4-3-5 眠れない音
翌日、ReShiNaは配信をしなかった。
告知も出さなかった。
「昨日はありがとうございました」とだけ、短い文章を公式アカウントに載せた。
その文面は、renaが打った。
三回打ち直した。
一回目は、丁寧すぎた。
二回目は、明るすぎた。
三回目は、短すぎた。
結局、短いまま出した。
SOUND SESSION 前夜祭 Acoustic Night、ありがとうございました。
たくさん聴いていただけて嬉しかったです。
また、音を届けられるように整えます。
送信したあと、renaはしばらくスマホを見つめていた。
整えます。
自分で書いたその言葉が、少し嫌だった。
整える。
また整える。
会場を整えて、自分たちを整えて、声を整えて、音を整えて、見え方を整える。
整えれば整えるほど、何かが見えなくなっていく気がした。
でも、ほかに何を書けばよかったのか分からなかった。
黒百合のことには触れなかった。
触れられなかった。
あれを何と呼べばいいのか、rena自身にもまだ分からなかった。
曲なのか。
事故なのか。
告白なのか。
失敗なのか。
それとも、ずっと胸の奥にあったものが、昨日たまたま名前を持ってしまっただけなのか。
スマホの通知は止まらなかった。
黒百合。
ReShiNa。
夜色の百合。
魔女みたい。
黒い森。
癒し系だと思ってたのに。
怖い。
でも、もう一回聴きたい。
その言葉が、画面の上を次々に流れていく。
renaは途中でスマホを伏せた。
それでも、伏せたスマホがまだ光っている気がした。
机の横には、アコースティックギターのケースが置いてある。
昨日の夜、帰ってきてから開けていない。
開けるのが怖かった。
ケースの中に、昨日の黒い音がまだ残っている気がした。
指で弦に触れたら、またあの庭に戻ってしまう気がした。
庭の隅。
黒百合。
夜に触れた花びら。
滲む煤。
優しいフリ。
見えるかな。
全部、まだ喉の奥に残っている。
歌ったのは自分なのに、今はもう自分の声ではないように感じた。
どこか遠くの、夜の庭の中で、知らない女が歌っていたみたいだった。
でも、知らない女ではない。
あれはrenaだった。
だから、怖い。
スマホがまた震えた。
今度は、ReShiNaの三人だけのチャットだった。
shiho:
今日、会える?
renaは、すぐには返せなかった。
会いたい。
でも、会うのが怖い。
三人で会えば、昨日のことを話さなければいけない。
話したら、黒百合が本当に曲になってしまう気がする。
まだ、なかったことにできるかもしれない。
そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。
でも、すぐに消えた。
もう、なかったことにはできない。
natsu:
楽器、持つ?
shiho:
持ってきて
natsu:
うん
renaは、画面を見つめた。
楽器、持つ。
それだけで、胸の奥が少し震えた。
楽器を持って話す。
何も弾かなくても、何も吹かなくても、手の中に楽器があるだけで、言葉の出方が変わる。
ReShiNaは、ずっとそうだった。
言葉で言えない時、音が代わりに先へ出る。
音が出ない時、楽器の重さだけが、そこにいてくれる。
rena:
行く
短く返した。
少し遅れて、shihoから返事が来た。
shiho:
いつもの部屋で
natsu:
夜?
shiho:
夕方
natsu:
夜が近い夕方
shiho:
それでいい
renaは、スマホを置いた。
それから、ギターケースの前にしゃがんだ。
留め具に指をかける。
開ける。
中に、いつものギターがある。
昨日と同じギター。
何も変わっていない。
でも、renaには少し違って見えた。
楽器の方が、こちらを見ているようだった。
昨日、あの音を出したのは私ではなく、あなたでしょう。
そう言われているようだった。
renaは、ケースを閉じた。
持ち手を握る。
重い。
いつもより、少し重い。
それでも持った。
約束の部屋は、以前から三人がよく使っている小さな練習室だった。
駅から少し歩いた場所にある、古いビルの三階。
壁は完全防音ではないけれど、声とアコースティック楽器なら十分だった。
白い蛍光灯。
少し古い椅子。
折りたたみの譜面台。
小さなテーブル。
床にはケーブルを貼った跡が残っている。
窓はない。
代わりに、壁の高いところに換気口がある。
そこから、時々、外の車の音がほんの少しだけ漏れてくる。
renaが部屋に入った時、shihoはもう来ていた。
椅子に座って、バスクラリネットのケースを膝の上に置いている。
開けてはいない。
でも、両手でケースを押さえている。
まるで、中の楽器が勝手に出ていかないようにしているみたいだった。
「早いね」
renaが言うと、shihoは顔を上げた。
「落ち着かなかった」
「私も」
それだけ言って、二人は黙った。
会話が続かない。
気まずいわけではない。
けれど、言葉を出せば、そのまま昨日の夜へ落ちてしまいそうだった。
少しして、ドアが開いた。
natsuが入ってきた。
フルートケースと、ローホイッスルのケース。
両方持っている。
「両方?」
shihoが聞いた。
natsuは頷いた。
「どっちか分からない」
renaは、その答えだけで少し胸が痛くなった。
昨日の夜、natsuはローホイッスルを持った。
つくしではフルートだった。
黒百合では、ローホイッスルだった。
でも、今はどちらか分からない。
風が、自分でも方向を決められないでいる。
natsuは部屋の隅に座った。
フルートケースを左に。
ローホイッスルのケースを右に。
その真ん中に、自分が座る。
それから、三人はしばらく何も言わなかった。
楽器だけがあった。
renaのギター。
shihoのバスクラリネット。
natsuのフルートとローホイッスル。
三人の間に、それぞれの音が置かれている。
まだ鳴っていない。
でも、沈黙の中で、もう音が始まっているような気がした。
最初に口を開いたのは、shihoだった。
「見た?」
renaは、少し遅れて頷いた。
「少しだけ」
natsuも頷いた。
「見た」
「黒百合って、言われてる」
shihoの声は平らだった。
感情がないわけではない。
感情がありすぎて、平らにするしかない声だった。
renaは、ギターケースの上に手を置いた。
「うん」
「切り抜き、伸びてる」
「うん」
「つくしより」
その言葉で、部屋の空気がほんの少し沈んだ。
つくしより。
それは、誰も言いたくなかった。
でも、言わないと、そこにずっと残る。
renaは、視線を落とした。
「つくしも、ちゃんとやった」
「分かってる」
shihoはすぐに言った。
「ちゃんとやった。崩れてない。歌も、低音も、natsuの返しも。ケルトの言葉の混ざり方も、ちゃんと拾ってもらえた」
「うん」
「でも」
そこでshihoは止まった。
renaが続きを言う。
「黒百合の方が、見られてる」
natsuが、ぽつりと言った。
「夜の森、目立つ」
shihoが少しだけ笑った。
「明るい場所より?」
「ううん」
natsuは首を横に振る。
「怖い場所の方が、忘れにくい」
その言葉は、やさしかった。
でも、少し残酷でもあった。
怖い場所の方が、忘れにくい。
それは、黒百合が伸びている理由を、妙に正確に言っていた。
renaは、ギターケースを開けた。
部屋の中に、木と弦の匂いが少しだけ広がる。
ギターを取り出す。
膝に乗せる。
弾かない。
ただ、両腕で抱える。
それだけで、少し息ができた。
shihoも、ケースを開けた。
バスクラリネットを取り出す。
組み立てずに、下管だけを手に持つ。
黒い管体が、蛍光灯の光を鈍く返す。
natsuは、ローホイッスルのケースを開けた。
銀色の楽器を取り出し、両手で握った。
吹かない。
ただ握る。
三人とも、楽器を握ったまま黙っている。
楽器があることで、ようやく本音が出せる気がした。
renaは、弦に指を置いた。
音は出さない。
「眠れる音だと」
声が、小さく落ちた。
shihoが顔を上げる。
natsuも見る。
renaは、ギターを抱えたまま続けた。
「笑ってくれる、みんな」
その言葉は、誰かを責める声ではなかった。
疲れている声だった。
「寝る前に聴きたいって。落ち着くって。頑張らなくていい感じだって」
部屋の空気が、じわっと重くなる。
renaは、目を伏せた。
「でも、私は……」
言いかけて、止まる。
喉が詰まった。
続きが出ない。
でも、出さないといけない。
自分の中にあるものを、これ以上きれいな言葉で包む余力がなかった。
「私はずっと、眠れなかったのに」
それを言った瞬間、部屋が静かになった。
さっきまでの沈黙とは違う。
言葉が出てしまったあとの沈黙。
もう戻せない沈黙。
shihoの指が、バスクラリネットの管体を少しだけ撫でた。
「私たちは、ずっと眠れなかった」
shihoが言い直した。
renaは顔を上げた。
shihoは、まっすぐ前を見ていた。
「renaだけじゃない」
その言葉に、renaの目が少し揺れた。
natsuも、小さく頷いた。
「うん」
natsuはローホイッスルを握ったまま、膝の上に置いている。
「眠れる音って言われるたびに、眠れない風が増えた」
shihoは少しだけ息を吐いた。
「眠れない風」
natsuは頷く。
「夜に窓が開いてるみたい」
renaは、笑いそうになった。
でも笑えなかった。
夜に窓が開いている。
それは、あまりにもnatsuらしい言い方だった。
そして、あまりにも今の三人に近かった。
renaは、弦を一本だけ弱く弾いた。
ぽん、と小さな音が鳴る。
明るくも暗くもない音。
すぐに消えた。
shihoが言った。
「前に出すぎないのがいいって」
renaは、息を止めた。
shihoは続ける。
「みんな、そう優しく言ってるみたい」
その声は低かった。
怒っているようにも聞こえた。
でも、それ以上に、悲しかった。
「主張しすぎないのがいい。空間に馴染むのがいい。前に出すぎないのがいい」
shihoはバスクラリネットの下管を握る手に力を込めた。
「低い音って、支えるだけなのかな」
renaは何も言えなかった。
shihoが、こんなふうに自分の役割を疑うのは珍しかった。
shihoはいつも、低い場所を引き受けていた。
文句を言わずに。
静かに。
曲の地面を作って、renaの声を支えて、natsuの風が迷わないように奥行きを作っていた。
そのshihoが、今、低い音の意味を疑っている。
「私、前に出たかったのかな」
shihoが言った。
自分でも分からない、という声だった。
「分からない。でも、前に出すぎないのがいいって言われたら、じゃあ、私はどこにいたらいいんだろうって思った」
natsuは、ローホイッスルを少しだけ持ち上げる。
吹かない。
ただ、唇の近くまで持っていって、また下ろす。
「下?」
shihoがnatsuを見る。
natsuは、少し首を傾ける。
「shihoは下にいる。でも、いなくなるためじゃない」
shihoは、その言葉を受け取るのに少し時間がかかった。
「いなくなるためじゃない」
natsuは頷く。
「下にいると、みんな立てる」
「でも、立ってる人しか見えない」
natsuは、少し黙った。
その沈黙が、shihoには刺さった。
natsuは嘘が下手だ。
慰めるためだけの言葉を言えない。
だから、その沈黙は、返事だった。
そう。
立っている人しか見えない。
支えているものは、見えにくい。
shihoは小さく笑った。
笑ったけれど、すぐに消えた。
「じゃあ私たちは」
renaが、ゆっくり言った。
「どこまで下がれば、ちゃんと認められるの?」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
観客へ。
主催へ。
SNSへ。
自分たちへ。
全部へ向かっていた。
「どこまで静かにすればいいの」
renaの声が少し震える。
「どこまで邪魔しなければいいの」
弦に置いた指が、少し白くなる。
「どこまで優しくすれば、ちゃんと見てもらえるの」
shihoが、低く言った。
「見てもらえるんじゃなくて、使いやすくなるだけかもしれない」
その言葉は、鋭かった。
renaは息を呑む。
natsuも、ローホイッスルを握る手を止めた。
shihoは、自分で言った言葉に少し驚いたようだった。
でも、取り消さなかった。
「空気を整える音。前夜祭にぴったりな音。眠れる音。作業用に流したい音。主張しすぎない音」
一つずつ、言葉を置く。
「それって、見てもらってるのかな」
誰も答えない。
答えられない。
「それとも、邪魔にならない場所に置かれてるだけなのかな」
renaは、ぎゅっと目を閉じた。
その言葉は、胸の奥を深くえぐった。
見てもらっているのか。
邪魔にならない場所に置かれているだけなのか。
その違いが、今の三人には分からない。
分からないから、苦しい。
natsuが、ローホイッスルを軽く鳴らした。
ほんの短い音。
音というより、息に近い。
部屋の蛍光灯の下では、少し不似合いな音だった。
夜の庭なら似合う。
森の奥なら似合う。
でも、白い練習室では、少しだけ浮いた。
natsuは、その浮いた音を聞いて、少し眉を寄せた。
「帰ってこない」
renaが見る。
「風?」
「うん」
「ここでも?」
natsuは頷く。
「ここでも」
shihoが聞く。
「どういう感じ?」
natsuは、しばらく考えた。
言葉を探している。
「みんな、ありがとうって言う」
「うん」
「でも、ありがとうが壁になる」
renaは、ゆっくりと顔を上げた。
ありがとうが壁になる。
natsuは続ける。
「ありがとうって言うと、そこから入れなくなる」
shihoは、目を伏せた。
その言葉は分かる気がした。
褒められた時、ありがとうございます、と言う。
それで終わる。
相手の善意を受け取る。
笑う。
頭を下げる。
それ以上、何も言えない。
本当は、その言葉の奥で痛んでいても、ありがとうございますと言った瞬間、その痛みは自分の中に戻ってくる。
相手は悪くない。
だから、こちらが飲み込むしかない。
ありがとうが壁になる。
それは、三人が昨日からずっと感じていたものだった。
renaは、ギターの胴を抱きしめるようにして、うつむいた。
「私、昨日の黒百合」
声が詰まる。
「出したくて出したわけじゃない」
shihoが頷く。
「分かってる」
「でも、出た」
「うん」
「しかも、そっちの方が見られてる」
部屋の空気が、静かに沈む。
natsuが小さく言う。
「夜の森は、目立つ」
renaは首を横に振った。
「目立ちたかったわけじゃない」
「うん」
「怖がらせたかったわけでもない」
「うん」
「でも、怖いって言われてる」
「うん」
「魔女みたいって」
「うん」
「ドライアドみたいって」
natsuは、その言葉に少しだけ反応した。
「木の精霊」
「そう」
「夜の?」
「たぶん」
natsuは、少し考えた。
「嫌?」
renaはすぐには答えられなかった。
嫌。
そう言いたかった。
でも、言い切れない。
魔女みたい。
ドライアドみたい。
夜の森。
黒い花。
その言葉たちは、怖い。
でも、どこかで、自分たちの音の一部を正しく見ている気もした。
癒し。
BGM。
眠れる音。
前夜祭にぴったり。
そう言われるより、黒百合の方が、自分たちの奥に近い気もしてしまう。
それが、余計に怖かった。
「嫌じゃないのが嫌」
renaは、やっと言った。
shihoが小さく息を吐いた。
「分かる」
「魔女って言われるのは嫌なはずなのに」
「うん」
「でも、癒しって言われるより、まだ本当っぽい」
shihoは、バスクラリネットを組み立て始めた。
ゆっくりと。
下管。
上管。
ベル。
マウスピース。
その動きは、練習の時と同じだった。
でも、表情は違う。
「黒百合、曲にするの?」
renaが聞いた。
shihoは手を止めなかった。
「もう、なってるってnatsuが言った」
natsuは小さく頷く。
「うん」
「でも、曲にしたら」
renaの声がかすれる。
「認めることになる」
shihoは、リードをつける手を止めた。
「何を?」
renaは答えられなかった。
何を認めることになるのか。
黒い感情があること。
綺麗と言われるのが怖いこと。
癒しとして求められることに傷ついていること。
自分たちが優しいだけの音ではないこと。
自分たちの中に、誰かを夜の森へ引きずり込むような音があること。
それを認めることになる。
「私たちが、そういう音を持ってるってこと」
renaは言った。
shihoは、少し黙った。
それから、静かに言った。
「持ってたんだと思う」
renaはshihoを見る。
shihoは続ける。
「昨日急に生まれたんじゃない。ずっとあった。見ないようにしてただけで」
「見ないようにしてた?」
「たぶん」
natsuが言う。
「雪の下」
shihoは頷いた。
「うん。雪の下」
renaは、ギターの弦を一本弾いた。
今度は、少し低めの響きだった。
「つくしじゃなかった」
natsuが言う。
「つくしもある」
renaが顔を上げる。
natsuは、ローホイッスルを膝の上で転がすように持っている。
「つくしもある。黒百合もある」
shihoが、少しだけnatsuを見る。
「両方?」
「うん」
「同じ雪の下?」
「たぶん」
natsuは少し考えて、付け足した。
「でも、黒百合の方が先に見つかった」
その言葉に、renaは胸が痛くなった。
黒百合の方が先に見つかった。
本当は、つくしを見てほしかった。
足元の道を。
一緒に歩いた記憶を。
小さな春を。
でも、世の中が先に見つけたのは、黒い花だった。
しかも、自分たちが一番見られたくなかったかもしれない花だった。
「なんで」
renaの声が漏れた。
「なんで、そっちなの」
誰も答えられない。
「つくし、ちゃんとやったのに」
「うん」
「ちゃんと練習したのに」
「うん」
「ケルトの言葉も、ちゃんと意味を考えて混ぜたのに」
「うん」
「歩幅の歌だったのに」
「うん」
「なんで、黒百合なの」
最後の言葉は、ほとんど泣き声に近かった。
でも、涙は出ない。
出そうで、出ない。
それが余計に苦しい。
shihoは、バスクラリネットを構えた。
低い音を一つだけ出す。
部屋の中に、暗い音が落ちた。
その音は、昨日より少しだけ落ち着いていた。
でも、まだ黒い。
「たぶん」
shihoが言った。
「黒百合の方が、隠してなかったから」
renaは、言葉を失った。
shihoは、自分で言った言葉に、少しだけ顔を歪める。
「つくしは、ちゃんと作った。ちゃんと整えた。ちゃんと届けようとした」
「うん」
「でも、黒百合は……出た」
natsuが、小さく言う。
「吐いた」
その言葉に、renaの肩が少し震えた。
吐いた。
そうだった。
歌ったというより、吐いた。
整えた音ではない。
体の奥に溜まっていたものが、声になって出てしまった。
吐血みたいだった。
赤くはない。
黒い。
血よりも暗いもの。
でも、確かに自分の中から出たもの。
renaは、ギターを抱きしめたまま言った。
「吐いたものが、曲になるの嫌だ」
shihoは、低く答える。
「分かる」
natsuも言う。
「でも、吐かないと苦しい」
renaは、目を閉じた。
そう。
それも分かる。
黒百合をなかったことにすれば、少し楽かもしれない。
でも、胸の奥に戻したら、もっと苦しくなる。
一度出てしまったものは、もう戻せない。
戻したら、自分の中で腐る気がした。
shihoが、ゆっくり言った。
「本音で話そう」
renaは顔を上げた。
natsuも見る。
shihoは、バスクラリネットを握ったまま、まっすぐ二人を見た。
「昨日から、ずっと綺麗な言葉で整理しようとしてる」
「うん」
「感謝してる。嬉しい。ありがたい。悪意はない。褒めてくれてる。演奏は成功した」
一つずつ並べる。
「全部本当」
renaは頷く。
「でも、それだけじゃ足りない」
shihoの声は少し震えていた。
「足りないどころか、そこに押し込めると、たぶん壊れる」
natsuが、ローホイッスルを握り直す。
「じゃあ、黒いまま?」
shihoは頷いた。
「今は、黒いまま」
renaは、怖くなった。
でも、その怖さの中に、少しだけ安心もあった。
黒いまま。
それを許されることが、こんなに怖くて、こんなに必要だとは思わなかった。
「本音で話すなら」
renaは、ゆっくり言った。
「私は、綺麗って言われるのが怖い」
部屋が静かになる。
言った。
とうとう言った。
「嫌なんじゃない。怖い」
shihoは、黙って聞いている。
natsuも、じっと見ている。
「綺麗って言われると、今だけみたいで怖い。声が出てるうちは。髪が綺麗なうちは。雰囲気があるうちは。そういうものがなくなったら、私は何で見てもらえるのって」
renaの声が少し震える。
「だから、音楽をやった。ちゃんと残るものが欲しかった。可愛いとか綺麗とか、そういうのじゃなくても見てもらえるものが欲しかった」
弦に置いた指が、震えた。
「でも、音楽でも、綺麗って言われる」
その言葉で、空気が重くなる。
「癒されるって言われる。透明って言われる。眠れるって言われる。雰囲気があるって言われる」
renaは、目を閉じた。
「結局、私はまた、見た目と同じところに戻ってきた気がした」
shihoは、ゆっくり息を吸った。
それから言った。
「私は」
少し間を置く。
「必要とされたい」
renaがshihoを見る。
shihoは、少しだけ視線を落としていた。
「でも、必要とされるなら、ちゃんと前から必要とされたい」
その言葉は、shihoらしくないほど真っ直ぐだった。
「低音があると安心する。支えてる。空間が締まる。前に出すぎないのがいい」
shihoは、少し笑った。
笑いにならない笑いだった。
「それ、全部嬉しいはずなのに」
「うん」
「でも、私は便利な床になりたいわけじゃない」
renaの胸が痛んだ。
便利な床。
shihoは続ける。
「誰かが立つために必要なのは分かってる。低音が見えにくいのも分かってる。でも、見えないままでいいわけじゃない」
バスクラリネットを握る手に、少し力が入る。
「私は、ここにいる」
その一言は、低く、重かった。
renaは、頷いた。
「いるよ」
shihoは、少しだけ目を伏せた。
「うん」
natsuが、しばらく黙っていた。
二人の言葉を、風のように聞いていた。
それから、ローホイッスルを膝に置いたまま、小さく言った。
「私は、帰ってきてほしい」
renaとshihoがnatsuを見る。
natsuは、うまく言葉を探していた。
「音を出す。風を出す。みんなのところへ行く」
「うん」
「でも、戻ってこないと、どこに行ったか分からない」
natsuは、自分の胸のあたりを指す。
「ここが、空く」
shihoが静かに聞く。
「寂しい?」
natsuは少し考える。
「寂しいより、迷う」
「迷う」
「うん。風が帰ってこないと、次の風がどこへ行けばいいか分からない」
renaは、natsuの言葉をゆっくり受け取った。
natsuは、いつもぽやぽやして見える。
でも、何も考えていないわけではない。
空気に触れすぎているだけだ。
言葉より先に、風の向きで傷つく。
拍手があっても、風が戻らなければ、natsuには届いていないように感じる。
「黒百合の時は?」
renaが聞いた。
natsuは少しだけ目を伏せた。
「戻ってきた」
部屋が静かになった。
natsuは続ける。
「怖い風だったけど、戻ってきた」
その言葉に、renaの胸が締めつけられる。
黒百合は、戻ってきた。
つくしでは戻ってこなかった風が、黒百合では戻ってきた。
怖い。
でも、それは事実だった。
natsuは、さらに言った。
「だから、嫌」
「嫌?」
「うん。黒百合で戻ってくるの、嫌」
renaは、何も言えなかった。
shihoも黙った。
黒百合で戻ってくる。
それは、彼女たちにとって残酷な事実だった。
癒しとして求められるより、黒い花として見られた時の方が、熱が返ってきた。
それが嫌だった。
でも、どこかで嬉しくもあった。
だから、もっと嫌だった。
renaは、ギターの弦をゆっくり鳴らした。
暗いコード。
昨日の黒百合とは少し違う。
でも、同じ庭の匂いがした。
shihoが低い音を合わせる。
natsuがローホイッスルを口元に持っていく。
今度は、音を出した。
短い。
低い。
夜の風。
三人は、しばらくその音の中にいた。
歌ではない。
練習でもない。
ただ、胸の奥にあるものを、少しだけ外へ出す時間だった。
renaが、小さく歌う。
≫ 眠れる音だと
≫ 笑ってくれる みんな
自分で作った言葉ではない。
さっき、胸の奥から出てきた言葉だった。
shihoが、低く続ける。
≫ でも私たちは
≫ ずっと眠れなかったのに
natsuのローホイッスルが、その後ろを通る。
音は短い。
でも、深い。
renaの目に、ようやく涙がにじんだ。
でも、流れない。
まだ流れない。
shihoが、今度ははっきり言った。
≫ 前に出すぎないのがいいって
≫ みんなそう優しく言ってるみたい
renaが、ギターを抱きしめる。
≫ じゃあ私たちは
≫ どこまで下がれば
≫ ちゃんと見とめられるの?
その一節で、部屋の空気が詰まった。
三人だけの部屋なのに、Acoustic Nightの会場よりも重い。
誰も拍手しない。
誰も褒めない。
誰も癒されたと言わない。
だからこそ、その言葉がそのまま床に落ちた。
吐血のような心だった。
美しく整えた歌詞ではない。
体の中の暗いところから、押し出されるように出てきたもの。
吐いたら苦しい。
でも、吐かなければもっと苦しい。
renaは、とうとう涙をこぼした。
一滴だけ。
すぐに拭わなかった。
shihoも、目を伏せた。
natsuは、ローホイッスルを握ったまま、二人を見ている。
「これ」
natsuが言った。
「黒百合の根」
renaは、涙の残る目でnatsuを見る。
「根?」
「うん」
natsuは、床を指す。
「昨日、花が出た。今、根が見えた」
shihoが小さく息を吐いた。
「根の方が、きついね」
natsuは頷く。
「根は、抜くと痛い」
renaは、ギターの弦に手を置いた。
「抜きたくない」
自分で言って、驚いた。
抜きたくない。
この苦しさを、消したいはずだった。
黒百合なんてなかったことにしたいはずだった。
でも、根を抜きたいとは思えなかった。
抜いたら、自分たちのどこか大事なものまで失う気がした。
shihoが言う。
「じゃあ、育つ」
「黒いまま?」
renaが聞く。
shihoはすぐには答えない。
natsuが言った。
「今は」
今は。
その言葉だけが、部屋に残った。
今は黒いまま。
今はまだ、雪は溶けない。
今はまだ、つくしには戻れない。
今はまだ、誰かにうまく説明できない。
でも、三人はようやく、自分たちの暗い場所を三人で見た。
一人ずつ、楽器を握りながら。
renaはギターを抱えたまま泣いていた。
shihoはバスクラリネットを膝に乗せ、低い音を出す手前の呼吸で止まっていた。
natsuはローホイッスルを握り、風の帰り道を探すように、部屋の隅を見ていた。
誰も慰めなかった。
慰めるには、まだ早かった。
誰も「大丈夫」と言わなかった。
大丈夫ではなかったから。
ただ、三人は同じ部屋にいた。
同じ痛みではない。
同じ傷でもない。
でも、同じ黒い根を見ていた。
しばらくして、shihoが言った。
「今日は、帰らない?」
renaが顔を上げる。
「ここにいるの?」
「うん」
shihoは、バスクラリネットを握り直した。
「今、帰ったら、それぞれ一人で考える」
natsuが小さく頷く。
「一人の風は、重い」
renaは、涙を拭った。
「じゃあ、いる」
「うん」
「何する?」
shihoは、少しだけ考えた。
「弾く」
natsuが言う。
「吹く」
renaは、ギターを見た。
「歌う?」
shihoは首を横に振った。
「歌えたら」
natsuも言った。
「風が来たら」
renaは、小さく頷いた。
三人は、それ以上言葉を重ねなかった。
renaが、暗いコードをもう一度鳴らす。
shihoが、低い音を重ねる。
natsuが、息を入れる。
音はまだ曲にならない。
でも、何かが確かにそこにある。
眠れる音だと笑ってくれるみんな。
でも、私たちはずっと眠れなかった。
前に出すぎないのがいいって、みんなそう優しく言ってるみたい。
じゃあ私たちは、どこまで下がれば、ちゃんと認められるの。
その問いは、答えにならないまま部屋に残った。
三人は、その問いの中で夜を過ごした。
黒百合は、もう咲いてしまった。
そして今、その根が、三人の胸の奥で静かに絡まり始めていた。




