
natsuは、ローホイッスルの端に指を置いていた。
「音になる前の風は、ある」
その言葉で、renaは目を伏せた。
音になる前の風。
それなら、ある。
歌になる前の水も。
旋律になる前の森も。
まだ形にならないだけで、消えてはいない。
shihoが、低く言った。
「同じものでも、感じ方で変わるんだね」
renaは、shihoを見る。
shihoは、ゆっくり続けた。
「水も、土も、風も」
natsuが、顔を上げる。
shihoは、ピアノの方を見ながら言った。
「水は、溺れるものにもなる」
renaは頷く。
「うん」
「でも、戻るものにもなる」
natsuが言う。
「流れるものにもなる」
shihoは続けた。
「土は、埋められる場所にもなる」
renaの胸が痛む。
土。
埋められる。
その言葉は、百合根の奥の方に触れそうになる。
でも、shihoはそこを掘らなかった。
掘り返さなかった。
ただ、別の言い方をした。
「でも、根を張る場所にもなる」
natsuが、静かに言った。
「風は、吹き飛ばすものにもなる」
renaは、natsuを見た。
natsuは、ローホイッスルを見ている。
「でも、運ぶものにもなる」
部屋が、少しだけ静かになった。
同じ水。
同じ土。
同じ風。
それをどう感じるかで、世界が変わる。
苦しめるのは、人だった。
言葉を投げる人。
軽く扱う人。
勝手に録る人。
勝手に回す人。
決めつける人。
でも、喜ばせるのも、人だった。
足を止めて聴いてくれた人。
名前を聞かずに、言葉の前で止まってくれた人。
受けさせてくださいと言ってくれた人。
自分たちもまだ咲き切っていないと書いてくれた人。
人が、人を苦しめる。
でも、人が、人をほどくこともある。
renaは、ぽつりと言った。
「苦しかったのも、人だったね」
shihoは、静かに頷いた。
「うん」
「でも、今、少しほどけてるのも、人なんだね」
shihoは、すぐには返事をしなかった。
その言葉を、部屋の中で少し寝かせるように黙った。
それから、低く言った。
「そうだね」
natsuが、小さく言う。
「同じ風でも、誰が吹かせるかで違う」
renaは、少しだけ笑った。
「風って、人が吹かせるの?」
natsuは、真面目な顔で答えた。
「笛は、人が吹かせる」
shihoの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
renaも、今度はちゃんと笑いそうになった。
笑い切るほどではない。
でも、喉の奥にあった硬いものが、少しだけ動いた。
natsuは続けた。
「だから、怖い」
「うん」
「でも、だから、嬉しい」
怖い。
でも、嬉しい。
その二つが、同じ場所にあってもいいのだと、少しだけ思えた。
renaは、アコギケースの金具に指をかけた。
カチ、と小さな音がした。
その音に、shihoとnatsuが同時に顔を上げた。
renaは少しだけ恥ずかしくなった。
「開けるだけ」
shihoは、静かに頷いた。
「うん」
natsuが言った。
「それ、音の前」
音の前。
その言葉で、renaは少しだけ息を吸った。
ケースを開ける。
中から、アコギの木の匂いが少し立った。
懐かしい。
怖い。
でも、嫌ではない。
renaは、弦にはまだ触れなかった。
ただ、開いた。
それだけ。
けれど、それだけで部屋が変わった。
shihoが、ピアノの方を見た。
少し迷ってから、立ち上がる。
ピアノの蓋に手を置く。
開けるかどうか、ほんの少し止まった。
それから、ゆっくり開けた。
鍵盤が見える。
まだ弾かない。
でも、鍵盤が見えた。
natsuは、布をほどききった。
ローホイッスルが、膝の上に出る。
金属の表面が、部屋の光を淡く返した。
吹かない。
でも、息を吸う前の場所まで来た。
三人は、しばらく何も言わなかった。
音は鳴っていない。
でも、楽器が部屋に戻ってきた。
それだけで、何かがほどけていた。
shihoが、静かに言った。
「言葉の断片なら、出せるかもしれない」
renaは顔を上げた。
「歌詞?」
「歌詞かどうかは、まだ分からない」
shihoは、ピアノの前に座らず、立ったまま言った。
「でも、断片なら」
natsuが、ローホイッスルを見ながら言った。
「風の断片なら、ある」
renaは、アコギの中を見た。
木の色。
弦。
小さな傷。
ずっと触れていなかった時間。
でも、そこにまだ音は残っている。
「私も」
renaは言った。
「水の断片なら、ある」
shihoが頷いた。
「森の断片も、ある」
三人は顔を見合わせた。
まだ、曲ではない。
まだ、音でもない。
でも、断片がある。
それは、久しぶりの感覚だった。
作らなければならない、ではない。
作れるかもしれない。
その可能性が、部屋に戻ってきた。
renaは、ノートを開いた。
真っ白なページ。
怖かった。
でも、白いページが、今日は責めてこなかった。
空白ではなく、余白に見えた。
その違いに、自分で少し驚く。
ペンを持つ。
最初の一行を、少し迷ってから書いた。
閉じていたのは、終わったからじゃない
shihoが、それを覗いた。
「いいね」
natsuが、すぐに言った。
「TSUBOMIだ」
renaは、少しだけ笑った。
「うん。TSUBOMI」
shihoは、ピアノの椅子に座った。
でも、まだ弾かない。
指を鍵盤の上に置くだけ。
それから、低い声で言った。
「私は」
少し考える。
「土にいるのは、埋められたからじゃない」
renaは、その言葉をノートに書いた。
natsuが続ける。
「風が止まったのは、消えたからじゃない」
それも書く。
三行。
まだ歌詞ではない。
でも、何かが始まっていた。
閉じていたのは、終わったからじゃない。
土にいるのは、埋められたからじゃない。
風が止まったのは、消えたからじゃない。
renaは、その三行を見つめた。
胸の奥が、少し震えた。
これは、ReShiNaだけの言葉ではない。
リバクラから届いたTSUBOMIに、三人が返した最初の断片だった。
メールだけで、ほどけるものがあった。
まだ解けきってはいない。
絡まったままのところもある。
痛いところもある。
怖いところもある。
でも、固く結ばれていたものの一部が、少しだけゆるんだ。
そこに、風が通った。
水が動いた。
土が、重さだけではなくなった。
shihoが、鍵盤に触れた。
音はまだ鳴らない。
けれど、指がそこにある。
natsuは、ローホイッスルを口元までは持っていかなかった。
でも、息を吸った。
renaは、アコギの弦に指を置いた。
鳴らすつもりはなかった。
でも、触れた。
ほんの少しだけ、弦が震えた。
音と呼ぶには小さい。
でも、三人には聞こえた。
部屋の中で、最初の小さな震えが生まれた。
renaは、泣きそうになった。
泣かなかった。
でも、泣きそうになった。
「生まれた」
natsuが、ぽつりと言った。
shihoが、静かに頷いた。
「うん」
renaは、弦に指を置いたまま、メールの画面を見た。
TSUBOMI。
その文字が、さっきより少しだけ違って見えた。
まだ開いていない。
でも、もう何もないわけじゃない。
まだ咲いていない。
でも、もう終わってはいない。
renaは、ノートにもう一行書いた。
まだ咲かないまま、でも光を知っている
その一行を書いた時、部屋の中の空気が、ほんの少しだけ明るくなった。
明るくなりすぎない。
軽くもならない。
でも、確かに変わった。
ReShiNaはまだ立ち上がっていない。
けれど、膝を抱えていた手が、少しほどけた。
その手で、楽器に触れた。
その手で、言葉を書いた。
それだけで、今日は十分だった。
natsuが、小さく言った。
「返そう」
renaが見る。
「メール?」
「うん」
shihoが頷く。
「すぐに全部決めます、じゃなくていい」
renaも頷いた。
「うん」
shihoは、ノートの三行を見た。
「でも、テーマは受け取ったって伝えたい」
natsuが言った。
「TSUBOMI、風通ったって」
renaは少し笑った。
「それ、そのまま書く?」
natsuは、少しだけ考えてから首を振った。
「書かない」
shihoが小さく笑う。
「書かないんだ」
natsuは真面目に頷いた。
「でも、入ってればいい」
renaは、ノートを見た。
閉じていたのは、終わったからじゃない。
土にいるのは、埋められたからじゃない。
風が止まったのは、消えたからじゃない。
まだ咲かないまま、でも光を知っている。
その言葉たちは、まだ弱い。
まだ震えている。
でも、確かにここにある。
renaは、返信画面を開いた。
今度は、さっきより少しだけ指が動いた。
⸻
Reverse Crown
mcRC様
wata様
EGUI様
Kate様を通じて失礼いたします。
ReShiNaのrenaです。
テーマ案、三人で読みました。
TSUBOMIという言葉を選んでくださったことに、まず三人でしばらく黙りました。
花ではなく、まだ開いていないもの。
でも、終わっていないもの。
その言葉の置き方に、私たちの中で少しほどけるものがありました。
ラブソングという形にすることも、最初は少し驚きました。
でも、ジャンルの違う私たちが無理にどちらかへ寄るのではなく、共通して触れられる場所として考えてくださったこと、理解しました。
私たちも、まだうまく言葉にできるか分かりません。
でも、今は少しだけ、何か生み出せるかもしれないと思えています。
まずは、それぞれで言葉の断片を出してみます。
完成した歌詞ではなくても、一行や景色から始めてみます。
そして、準備ができたら、実際にお会いして一緒に作りたいです。
その時に、お互いの曲を少し鳴らしてから始めるというご提案も、受けたいです。
言葉よりも音で分かることがある、という考えに、私たちも近いものを感じました。
まだ怖さはあります。
でも、TSUBOMIというテーマには、風が通りました。
どうぞよろしくお願いいたします。
ReShiNa
rena
shiho
natsu
⸻
書き終えたあと、renaは二人に見せた。
shihoは、最後まで読んでから頷いた。
「いいと思う」
natsuは、少しだけ目を細めた。
「風が通りました、書いた」
renaは、少し慌てた。
「だめ?」
natsuは首を横に振った。
「いい」
そして、少しだけ笑った。
「入ってた」
renaは、その笑いを見て、胸の奥がまた少し震えた。
natsuが笑った。
ほんの少しだけ。
でも、それは確かに、今日生まれたものだった。
shihoが言った。
「送ろう」
renaは頷いた。
送信ボタンに指を置く。
怖さは、まだある。
でも、怖さだけではなかった。
renaは送信した。
画面に、送信済みの表示が出る。
部屋には、まだ曲はない。
でも、言葉がある。
楽器が開いている。
三人がいる。
そして、TSUBOMIという小さな目印が、机の上に置かれている。
まだ開いていない。
でも、もう何もないわけではなかった。




