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ラップ付き小説 ReversCrown 元気ないやつこっちおいで  作者: egubi
reshina編

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115/186

4-3-3 自由時間の黒百合


Acoustic Nightの本編が終わったあと、会場の照明は少しだけ明るくなった。


明るくなった、といっても、ライブハウスの終演後みたいに、ぱっと白くなるわけではなかった。


木目の壁に落ちていた橙色の光が、ほんの少し広がる。


丸テーブルの輪郭が見える。


グラスについた水滴が見える。


誰かが膝の上に置いたパンフレットの端が、薄く光る。


演奏中は息を潜めていた客席が、少しずつ音を取り戻していく。


椅子を引く音。


小さな咳払い。


「よかったですね」と囁く声。


「つくし、いい曲だった」と誰かが言う声。


グラスの氷が、からん、と鳴る音。


そのどれもが、さっきまでのReShiNaの余韻を壊さないように、少し遠慮しているみたいだった。


司会者がステージに戻り、マイクを持つ。


「本日のプログラムは以上になります。ここからは少しだけ、自由な交流時間とさせていただきます」


客席から、小さな拍手が起きた。


「出演者の皆さま同士でお話しいただいたり、短いフレーズを弾いていただいたり、楽器を交えて交流していただいたり。せっかくのAcoustic Nightですので、音の余韻をそのまま楽しんでいただければと思います」


やわらかい言い方だった。


誰かを急かすものではない。


誰かを競わせるものでもない。


本戦前夜。


静かな音楽の夜。


本編が終わっても、すぐに帰らせない。


音を残したまま、人と人が近づく。


ギターの出演者が、客席横で軽くコードを鳴らす。


ハープの奏者が、別の出演者と弦の張りについて笑いながら話している。


少し奥では、民族楽器を持った男性が、興味を持った客に楽器の説明をしていた。


「触ってみてもいいですか?」


「もちろん。ここを軽く」


そういう声が、会場のあちこちに小さく散らばっている。


自由時間。


そう言われると、普通なら少し楽になるはずだった。


けれど、renaはステージ袖で、ギターケースの取っ手を握ったまま動けずにいた。


自由。


好きに演奏していい。


好きに話していい。


さっきまでの緊張から、少し離れていい。


そのはずなのに、胸の奥は少しも自由ではなかった。


「ReShiNaさん」


近くを通った女性客が、renaに声をかけた。


renaは反射的に顔を上げる。


「はい」


女性は、少し頬を赤くしていた。


年齢は三十代くらいだろうか。


片手にグラスを持っている。


「“つくし”、すごくよかったです」


「ありがとうございます」


renaは、きれいに微笑んだ。


「なんか、懐かしいのに、普通の懐かしさじゃなくて。昔の友達とか、もう会わなくなった人とか、そういうの思い出しました」


その言葉は嬉しかった。


曲の奥に触れてくれている。


renaの笑顔が、ほんの少し本物に近づく。


「そう言っていただけて嬉しいです」


「あと、言葉が混ざってるの、面白かったです。日本のつくしなのに、ケルトっぽい言葉が入っていて。挑戦してる曲なんだなって」


「はい。少し、歩幅がずれていく感じを出したくて」


「すごく伝わりました」


女性は頷いた。


そこまでは、まっすぐ嬉しかった。


拾ってくれた。


ただ「綺麗」だけで流さずに、曲の構造を見てくれた。


日本語のつくし。


アイルランド語。


スコットランド・ゲール語。


同じ道を歩いていたはずなのに、少しずつ言葉が違っていく感じ。


ReShiNaが曲の中に入れたかったものを、ちゃんと受け取ってくれた。


けれど女性は、少し照れたように笑って、言葉を続けた。


「でも、ほんとに心地よくて。寝る前に流していたいです。あ、悪い意味じゃなくて。落ち着くっていうか」


「……ありがとうございます」


「ずっと流れていてほしい感じでした。BGMって言うと軽く聞こえるかもしれないけど、生活の中にあったら嬉しい音っていうか」


「嬉しいです」


女性は、本当に嬉しそうに笑って去っていった。


悪意はない。


むしろ、丁寧に聴いてくれていた。


曲の中の言葉の混ざり方まで拾ってくれた。


「挑戦してる曲」とまで言ってくれた。


だから、傷つく理由なんてない。


ないはずだった。


けれど、女性が去ったあと、renaの頬には笑顔の形だけが残った。


心の方は、そこに追いついていなかった。


寝る前に流したい。


ずっと流れていてほしい。


BGM。


生活の中にあったら嬉しい音。


それはきっと、最高の褒め言葉の一つなのだと思う。


でも、胸の奥で何かが少し冷えた。


少し離れたところで、shihoも声をかけられていた。


「バスクラ、すごくよかったです」


「ありがとうございます」


shihoは静かに頭を下げた。


相手は音楽関係者らしい男性だった。


手元に小さなノートを持っている。


「低音があると、全体が安心しますね。上の声と笛がふわっとしてるぶん、下があるのがすごく効いてました」


「ありがとうございます」


「主張しすぎないのに、空気が締まるっていうか。前に出すぎないのがいいですね」


shihoの指が、ケースのベルトを少しだけ握った。


ほんの一瞬。


相手には分からない。


「そう言っていただけて嬉しいです」


男性は、さらに続けた。


「ReShiNaさんって、空間に馴染むのが上手いですよね。歌ものだけど、主張しすぎない。会場に溶ける感じがある」


shihoは、もう一度頭を下げた。


「ありがとうございます」


男性が離れていく。


shihoは、その背中を見送ってから、少しだけ目を伏せた。


空間に馴染む。


主張しすぎない。


前に出すぎない。


低音としては、褒め言葉なのかもしれない。


支える音としては、むしろ望ましい評価なのかもしれない。


でも、自分は本当に、前に出ないために低音を鳴らしているのだろうか。


空間に溶けるためだけに、あの一音を磨いてきたのだろうか。


そんなことを考えたくないのに、言葉が勝手に胸の奥で形を変える。


natsuは、少し離れたテーブルの間を歩いていた。


歩いている、というより、漂っているようだった。


フルートケースを抱えたまま、会場の隅から隅へ、風の向きを探すみたいにゆっくり進む。


「フルート、すごく綺麗でした」


客席の女性が声をかける。


natsuは立ち止まる。


「ありがとう」


「歌わないんですね」


「うん」


「でも、なんか歌ってるみたいでした」


natsuは少しだけ目を丸くする。


それから、小さく笑った。


「それは、うれしい」


その言葉は、natsuの中にまっすぐ入った。


歌っているみたい。


それは嬉しかった。


自分は歌わない。


でも、フルートで返事をしている。


フルートで会話している。


それを聴いてくれた人がいる。


ただ、女性は続けた。


「曲の間に入ると、ふわっと空気が抜ける感じがして。ずっと聴いてたら眠れそうでした」


natsuは、ほんの少しだけ首を傾けた。


「眠る?」


「はい。安心するって意味です」


「安心」


「そうです。ReShiNaさんの音って、こう、頑張らなくていい感じがするんですよね」


natsuは、女性の顔を見た。


悪い人ではない。


本当に安心したのだと思う。


本当に褒めているのだと思う。


だから、natsuは頷いた。


「ありがとう」


女性は嬉しそうに去っていった。


natsuは、その背中を見送る。


頑張らなくていい感じ。


その言葉が、ふわふわと空気に残る。


でも、natsuの胸の中では、少しだけ風の向きが変わった。


頑張らなくていい感じ。


でも、三人は頑張ってきた。


何度も練習した。


何度も直した。


何度も合わせた。


頑張らなくていいように聞こえるまで、頑張ってきた。


それは伝わっているのだろうか。


natsuは、言葉にはしなかった。


言葉にしない代わりに、フルートケースを少し強く抱き直した。


自由時間の会場は、ゆっくりと動き始めていた。


ギターの出演者が、客席の横で短いフレーズを弾いている。


ハープの人が、それに合わせて、軽く二音だけ重ねる。


「いいですね」と誰かが笑う。


ボーカルの女性が、即興で一節歌う。


客席から、軽い拍手と笑い声。


さっきまでの静かな本編とは違う、少し外へ跳ねる反応だった。


そこへ、司会者が軽くマイクを持った。


「せっかくですので、もし出演者の方で、もう一曲、あるいは短いフレーズを弾いてくださる方がいれば、どうぞご自由に」


客席が、少しだけ期待を含んでざわついた。


「お、いいね」


「自由演奏?」


「こういう時間いいな」


「ReShiNa、もう一回聴きたい」


「さっきの“つくし”よかったよね」


「BGMでずっと流してほしい」


その声は小さい。


けれど、ステージ袖に戻っていたrenaには聞こえた。


BGMでずっと流してほしい。


まただ。


そう思ってしまった自分に、renaは少しだけ嫌気がさした。


悪口ではない。


むしろ、そう言ってもらえるのはありがたい。


なのに、その言葉を受け取るたびに、心のどこかが薄く削られていく。


自分が心の狭い人間になったような気がする。


感謝できない人間になったような気がする。


もっと素直に喜べばいい。


そう思うのに、喉の奥に冷たいものが残る。


「rena」


shihoが近くに来ていた。


「うん」


「大丈夫?」


renaは笑った。


「大丈夫」


その笑顔を見て、shihoは黙った。


大丈夫な顔ではなかった。


けれど、それを指摘する余裕はshihoにもなかった。


shiho自身も、さっきから胸の中に低い音が沈んでいる。


鳴らしていないのに、低音が残っている。


いつもの低音ではない。


もっと暗く、湿って、床の下に潜るような音。


「shihoこそ、大丈夫?」


renaが聞いた。


shihoは、少し遅れて頷いた。


「大丈夫」


natsuが戻ってきた。


「大丈夫が二つ」


shihoが言う。


「natsuは?」


「大丈夫じゃない風もある」


renaが少しだけ笑う。


「何それ」


「風が戻ってこない」


その言葉で、三人は少しだけ黙った。


風が戻ってこない。


音は渡した。


でも、戻ってこない。


拍手はある。


言葉もある。


褒められている。


でも、風が戻ってこない。


自分たちの音が誰かの中に入って、その人の熱になって、こちらへ返ってくる感じが薄い。


会場はあたたかい。


でも、戻ってこない。


司会者が、ステージの方から声をかけた。


「ReShiNaさん、もしよろしければ、一節だけでもいかがですか?」


客席がこちらを見る。


悪意はない。


期待だった。


あたたかい期待。


「つくし、もう一回でも」


「短くてもいいです」


「フルートだけでも聴きたい」


「癒し足りない」


「寝る前にほしい」


小さな笑いが起きた。


みんな、やわらかく笑っている。


その笑いは優しい。


会場全体が、ReShiNaを歓迎している。


それなのに、renaの背筋に冷たいものが走った。


癒し足りない。


寝る前にほしい。


フルートだけでも。


それは、ReShiNaの音を求めている言葉だった。


でも、renaには、別の何かに聞こえてしまう。


もう一度、静かにしてほしい。


もう一度、落ち着かせてほしい。


もう一度、場を整えてほしい。


そう言われているような気がしてしまう。


renaは、ギターケースの取っ手を握った。


強く。


「……少しだけ」


声が出た。


自分でも、思ったより低い声だった。


shihoがrenaを見る。


「rena?」


renaは客席の方を見たまま言った。


「少しだけ、違う曲にしていい?」


natsuが瞬きをする。


shihoの目が、わずかに細くなる。


「違う曲?」


renaは頷いた。


「うん」


shihoは、会場の方を一度見た。


自由にどうぞ、という空気。


あたたかい期待。


まだ、誰も危険だと思っていない。


shihoは静かに言った。


「今、明るい曲は無理」


renaは、小さく息を吐いた。


「うん」


「無理して明るくしたら、たぶん音が嘘になる」


「分かる」


natsuが、フルートケースを抱え直した。


「黒い花」


renaが振り返る。


「え?」


natsuは、客席ではなく、ステージの床を見ていた。


「雪の下。つくしじゃなかった」


shihoの眉がわずかに動く。


「……何があったの」


natsuは、少しだけ首を傾ける。


「百合」


その一言で、三人の間にあった空気が、すっと冷えた。


百合。


黒い花。


雪の下。


つくしじゃなかった。


さっきまで「つくし」を歌っていた。


足元の道。


一緒に歩いた記憶。


春の小さな希望。


その下に、別のものがあった。


黒い花。


まだ咲いていない。


でも、根を張っている。


renaは、ギターケースを開けた。


指先が少し冷たい。


でも、迷いは不思議と減っていた。


「じゃあ、やろっか」


shihoが少しだけ目を伏せた。


「黒百合?」


renaは、名前を聞いた瞬間、胸の奥が少し沈むのを感じた。


でも、嫌ではなかった。


「うん。夜だしね」


natsuが小さく頷いた。


「うん。もう、風が帰ってくることに期待したくないし」


shihoは、バスクラリネットのケースを開ける。


「期待しないんだ」


natsuは首を傾けた。


「期待すると、風が痛い」


shihoは、それを聞いて少しだけ笑った。


笑ったけれど、明るくはなかった。


「……すきに、やろう」


renaが言った。


その言葉は、客席に聞こえないくらい小さかった。


でも、三人には届いた。


すきに、やろう。


癒さなくていい。


綺麗にまとめなくていい。


前夜祭らしくなくていい。


BGMじゃなくていい。


安心させなくていい。


整えなくていい。


今、胸の奥にあるものを、そのまま音にする。


司会者が、やわらかく笑った。


「では、ReShiNaさん。自由にどうぞ」


自由にどうぞ。


その言葉に、客席が拍手をする。


期待の拍手。


あたたかい拍手。


ReShiNaは、ステージへ戻った。


renaはアコースティックギターを抱える。


shihoはバスクラリネットを持ったまま、今日は椅子に座らなかった。


natsuはローホイッスルを手にした。


フルートではない。


さっきまでのつくしの道ではない。


夜の庭に、息を落とす音。


客席は、嬉しそうに三人を見ている。


「もう一曲聴ける」


「やった」


「さっきの雰囲気よかったもんね」


「次も癒し系かな」


「寝ちゃいそう」


笑い声。


やわらかい期待。


それらが、ステージに上がる三人の背中に降る。


renaはマイクの前に立った。


「ありがとうございます」


声はいつも通り出た。


でも、少し低い。


「今から、短く」


それだけ言って、renaは一度目を伏せた。


曲名は言わなかった。


まだ、自分たちの中でも曲名になっていなかった。


でも、natsuの言葉が、もう名前を置いてしまっている。


黒い花。


百合。


黒百合。


natsuのローホイッスルが、最初に鳴った。


低く、遠く、暗い庭の奥から吹いてくるような音だった。


さっきまで客席を撫でていた風ではない。


庭の隅に沈んだ夜気。


人が見ない場所を通ってきた息。


それが、会場に流れた。


客席の笑いが、すっと止まる。


誰かが背筋を伸ばす。


誰かが、グラスに伸ばしかけた手を止める。


renaが歌い出した。


≫ 庭の隅で 黒百合の茎をまっすぐにして

≫ 指先に 落ちない滲みが残っていく

≫ 夜に触れた花びらは

≫ 何も言わずに 色だけ深くした


声は澄んでいた。


だからこそ、怖かった。


澄んだ水に、黒い墨が一滴ずつ落ちていくような歌い方だった。


客席の空気が変わる。


さっきまで「もう一曲聴ける」と笑っていた人たちが、口を閉じる。


「……さっきと違う」


誰かが小さく呟いた。


「これ、何?」


「黒百合って言った?」


「言ってない。けど、黒百合っぽい」


「夜の庭みたい」


shihoが低い音を置いた。


いつものように、床を支える音ではない。


床の下から、何かが起き上がってくる音。


暗く、重く、湿っている。


renaは続けた。


≫ 約束を増やすほど 別れが育つ

≫ だから最初から 余白を残した

≫ 笑い合った帰り道ほど

≫ 次の日が 怖くなる


最前列の女性が、目を伏せた。


さっき「寝る前に流したい」と言っていた女性だった。


今は、眠るどころではなかった。


目を閉じたら、もっと深いところへ落ちそうで、彼女は逆に目を開けた。


≫ 近づくたび 身構える癖も

≫ 逃げ道を作る その手つきも

≫ そんな煤ごと 味方にしてよ

≫ 隣に来てよ by my side


renaの声は、甘くなかった。


縋っているようで、突き放している。


来てほしい。


でも、近づきすぎないでほしい。


隣に来てほしい。


でも、飾るためなら来ないでほしい。


そういう矛盾が、声の中でほどけずに残っている。


shihoが応える。


彼女は歌というより、低い場所から言葉を置いた。


≫ きれいな言葉で囲わないで

≫ 守るふりして 形を決めないで

≫ 私は花じゃない

≫ 飾られるために 咲いたんじゃない


その瞬間、会場の空気が一段沈んだ。


「……えぐい」


誰かが囁いた。


「今の、刺さる」


「飾られるために咲いたんじゃない、って」


「前夜祭でこれ歌うの、すごくない?」


「これ、さっきの“癒し系”への返事みたいに聞こえる」


「いや、返事っていうか……もっと奥じゃない?」


shihoの声は、怒鳴っていない。


けれど、はっきりしていた。


冷たい低音の中に、静かな怒りがある。


でも、それは誰かを責めるだけの怒りではなかった。


自分を囲ってきたもの。


自分で選んだ沈黙。


自分で守った形。


それらへの怒りにも聞こえる。


Chorusに入る。


renaの声が前に出る。


shihoの低いハーモニーが、その下に重なる。


≫ 夜色の百合

≫ Encounter

≫ the fate between you and me


会場の照明が変わったわけではない。


でも、客席には夜の庭が見えたような気がした。


木の壁。


暗い床。


グラスの水滴。


それらが全部、庭の隅に置かれた黒百合のための景色に変わっていく。


≫ 優しいフリをして

≫ 何を奪ったの

≫ 滲む煤 めぐる fate

≫ 広がる傷は 見えるかな


客席の誰かが、息を呑んだ。


「優しいフリをして……」


「これ、きつい」


「でも分かる」


「分かりたくないのに分かる」


「傷、見えるかなって……」


ノートを持っていた男性は、ペンを動かせなかった。


書きたい。


でも、書くと逃げになる気がした。


今は、目の前で出てくるものを見なければいけない。


そう思ってしまった。


natsuのローホイッスルが入る。


低く、息が多く、遠い。


風というより、煙のようだった。


音が上がりきらず、夜の庭の中を這う。


「笛、怖い」


「さっきのフルートと全然違う」


「同じ人?」


「natsuさん、歌ってないのに、めちゃくちゃ喋ってる」


その声は、natsuにも届いた。


でも、natsuは反応しない。


返事の代わりに、少しだけ息を多く吹き込む。


音がかすれる。


そのかすれが、余計に胸をざらつかせる。


Verse2に入る。


≫ 切り分けた距離

≫ 踏み込まないで ここに

≫ 守ったつもりの境界線

≫ 戻る道なんて ないのに


renaの声は、まるで誰かに話しているようだった。


でも、その誰かが誰なのかは分からない。


客席か。


過去の自分か。


さっき「癒された」と言ってくれた人か。


それとも、自分たちに優しくしてくるすべてのものか。


≫ やりたいことをしたいだけ

≫ やりたいことができないだけ

≫ それだけのことが

≫ どうしてこんなに 罪みたいに見えるの


その一節で、客席の端の女性が泣き出した。


声を出さないように、片手で口元を押さえている。


隣の友人が驚いて見る。


「大丈夫?」


女性は首を振る。


大丈夫ではない。


でも、止めないでほしい。


そういう首の振り方だった。


やりたいことをしたいだけ。


やりたいことができないだけ。


それだけのことが、罪みたいに見える。


それは、彼女の中にもあった言葉だったのかもしれない。


ReShiNaの曲は、さっきまで癒しだった。


でも今は違う。


心を打つというより、心の表面を通り越して、柔らかいところを直接えぐってくる。


美しいから、逃げにくい。


声が澄んでいるから、嘘にできない。


shihoが応える。


≫ 溺れてみて

≫ 笑えるくらい

≫ 私が壊れる?

≫ 違うよね


shihoの声は低い。


でも、揺れている。


客席の中で、誰かが小さく「うわ」と言った。


≫ 壊れるのは

≫ あなたでいい

≫ これは終わりじゃない

≫ きっと プレリュード


「こわ……」


「でも、かっこいい」


「壊れるのはあなたでいい、って」


「さっきまでのReShiNaどこ行ったの」


「いや、これもReShiNaなんじゃない?」


「癒しの奥、こうなってたってこと?」


二度目のChorus。


今度は、少し強い。


暗いのに、芯がある。


≫ 夜色の百合

≫ A fate touched too lightly

≫ then forgotten


≫ 優しいフリをして

≫ 何を奪ったの

≫ 滲む煤 めぐる fate

≫ 広がる傷は 見えるかな


会場の空気は、もう完全に変わっていた。


自由時間ではない。


余興ではない。


短い追加演奏でもない。


何かが生まれてしまっている。


しかもそれは、予定された発表ではない。


けれど、ただの即興でもない。


歌詞も、音も、どこかで既に彼女たちの中にあったものが、この夜に絞り出されている。


リアルすぎる。


その場で作ったというより、その場で隠しきれなくなったように見える。


だから客席は動けない。


誰も軽く拍手を入れられない。


誰も「いいね」と笑えない。


shihoが、バスクラリネットを少し下ろした。


マイクに近づく。


ここからは、歌というより、低い詩だった。


≫ 近づくほどに 言葉が減って

≫ 大事なことほど 後回しで

≫ 壊れる前に 離れる選択

≫ それを賢さだと 呼んでいた


客席の数人が、明らかに息を止めた。


言葉が減る。


大事なことほど後回し。


壊れる前に離れる。


それを賢さと呼ぶ。


そういう心当たりを持つ人間は、多分、この会場に一人ではなかった。


shihoの声は続く。


≫ 守りたかったのは 関係じゃなく

≫ 傷つく可能性を 消す判断

≫ 壊れる前に離れる fate

≫ 守ったつもりで 壊していた mind


そこまで言った時、shihoの声がほんの少しだけ震えた。


ほんの少しだけ。


けれど、renaには分かった。


natsuにも分かった。


shihoが、自分の言葉に傷ついている。


それでも言う。


低音の人は、逃げずに下へ行く。


その言葉を、床の下へ埋めずに、会場へ出す。


renaが、そこを受け取る。


≫ でも私はもう

≫ その静けさを

≫ 優しさとは呼ばない


客席の空気が、さらに深くなる。


「それ……」


誰かが言いかけて、やめる。


その静けさを優しさとは呼ばない。


静かな音楽の夜。


Acoustic Night。


その場で、その言葉が出る。


誰かを直接責めているわけではない。


でも、会場そのものの空気に、黒い花が咲いたようだった。


natsuのローホイッスルが鳴る。


感情的に上がり、そして落ちる。


煙のように立ちのぼり、すぐに夜へ沈む。


natsuは歌わない。


でも、そのソロは、誰よりも雄弁だった。


言葉にならないところ。


風が戻ってこないところ。


期待すると痛いところ。


それを全部、低い笛で吹いている。


「natsuさん……」


客席の誰かが、名前を呼ぶように呟いた。


「歌ってないのに、今の一番しんどい」


「分かる」


「息が苦しい」


Final Chorus。


renaが前を見る。


もう笑顔はない。


けれど、泣いてもいない。


黒百合が咲く瞬間、花は泣かない。


ただ、色を深くする。


≫ 夜色の百合

≫ Encounter

≫ the fate between you and me


≫ 優しいフリをした

≫ その手の影まで

≫ 滲む煤 めぐる fate

≫ この傷は あたしの生き方


最前列の女性が、とうとう涙をこぼした。


手で押さえても、間に合わなかった。


彼女はたぶん、誰かに言われたことを思い出していた。


優しいフリ。


その手の影。


この傷は、あたしの生き方。


それは、綺麗な言葉ではない。


でも、綺麗な声で歌われるから、余計に逃げられない。


≫ 夜色の百合

≫ 触れないなら 見ていて

≫ 奪えないなら 忘れて

≫ それでも残る香りが

≫ 私の名前になる


会場のどこかで、また泣き声が漏れた。


今度は、隠しきれなかった。


短い嗚咽。


でも誰も振り向かなかった。


みんな、自分の中に落ちてきたものを処理するので精一杯だった。


「憧れるような苦しさ」


誰かが、ほとんど息だけで言った。


それは、奇妙な表現だった。


でも、その場にいた何人かは分かった。


苦しい。


でも目を離せない。


黒い。


でも美しい。


近づいたら傷つきそうなのに、近づきたくなる。


それは、心を打つというより、心をえぐるものだった。


最後に、renaの声が柔らかく落ちる。


≫ 庭に残した 黒百合は

≫ 触れないまま 季節だけを越えた


shihoが答える。


≫ 誰にも摘まれず

≫ 誰にも許されず

≫ それでも夜に 咲いている


natsuのローホイッスルが、最後に入る。


柔らかいのに、冷たい。


遠いのに、耳の奥に残る。


アコースティックギター。


やわらかなピアノの残響。


shihoの低い音。


natsuの息。


それらが、ゆっくりと消えていく。


最後の音は、解決しなかった。


終わった、というより、夜の庭に置いてきたような終わり方だった。


沈黙。


長い沈黙だった。


誰も、すぐには拍手しなかった。


どう反応していいか分からなかった。


さっきまでの自由時間の気軽な空気は、完全に消えている。


最初に手を叩いたのは、ノートを持っていた男性だった。


小さく。


一度。


それから、もう一度。


その音をきっかけに、拍手が少しずつ広がった。


でも、それは「つくし」の時の拍手とは違った。


あたたかい拍手ではない。


戸惑い。


畏れ。


見てはいけないものを見てしまった感覚。


それでも、見てよかったと思ってしまう感覚。


その全部が混じった拍手だった。


「すごい……」


「何だったの、今の」


「怖かった」


「でも、目が離せなかった」


「リアルすぎる」


「即興? いや、即興じゃないよね」


「でも今、生まれた感じした」


「泣くわ、こんなん」


「癒し系だと思ってたのに」


「ReShiNa、こんな顔あるの……」


「黒百合だ」


「黒百合、って感じする」


「さっき誰か言ってたよね」


「これ、ちゃんと音源にしてほしい」


「いや、音源にしたらまずい気もする」


「でももう一回聴きたい」


ざわめきは、前向きな熱狂ではない。


でも、確かに評価だった。


強い反応だった。


誰かが泣いている。


誰かが震えている。


誰かが、さっきまでのReShiNa像を頭の中で組み直している。


癒し。


静けさ。


BGM。


前夜祭にぴったり。


それだけではない何かが、いま出てしまった。


renaは、頭を下げた。


shihoも頭を下げる。


natsuは少し遅れて頭を下げた。


拍手は続いている。


でも、三人の胸の中で何かが決定的に変わってしまったことを、まだ誰も言葉にできなかった。


ステージを降りる時、renaの手は冷たかった。


shihoの指は、少し震えていた。


natsuは、ローホイッスルをケースに戻せないまま、ずっと床を見ていた。


自由時間は、まだ続いている。


けれど、会場の空気はもう戻らなかった。


誰かが、遠慮がちに別のギターを鳴らす。


でも、その音は少し上滑りした。


人々は、まだReShiNaの方をちらちら見ている。


癒しの三人組。


静かな音楽の三人組。


本戦前にぴったりの三人組。


その輪郭の奥から、別の何かが見えた。


黒い花。


黒い百合。


ReShiNa本人たちは、それを望んで見せたわけではなかった。


でも、出てしまった。


出てしまったものは、もうなかったことにはできない。


控室に戻ったあと、しばらく三人は何も言わなかった。


外では誰かが笑っている。


スタッフが片づけの相談をしている。


グラスの音がする。


でも、三人のいる場所だけが、少し違う夜になっていた。


renaが、ぽつりと言った。


「ごめん」


shihoがすぐに言った。


「謝らないで」


「でも」


「私も変わった」


natsuが言う。


「風も変わった」


renaは、二人を見た。


泣いてはいない。


まだ泣けない。


ただ、胸の奥で何かが黒く咲いている。


shihoが、静かに言った。


「今の、曲にする?」


renaは、答えられなかった。


natsuが、ローホイッスルのケースを撫でながら言った。


「もう、なってる」


その言葉に、renaは目を伏せた。


黒百合。


誰が先に言ったのか、もう分からない。


客席だったのか。


natsuだったのか。


自分の中だったのか。


でも、その名前はもう、胸の奥に落ちてしまった。


綺麗で、黒くて、触れたら戻れない花。


その夜、ReShiNaはまだ、自分たちがどこへ向かい始めたのか分かっていなかった。


ただ一つだけ分かっていた。


さっきまでの音には、もう戻れない。

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