4-3-6 百合根
練習室のドアには、小さな注意書きが貼られていた。
防音室ではありますが、完全防音ではありません。
夜間の大音量演奏、管楽器の強奏、複数名での大声歌唱はご配慮ください。
いつもなら、三人ともそれを見ていた。
見ていない日でも、知っていた。
この部屋は便利だった。
駅から少し歩いた古いビルの三階。
受付は一階にあり、二階はダンススタジオ、三階に小さな練習室が三つ並んでいる。
壁には黒い吸音材が貼られている。
ドアもそれなりに厚い。
けれど、完全防音ではない。
強く吹けば、natsuの笛は廊下に少し漏れる。
shihoのバスクラリネットの低音は、壁そのものを伝って隣へ沈む。
renaの声も、感情が乗ると、換気口を抜けて細く外へ出る。
だから普段のReShiNaは気をつけていた。
部屋に入ると、まず音量を確かめる。
natsuが一音吹く。
shihoが低音を鳴らす。
renaが声を出す。
廊下に出て、互いに確認する。
「このくらいなら大丈夫」
「低音だけ少し抑えよう」
「今日は隣、入ってるね」
そんな会話を何度もしてきた。
音楽をやる人間としての礼儀だった。
でも、その日は違った。
誰も、ドアの貼り紙を見なかった。
いや、正確には、見えていた。
けれど、目に入っても意味を持たなかった。
黒百合の夜から、三日が経っていた。
三日。
たった三日だった。
なのに、三人の中では、ずっと夜が続いているようだった。
黒百合は、大きく広がったわけではなかった。
世間が騒いでいるわけでもない。
SNSの全員が知っているわけでもない。
ただ、前夜祭にいた人たちの周辺で、小さく、けれど妙に消えない言葉になっていた。
正式音源でもない。
配信でもない。
告知した新曲でもない。
Acoustic Nightの自由時間に、予定外に出てしまった曲。
客席の誰かが録った短い切り抜き。
斜めの画角。
少しこもった音。
客席のざわめき。
途中からしか入っていない映像。
それでも、見た人の中には残った。
黒百合。
夜色の百合。
ReShiNa、あんな音も出すんだ。
癒し系だと思ってたのに。
怖かった。
でも、忘れられない。
そんな言葉が、狭いところで静かに回っていた。
嬉しくないわけではない。
見つけてもらえることは、嬉しい。
聴いてもらえることは、嬉しい。
自分たちの音が、誰かの心に残ったことは、本来なら喜ぶべきことだった。
けれど、三人は喜べなかった。
黒百合は、見せようとして見せた顔ではなかった。
出てしまったものだった。
整えた曲ではなく、漏れた曲。
隠していた表情を、突然強い光にさらされたような気がしていた。
その日、renaはギターケースを開けられなかった。
朝から何度もケースの前に座った。
留め具に指をかけた。
でも、開けられなかった。
ケースの中に、黒百合の庭がまだ残っている気がした。
開けた瞬間、またあの夜色の花が部屋に出てきそうだった。
shihoは、バスクラリネットのリードを机の上に置いたまま、何度も位置だけを直した。
縦に置いて、横に置いて、また縦に戻す。
リードはただの薄い板だった。
でも、昨日からそれが、自分の声の切れ端みたいに見えた。
natsuは、ローホイッスルをケースから出して、戻して、また出した。
フルートには触れなかった。
高く抜ける風を、今はどう扱えばいいのか分からなかった。
三人のチャットには、短い言葉だけが並んだ。
rena:
今日、会える?
shiho:
会いたい
natsu:
楽器いる?
rena:
いると思う
shiho:
持ってきて
natsu:
うん
それだけだった。
説明はいらなかった。
会う場所は、いつもの練習室。
時間は夕方。
夜になる少し前。
natsuが言った。
natsu:
夜が近い夕方
shiho:
それでいい
renaは、その一文を見て、少しだけ息を吐いた。
夜が近い夕方。
昼ではない。
でも、夜でもない。
黒百合の庭へ完全に戻るには早い。
でも、明るい場所にいるには遅い。
今の三人には、そのくらいの時間がちょうどよかった。
練習室に着いた時、受付には別の利用者がいた。
Acoustic Nightに出ていた、ギターと女性ボーカルの二人組だった。
renaは、少しだけ足を止めた。
向こうも気づく。
「あ」
女性ボーカルが小さく声を出した。
「昨日は……お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
renaは頭を下げた。
shihoも静かに頭を下げる。
natsuは少し遅れて、こくんと頷いた。
男性ギタリストは、何か言いたそうにしていた。
黒百合のことだろう。
分かった。
顔を見れば分かった。
けれど、彼は言わなかった。
ただ、少しだけ迷ったあと、こう言った。
「つくし、良かったです」
その言葉に、renaの胸がほんの少しだけ揺れた。
黒百合ではなく、つくし。
それを先に言ってくれた。
「ありがとうございます」
renaは、今度は少しだけ本物に近い笑顔で返した。
shihoの肩も、ほんの少しだけ緩んだ。
natsuは、男性をじっと見た。
男性は、少し照れたように視線を逸らした。
「今日、隣の部屋です」
「あ、そうなんですね」
「はい。軽く合わせだけなので」
「こちらも……少しだけです」
renaはそう言った。
少しだけ。
本当に、そのつもりだった。
三人だけで少し話す。
楽器を持って、黒百合のことをどう扱うか考える。
もしかしたら、何もできないかもしれない。
でも、それでいい。
今日は、何かを完成させる日ではない。
そう思っていた。
受付の女性が鍵を渡す。
「三番のお部屋です。今日は二番もご利用中なので、音量だけ少しご配慮ください」
「はい」
shihoが答えた。
いつものように。
きちんと。
三人は三番の部屋へ入った。
ドアを閉める。
白い蛍光灯。
黒い吸音材。
古い譜面台。
折りたたみ椅子。
壁際の小さなピアノ。
今日は、誰もピアノには触れなかった。
その黒い蓋は、ただ壁際で黙っていた。
そして、ドアの内側にも同じ注意書きがあった。
完全防音ではありません。
renaは、それをちらっと見た。
見た。
でも、すぐに視線を逸らした。
気をつけなければ。
そう思った。
思ったはずだった。
けれど、その思考は胸の奥の重さにすぐ沈んだ。
shihoは椅子に座り、バスクラリネットのケースを膝の上に置いた。
まだ開けない。
natsuは、フルートケースとローホイッスルのケースを床に並べた。
少し迷って、ローホイッスルの方を自分の近くに寄せた。
renaはギターケースを開いた。
今日初めて、留め具を外せた。
中には、いつものギターがあった。
何も変わっていない。
でも、少しだけ重く見えた。
三人は、それぞれ楽器を持った。
鳴らさない。
ただ握る。
楽器がなければ、本音が出ない気がした。
楽器があると、少しだけ、本当のことを言っても許される気がした。
最初に口を開いたのは、renaだった。
「眠れる音だと」
その声は、思ったより低かった。
shihoが顔を上げる。
natsuも見る。
renaは、ギターの胴を抱えるようにしながら続けた。
「笑ってくれるよね、みんな」
誰も返事をしない。
renaは、弦に触れた。
まだ音は鳴らさない。
「寝る前に聴きたいって。落ち着くって。頑張らなくていい感じだって。ずっと流してたいって」
言葉を並べるたびに、胸の奥が少しずつ擦れた。
「嬉しいはずなのに」
そこで、声が止まった。
「嬉しいはずなのに、なんでこんなに寒いんだろう」
shihoが、静かに言った。
「私たちは、ずっと眠れなかったのに」
renaは顔を上げた。
その言葉は、renaが言いたかったものだった。
けれど、shihoが言ったことで、それは三人の言葉になった。
natsuが、ローホイッスルを少し持ち上げる。
「眠れる音って言われると、眠れない風が増える」
shihoが小さく息を吐いた。
「眠れない風」
「うん」
natsuは、少しだけ目を伏せる。
「夜に窓が開いてる」
renaは、泣きそうになった。
でも、まだ泣けなかった。
涙にするには、まだ形が足りなかった。
胸の奥で何かがうずいている。
でも、それを外へ出すには、名前が足りない。
shihoが、バスクラリネットのケースを開けた。
楽器を取り出す。
下管。
上管。
ベル。
マウスピース。
リード。
いつもの動作。
でも、指先には迷いがあった。
「前に出すぎないのがいいって」
shihoが言った。
renaは黙って聞いた。
「みんな、そう優しく言ってるみたいだった」
主張しすぎない。
空間に馴染む。
会場に溶ける。
低音があると安心する。
前に出すぎないのがいい。
全部、褒め言葉だ。
shihoはそれを分かっていた。
分かっていたからこそ、その場では笑った。
頭を下げた。
ありがとうございます、と言った。
でも、今は違う。
「低く鳴れば落ち着くって」
shihoは、バスクラリネットの黒い管体を見下ろした。
「深くあれば美しいって」
指が、ベルの縁をなぞる。
「なら、この沈みきった夜も、美しいって呼ぶのかな」
その言葉は、部屋の床へ重く落ちた。
renaは、何も言えなかった。
natsuも黙っていた。
shihoは少しだけ笑った。
「ごめん。変なこと言った」
renaは首を横に振る。
「変じゃない」
natsuも言った。
「変じゃない。深いだけ」
shihoは、少しだけ困ったように笑った。
「それ、褒めてる?」
「うん」
「じゃあ、ありがとう」
小さなやり取りだった。
でも、三人の間に少しだけ空気が戻った。
その空気が消えないうちに、renaはギターを鳴らした。
一音。
暗い音。
昨日の黒百合の庭に続くような音だった。
natsuが、ローホイッスルを口元へ持っていく。
まだ吹かない。
息を吸う。
それだけで、部屋の空気が変わる。
shihoが、低い音を一つだけ出した。
バスクラリネットの底から、床へ沈む音。
ピアノではなかった。
鍵盤の輪郭ではなく、息で沈む低音だった。
支える音ではない。
沈む音だった。
それはもう、練習ではなかった。
誰かに聴かせるための演奏でもなかった。
三人の中に溜まったものが、勝手に音の形を探し始めていた。
natsuが最初に吹いた。
低く、暗く、戻らない風。
その音から、言葉が落ちた。
natsuは歌わない。
でも、その低い笛が、言葉を連れてきた。
renaが、それを拾った。
≫ 風は戻らない
≫ 呼んでも もう
≫ 同じ名前では帰らない
歌った瞬間、renaは自分で少し驚いた。
今のは、どこから出たのだろう。
頭で考えた歌詞ではない。
ノートに書いた言葉でもない。
ずっと胸の底に沈んでいたものが、natsuの風に押されて、ふっと浮かび上がったようだった。
風は戻らない。
呼んでも、もう。
同じ名前では帰らない。
それは、natsuの風のことだった。
客席へ出ていった音が、同じ形では戻らないこと。
つくしの時には戻ってこなかった風。
黒百合の時には、怖い形で戻ってきた風。
その戻らなさを、renaは自分の喉で歌ってしまった。
natsuは、驚いた顔をしなかった。
ただ、ローホイッスルを少し強く握った。
今の言葉は、natsuにも分かった。
shihoは、低い音を一つだけ重ねた。
音が、床を少し沈める。
renaとshihoの声が、囁くように重なった。
natsuは歌わない。
けれど、ローホイッスルが二人の声の間を通り抜ける。
まるで三人目の声のように。
でも、声ではない。
風だった。
≫ 眠れる音だと
≫ 笑ってくれるよ みんな
≫ でも私たちは
≫ ずっと眠れなかったのに
その一節が出た瞬間、三人の体が同時に固まった。
出た。
とうとう、出た。
会話では言った。
さっき、この部屋で言った。
でも、歌になった瞬間、その言葉は違う重さを持った。
眠れる音だと笑ってくれるよ、みんな。
でも私たちは、ずっと眠れなかったのに。
renaは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
眠れなかった。
自分だけではない。
shihoも。
natsuも。
ReShiNaは、眠れる音を作りながら、ずっと眠れなかった。
声を澄ませるために、黒い水を飲んできた。
低音を安定させるために、自分の影を床へ沈めてきた。
風を優しく吹くために、戻ってこない寂しさを飲み込んできた。
その全部が、今、音になり始めている。
renaは、ギターを抱える腕に力を込めた。
指が勝手に動く。
アコースティックギターの音が、いつもより荒くなる。
でも、崩れない。
崩れたら、ただの泣き声になる。
崩れないから、歌になってしまう。
renaが歌う。
≫ 黒い水を飲んでいた
≫ 澄んだ声で歌うために
その瞬間、renaの胸が強く痛んだ。
黒い水。
それは、自分の中にあった言葉だった。
綺麗な声を出すために、どれだけ濁りを飲み込んできたのか。
怒り。
怖さ。
嫉妬。
見られたい気持ち。
見られたくない気持ち。
綺麗だと言われる嬉しさ。
綺麗で終わられる怖さ。
その全部を飲み込んで、澄んだ声で歌ってきた。
自分は、透明な水ではなかった。
黒い水を飲んで、透明に見せていただけかもしれない。
それを歌にした瞬間、renaは自分の喉が少し濡れるのを感じた。
涙ではない。
もっと奥。
胸の底から上がってくるもの。
≫ 胸の底に沈めたものが
≫ 夜ごと喉を濡らしてた
歌いながら、renaは思った。
ああ、これだ。
この感じだ。
黒百合を歌った時も、喉が濡れていた。
声が出ているのに、何かが喉に絡んでいた。
それは涙でも、息切れでもない。
沈めたものだった。
言わなかった言葉。
認めたくなかった怖さ。
飲み込んできた濁り。
それが夜ごと喉を濡らしていた。
だから、眠れなかったのだ。
renaの声は続く。
≫ 綺麗だねって言われるたび
≫ 少しずつ濁っていった
その行で、shihoの目が少し動いた。
彼女も分かっていた。
綺麗だね。
素敵ですね。
透明感がありますね。
癒されました。
眠れそうです。
前に出すぎないのがいいです。
そのたびに、普通なら喜べばいい。
実際、嬉しい。
嬉しいのだ。
でも、嬉しさと同時に、少しずつ濁っていく。
「それだけなの?」と思ってしまう自分。
「またそこなの?」と思ってしまう自分。
そんなふうに感じる自分が嫌で、また濁る。
相手が悪くないから、行き場がない。
だから、その濁りは自分の中に沈む。
renaは歌った。
≫ 認められてる
≫ 分かってる
ここで、声が少しだけ揺れた。
認められていないわけではない。
そこが、余計に苦しい。
誰も否定していない。
誰も雑に扱っているつもりはない。
むしろ、褒めてくれている。
聴いてくれている。
名前を呼んでくれている。
それなのに。
≫ それなのに
≫ どうしてまだ寒いの
その一行は、三人全員に刺さった。
renaは歌いながら、初めて自分の寒さをはっきり感じた。
ずっと寒かった。
黒百合の夜からではない。
もっと前から。
カフェで歌っていた時も。
ストリートで立ち止まってもらえなかった時も。
綺麗ですね、と言われた時も。
癒されました、と言われた時も。
前夜祭にぴったり、と言われた時も。
ずっと、どこか寒かった。
でも、認められているから、寒いと言ってはいけない気がしていた。
拍手をもらっているのに寒いなんて、わがままだと思っていた。
shihoが、バスクラリネットの低音を深くする。
ピアノは使わない。
息だけで沈む。
管の奥で震える音だけで、renaの問いを受け止める。
renaとshihoの声が重なる。
≫ 欲しかったものは何
≫ 拍手じゃなかったの
renaの心に、前夜祭の拍手が浮かんだ。
黒百合の後の拍手。
戸惑いと畏れと、見てしまったものへの反応が混じった拍手。
つくしの後の拍手。
あたたかくて、丁寧で、深い拍手。
どちらも嬉しかった。
嬉しかったはずだった。
でも、どちらでも足りなかった。
≫ じゃあ何
≫ 名前じゃなかったの
ReShiNa。
名前を呼ばれたかった。
自分たちの音を、誰かの生活の中に置いてほしかった。
それが叶い始めていた。
でも、それでも足りない。
では、何が欲しいのか。
自分でも分からない。
分からないことが、いちばん怖い。
≫ 見てほしいって言いながら
≫ 見られたら壊れそうで
その一節で、shihoの表情がわずかに歪んだ。
見てほしい。
でも、見られたら壊れそう。
それはshihoにもあった。
低音は見えにくい。
だから見てほしい。
けれど、見られた時、自分の低音がただの支えではなく、嫉妬や怖さや怒りまで含んでいると知られたら、壊れてしまう気がした。
必要とされたい。
でも、便利な床として必要とされるのは嫌。
前から必要とされたい。
でも、前に出たら、自分の低音は低音でいられるのか分からない。
その矛盾が、shihoの胸を締めつける。
二人の声が重なる。
natsuのローホイッスルが、声ではなく風としてその後ろを支える。
≫ 私たちは
≫ 自分の矛盾も知らなかった
natsuは、ローホイッスルを吹きながら、その言葉を聞いていた。
自分の矛盾。
natsuにもあった。
風は自由でいたい。
でも、戻ってきてほしい。
客席へ音を渡したい。
でも、返ってこないと迷う。
歌わない方が自分らしい。
でも、歌っているみたいと言われると嬉しい。
フルートで軽く飛びたい。
でも、今はローホイッスルの低い風から離れられない。
自分でも知らなかった。
風にも矛盾があるなんて。
Hookに入った。
renaとshihoの声が、暗いハーモニーになる。
natsuは歌わない。
ローホイッスルが、二人の声の間を縫っていく。
≫ 眠れる音だと
≫ 笑ってくれるよ みんな
≫ でも私たちは
≫ ずっと眠れなかったのに
部屋の空気が一段重くなる。
renaは、歌いながら心の中で思う。
私は、眠れる音を作りたかったのか。
それとも、眠れない自分を見てほしかったのか。
どちらも本当だったのかもしれない。
誰かを休ませたい気持ちは嘘ではない。
でも、自分が眠れないことを見てほしい気持ちも、きっと嘘ではない。
その二つがぶつかって、喉の奥で黒い水になる。
shihoが低く重ねる。
≫ 前に出過ぎないのがいいってこと?
≫ みんなそう言ってるみたい
shihoは、心の中で思う。
前に出すぎないのがいい。
そう言われるたびに、自分の低音は褒められている。
でも、私はそこにいないのか。
低音はある。
空間は締まる。
安心する。
でも、shihoはどこにいるのか。
私は、ここにいる。
私は、便利な床じゃない。
私は、誰かの夢を支えるたび、自分の影が黒くなる音を知っている。
その影ごと、見てほしい。
でも、そこまで見られたら壊れそうでもある。
矛盾している。
どうしようもなく矛盾している。
≫ じゃあ私たちはどこまで下がれば
≫ 私たちのありのままを見てくれるの?
その声は、普段より大きかった。
三人とも、気づいていない。
気持ちが入りすぎていた。
音量を抑える意識が、もう部屋の隅へ追いやられていた。
完全防音ではないことを、知っていたはずなのに。
壁の向こうで、音が少しずつ漏れ始めていた。
二番の部屋では、Acoustic Nightに出ていたギターと女性ボーカルの二人組が練習していた。
受付でReShiNaと顔を合わせた二人だった。
最初に気づいたのは、男性ギタリストだった。
コードを鳴らそうとした手が止まる。
「……おい」
女性ボーカルも、譜面から顔を上げた。
「隣?」
「三番って、ReShiNaだよな」
「うん」
男は、壁の方を見た。
最初は、ただ驚いていた。
それから、口元が少しだけ動いた。
「これ、やばくない?」
女性ボーカルは眉を寄せた。
「聞こえてるね」
「めっちゃレアじゃん」
その言葉に、彼女はすぐ反応した。
「え?」
男は、自分のギターを膝に置いたまま、壁側へ少し近づいた。
「いや、だってさ。黒百合の後だろ。これ、たぶん新しいやつじゃん」
「聞かない方がいいよ」
「いや、でも聞こえてるし」
「そういう問題じゃない」
「ちょっとだけ」
「やめなよ」
女性ボーカルの声には、はっきりした拒否があった。
けれど男は、もう壁の向こうに意識を取られていた。
彼にとって、それは盗み聞きというより、偶然拾った宝物みたいに見えていた。
悪いことだという感覚はある。
でも、その悪さを軽く扱っている。
「録っとく?」
「は?」
「いや、外に出さないよ。記録。記録」
「絶対だめ」
「分かってるって。出さないって」
「録ることがだめなんだよ」
「いや、でもこれ、消えたらもったいなくない?」
女性ボーカルは、男を見た。
その顔には、怒りと不安が混じっていた。
「もったいないとかじゃない」
男は、返事をしない。
壁の向こうから、shihoの声が漏れてくる。
≫ 煤だらけの床に
≫ 裸足の音が残ってる
女性ボーカルの表情が変わった。
その歌詞の痛さに、言葉を失う。
その隙に、男はスマホを取り出した。
「やめて」
彼女が言った。
男は小さく笑う。
「出さないって」
「録らないで」
「大丈夫。俺だけ」
「大丈夫じゃない」
「マジで外に出さないから」
男の声は軽かった。
自分が今、どれだけ取り返しのつかない境界を踏み越えようとしているのか、分かっていない声だった。
いや、分かっているのに、分かっていないふりをしている声だった。
女性ボーカルは、泣きそうな顔で首を横に振る。
「やめて。お願い」
男は一瞬だけ止まった。
その一瞬で、止めることもできた。
スマホを伏せることもできた。
聞かなかったことにすることもできた。
でも、壁の向こうでshihoの低い声が続いた。
≫ 誰かの夢を支えるたび
≫ 自分の影が黒くなる
男の指が、録音ボタンを押した。
赤い表示が始まる。
女性ボーカルは、息を呑んだ。
「押したの?」
男は画面を見たまま答えない。
「押したの?」
「……ちょっとだけ」
「最低」
その言葉に、男は少し顔をしかめた。
「だから、外に出さないって」
「そういうことじゃない」
「じゃあ何」
「本人たち、知らないでしょ」
「だから出さないって」
「録ってる時点でだめなんだって」
「分かった、分かったから。静かにして。聞こえない」
その一言で、女性ボーカルの目に涙が浮かんだ。
聞こえない。
彼は、もうReShiNaの音を聴くことしか考えていなかった。
目の前で、自分の相方が泣きそうになっていることも、どこかへ置いていた。
壁の向こうでは、shihoが歌っている。
≫ 低く鳴れば落ち着くと
≫ 深くあれば美しいと
≫ ならこの沈みきった夜も
≫ 美しいって呼ぶの?
女性ボーカルは、両手で口元を押さえた。
この歌詞は刺さる。
刺さってしまう。
止めたい。
でも、聴いてしまう。
聴いてしまう自分も嫌だった。
男は、スマホを壁際に近づける。
少しでも音を拾おうとしている。
その姿を見て、女性ボーカルは本気で震えた。
この人は、音楽が好きなのではなく、レアなものを持っている自分が好きなのではないか。
そんな考えが、頭をよぎった。
それは、まだ言葉にはならなかった。
でも、この瞬間から、二人の間に小さな亀裂が入った。
三番の部屋では、ReShiNaは何も知らない。
音が漏れていることにも。
録られていることにも。
ただ、歌っていた。
shihoが低く続ける。
≫ バスクラの底で
≫ まだ息をしている
≫ 踏まれたままの音が
≫ 私の名前を覚えている
shihoは、心の中で自分の低音の底を見ていた。
バスクラの底。
そこには、ずっと息があった。
誰かの声を支えるための息。
誰かの音を立たせるための息。
誰にも見えない場所で踏まれたまま、それでも消えなかった音。
その音が、自分の名前を覚えていた。
shiho自身が忘れそうになっても、低音だけは覚えていた。
私はここにいる。
私はここにいた。
natsuのローホイッスルが、間奏に入る。
戻らない風。
低く、細く、夜を渡る風。
≫ 戻らない風
≫ 戻らない風
≫ 置いてきた声だけ
≫ 夜を渡る
natsuは、吹きながら心の中で思う。
風は戻らない。
出した音は、同じ名前では帰ってこない。
客席へ渡した音は、癒しになって帰ってくる。
眠れる音になって帰ってくる。
BGMになって帰ってくる。
黒百合では、怖い風になって帰ってきた。
どれも、自分たちが出した音とは少し違っていた。
でも、戻ってきたものを拒めない。
拒むと、次の風がどこへ行けばいいか分からなくなる。
だから、natsuは吹く。
戻らない風でも。
戻らないと分かっていても。
風がなければ、声は夜を渡れないから。
Bridgeに入る。
renaの声が細くなる。
囁きに近い。
けれど、消えない。
≫ そこまで見られたら
≫ 壊れてしまう気がした
renaは、心の中で思う。
そこまで見られたら、壊れる。
黒い水まで。
濁っていった自分まで。
綺麗だと言われるたびに少しずつ傷ついていた自分まで。
見られたら、たぶん立っていられない。
でも、そこまで見てくれなければ、自分はいないのと同じ気もする。
≫ そこまで見てくれなきゃ
≫ いないのと同じ気もした
その言葉が出た時、renaは一瞬、声が止まりそうになった。
これは、言ってはいけない言葉だった。
言えば、わがままになる。
見てほしい。
でも見られたら壊れる。
それを他人にどうしろと言うのか。
自分でも分からない。
でも、それが本音だった。
shihoが低く重なる。
≫ 認められてる
≫ なのに痛い
shihoは、思う。
認められてる。
確かに認められている。
バスクラが良いと言われた。
低音が良いと言われた。
空間に馴染むと言われた。
必要とされている。
なのに痛い。
それは、相手の評価が間違っているからではない。
自分の中にある欲しさが、もっと複雑だからだ。
≫ 愛されてる
≫ なのに遠い
natsuのローホイッスルが震える。
natsuは、愛されている空気を感じていた。
Acoustic Nightの客席は、優しかった。
誰も悪くなかった。
でも、遠かった。
届いているのに遠い。
近くで聴いてもらっているのに遠い。
風が行ったのに、同じ風として帰ってこない。
その遠さが、natsuにはずっと分かっていた。
二人の声が沈む。
natsuは歌わず、低い笛でその沈みを支える。
≫ この矛盾に
≫ 名前をつけられないまま
名前をつけられない。
だから、歌になる。
説明できないものは、音になる。
音になったものは、もう戻せない。
Final Hookへ入った。
renaとshihoの声が、今までで一番強く重なった。
natsuのローホイッスルが、その背後で低くうねる。
≫ 眠れる音だと
≫ 笑ってくれるよ みんな
≫ でも私たちは
≫ ずっと眠れなかったのに
二番の部屋で、男はスマホをさらに壁へ近づけた。
女性ボーカルが、泣きながら手を伸ばす。
「やめてって」
「触んなって」
「消して」
「あとで」
「今」
「いいから」
「よくない!」
彼女の声は震えていた。
けれど、三番の部屋の音にかき消された。
≫ 前に出過ぎないのがいいってこと?
≫ みんなそう言ってるみたい
≫ じゃあ私たちはどこまで下がれば
≫ 私たちのありのままを見てくれるの?
女性ボーカルは、もう何も言えなかった。
泣いていた。
ReShiNaの歌詞に泣いているのか。
目の前の男の軽薄さに泣いているのか。
たぶん、両方だった。
≫ 黒い水を飲んでも
≫ 澄んだ声でいればいいの?
renaは、心の中で叫んでいた。
澄んだ声でいればいいの。
黒い水を飲んでも。
濁っていても。
怖くても。
眠れなくても。
声だけ澄んでいれば、許されるのか。
≫ 煤だらけの床でも
≫ 綺麗な音だけ鳴らせばいいの?
shihoは、低音の奥で震えていた。
煤だらけの床。
裸足の音。
踏まれたままの音。
それらを隠して、綺麗な低音だけ鳴らせばいいのか。
それなら、私はどこにいるのか。
≫ 戻らない風でも
≫ 優しく吹けば許されるの?
natsuは、ローホイッスルを吹きながら目を閉じていた。
戻らない風。
でも、優しく吹けば許されるのか。
風が迷っていても。
風が帰ってこなくても。
風が痛くても。
優しく聞こえれば、それでいいのか。
最後に、伴奏が少しずつ削がれていく。
ギターが弱くなる。
バスクラリネットが沈む。
ローホイッスルの息だけが残る。
二人の声が、裸になる。
natsuは歌わない。
でも、最後の風だけは、確かにそこにいる。
≫ 百合根
≫ 百合根
その言葉は、叫びではなかった。
むしろ、呟きに近かった。
でも、部屋のどの音よりも重かった。
百合根。
花ではない。
黒い花でもない。
土の中で割れた根。
白く残っただけのもの。
見えないもの。
触られないもの。
でも、確かにそこにあるもの。
≫ 花じゃない私たちを
≫ 土ごと見てよ
renaは、その行で泣いた。
歌いながら、涙が落ちた。
土ごと見てよ。
それは、たぶん一番言いたくなかった言葉だった。
綺麗なところだけでなく。
癒しになるところだけでなく。
眠れる音だけでなく。
黒い水も、煤だらけの床も、戻らない風も、土の中で割れた根も。
全部ごと見てよ。
でも、本当に見られたら壊れそう。
その矛盾ごと、見てよ。
natsuのローホイッスルが、最後に細く鳴った。
≫ 風は戻らない
≫ でも
≫ ここにいた
音が消えた。
完全に消えたあとも、部屋の空気は震えていた。
三人は動かなかった。
renaはギターを抱えたまま泣いていた。
shihoはバスクラリネットを膝に置き、目を閉じていた。
natsuはローホイッスルを口元から下ろせなかった。
誰も拍手しない。
ここはステージではない。
客席ではない。
三人だけの部屋。
そのはずだった。
しばらくして、shihoが言った。
「……今の」
renaは、涙を拭わないまま首を横に振った。
「分からない」
natsuが、小さく言った。
「根」
shihoは目を開ける。
「百合根」
natsuは頷いた。
「黒百合の下」
renaは、ギターの胴に額をつけた。
「出したくなかった」
shihoが低く答える。
「うん」
「でも、出た」
「うん」
「また、出た」
誰も否定しなかった。
黒百合と同じだった。
出したくて出したわけではない。
でも、出てしまった。
そして、出てしまったものは、もう戻せない。
二番の部屋では、男が録音を止めた。
スマホの画面には、数分間の音声ファイルが残っている。
女性ボーカルは、涙を拭いながら立っていた。
「消して」
男は、画面を見つめたまま動かない。
「消してよ」
「いや、これは……」
「消して」
「外には出さないって」
「そういう問題じゃない」
「分かってるって」
「分かってない」
「分かってるよ」
男の声は、軽かった。
少し興奮していた。
罪悪感よりも、レアなものを手に入れた高揚の方が勝っていた。
女性ボーカルは、それを見て、また涙が出そうになった。
「ほんとに、やめて」
「大丈夫だって。仲間内だけ。ちゃんと分かるやつだけに聴かせる」
「それがだめなんだって!」
「だから、広げないって」
「今、広げるって言ったじゃん」
男は、少しだけ黙った。
それから、気まずそうに笑った。
「いや、ほんとに信頼できるやつだけ」
女性ボーカルは、何も言えなくなった。
この人は、止まらない。
そう思った。
この夜、彼女はまだ知らなかった。
この小さな亀裂が、やがて二人の音楽を完全に割ることになる。
でも、何かが終わり始めていることだけは分かった。
三番の部屋の中で、ReShiNaは何も知らなかった。
自分たちの音が漏れていたこと。
隣の部屋で録音されていたこと。
女性ボーカルが本気で止めようとしていたこと。
男がそれを押し切ったこと。
何も知らなかった。
renaは、ようやく涙を拭った。
shihoは、楽器を片づけられずにいた。
natsuは、ローホイッスルを膝の上に置いた。
「今日は」
shihoが言った。
「帰ろう」
renaは頷いた。
natsuも頷いた。
誰も「また練習しよう」とは言わなかった。
これは練習ではなかった。
曲ができた、とも言えなかった。
でも、曲になってしまった。
三人は、楽器をケースに戻した。
その動作だけが、妙に現実的だった。
リードを外す。
管体を拭く。
ギターの弦を軽く緩める。
ローホイッスルを布で包む。
ケースを閉じる。
いつもと同じ手順。
でも、三人の中身は、もういつもと同じではなかった。
部屋を出た時、廊下には誰もいなかった。
だから三人は気づかなかった。
自分たちの音が漏れていたことに。
そして、その音が録られていたことに。
その夜、録音ファイルは公開されなかった。
男は、SNSには上げなかった。
動画サイトにも出さなかった。
それを、彼なりの誠実さだと思っていた。
けれど、消しもしなかった。
翌日。
彼は、音楽仲間に送った。
「絶対外に出すなよ」
そう書いた。
「昨日、隣から漏れてきた。百合根って曲っぽい。マジでやばい。黒百合の下にこれがあった」
送られた相手は、すぐに返信した。
「これ出していいやつ?」
男は答えた。
「だめ。だから外に出すな。分かるやつだけ」
その相手は、また別の一人に送った。
「絶対広げるな」
そう書いた。
「でもこれは聴いた方がいい」
その一人が、また一人に送った。
「本人たちには絶対言うな」
そう書いた。
「ReShiNa、黒百合だけじゃなかった」
だめだと分かっているものほど、秘密の形で回る。
軽い罪悪感と、強い興奮と、選ばれたような勘違いをまとって、百合根は仲間内をめぐり始めた。
公式には存在しない曲。
ReShiNa本人たちが公開していない曲。
練習室から漏れた音。
録ってはいけなかった音。
でも、聴いた者が黙っていられない音。
黒百合は、夜の庭に咲いた花だった。
百合根は、その下にあった。
土の中で割れて、白く残り、誰にも見られるはずのなかったもの。
それが、本人たちの知らないところで、静かに広がり始めた。




