4-3-2 Acoustic Night
SOUND SESSION 前夜祭 Acoustic Night の会場は、思っていたよりも客席が近かった。
天井は低い。
照明はやわらかい。
ステージと呼ぶには少しだけ控えめな段差の上に、マイクが三本、譜面台が二つ、椅子が一脚。
奥にはピアノ。
横には、ギター用のスタンド。
natsuが立つための空間だけが、少し広めに空いている。
客席には小さな丸テーブルが並んでいた。
グラスに入った氷が、からん、と鳴る。
誰かの小さな咳払い。
椅子を引く音。
スタッフが低い声で交わす確認。
どれも大きくはない。
この夜は、音を乱さないように作られている。
入口の横には、ポスターが貼られていた。
SOUND SESSION
Acoustic Night
本戦に先立つ、静かな音楽の夜。
フォーク。
アコースティック。
民族音楽。
弦の響き。
笛の旋律。
声。
その出演者欄に、ReShiNaの名前がある。
renaは、その文字をしばらく見ていた。
自分たちの名前が、そこにある。
それは嬉しかった。
ちゃんと呼ばれている。
ちゃんと並んでいる。
けれど、胸の奥に小さな硬さがあった。
嬉しい。
それは本当。
でも、少しだけ怖い。
「見すぎ」
後ろからshihoが言った。
renaは振り返った。
shihoはバスクラリネットのケースを片手に持っている。
黒髪はいつもより丁寧に整えられていた。
表情は落ち着いている。
ただ、目の奥だけが少し硬い。
「そんなに見てた?」
「ずっと」
「名前、あるね」
「ある」
shihoはポスターを見た。
それから、少しだけ視線を下げた。
「呼ばれてる」
「うん」
「聴いてもらえる」
「うん」
「今日は、それでいいことにしよう」
renaは少し笑った。
「しよう、なんだ」
「しないと、余計なこと考える」
「もう考えてる」
「私も」
二人は、同時に少しだけ笑った。
そこへ、natsuがふわっと現れた。
フルートケースを肩にかけている。
片手には紙コップ。
中身は水だった。
たぶん。
natsu本人は、水だと思っている顔をしていた。
「ここ、木の匂いする」
開口一番、natsuはそう言った。
renaが笑う。
「木?」
「うん。壁。あと、古い椅子。人の緊張も、少し木に染みてる」
shihoが客席の方を見る。
「緊張も木に染みるの?」
「染みるよ」
「そうなんだ」
natsuはポスターを見る。
「Acoustic Night」
「うん」
「前の日の夜」
shihoが言う。
「前夜祭だからね」
natsuは少し考えてから、ぽつりと言った。
「本番の前に、静かな音を置く夜」
renaは、その言葉に少しだけ反応した。
静かな音を置く夜。
綺麗な言い方だった。
でも、その綺麗さが、少しだけ胸に引っかかった。
shihoも何かを感じたのか、言葉を返さなかった。
natsuは、二人の沈黙に気づいたような、気づいていないような顔で、ステージの方を見た。
「今日は、風が少ないね」
「室内だから」
shihoが答える。
natsuは首を傾げた。
「室内でも風はあるよ」
「そうなの?」
「ある。人の息とか、グラスの音とか、緊張とか、言いたいことを飲み込む感じとか」
renaはステージを見た。
まだ誰も立っていない。
でも、そこにはもう何かがある。
音を待っている空気。
静かにしようとする客席。
乱さないように動くスタッフ。
大きな声を出してはいけないような、綺麗に整った沈黙。
「言いたいことを飲み込む風か」
renaが言うと、natsuはこくんと頷いた。
「今日は、ちょっと重い」
「重い?」
「みんな、静かにしようとしてる」
shihoは客席を見た。
開場して間もない客席には、少しずつ人が入ってきている。
年配の女性。
本戦目当てらしい若い二人組。
音楽関係者のような男性。
ノートを持った人。
配信で見たことがあるような、静かな音楽が好きそうな人。
客席はまだ埋まりきっていない。
けれど、すでに空気はできていた。
この場では、大きな声で笑わない。
この場では、音を邪魔しない。
この場では、静かに聴く。
そんな約束が、誰に言われるでもなく客席に降りている。
ありがたい。
本当にありがたい。
けれど、natsuの言う通り、少し重かった。
スタッフが近づいてきた。
「ReShiNaさん、リハーサルお願いします」
renaは顔を上げた。
「はい」
三人は楽器を持ってステージへ上がった。
短いリハーサルだった。
renaがアコースティックギターを軽く鳴らす。
会場の木の壁に、音がやわらかく当たる。
renaはマイクに声を乗せた。
高い声が、照明の下で薄く広がる。
shihoがバスクラリネットを構える。
低い音が一つ、床に落ちた。
ただ低いだけではない。
足元に、見えない地面ができるような音。
スタッフの一人が、思わず顔を上げる。
natsuがフルートを吹いた。
短い旋律。
音は壁に当たって、すぐには消えず、少しだけ会場を回った。
PA担当が音量を少し調整する。
「大丈夫です」
スタッフが言った。
「かなり綺麗です」
renaは微笑んだ。
「ありがとうございます」
かなり綺麗。
ありがたい言葉だった。
本当に、ありがたい。
でも、胸の奥のどこかが、少しだけ身構えた。
控室に戻ると、三人は今日のセットを確認した。
中心に置くのは、「つくし」。
何度も練習した曲だった。
合わせた回数も多い。
ただ優しいだけの曲ではない。
懐かしさ。
歩幅。
隣。
幼い頃は同じだったものが、少しずつズレていくこと。
それでも、足元に残っている道。
ReShiNaらしい、静かで、少し切なくて、でも最後に小さな希望がある曲。
そして今日は、そこに少しだけ挑戦を入れている。
日本語だけではない。
アイルランド語も、スコットランド・ゲール語も混ぜている。
正確に一つの文化圏へ揃えたわけではない。
わざと混ぜている。
同じ歩幅だったものが、それぞれ違う言葉を持ち始める。
同じ道を歩いていたはずなのに、知らない間に少しずつ違う空を見ている。
それでも、足元には同じつくしの道がある。
そのズレごと、曲にしたかった。
natsuが歌詞カードを覗き込んだ。
「今日、ここ好き」
renaが見る。
「どこ?」
natsuは一行を指す。
Linn, gan focal a rá
shihoが少し眉を動かす。
「そこ、歌うのはrenaでしょ」
「うん。でも好き」
「意味、分かってる?」
natsuは少し考えた。
「言わなくても、一緒にいる」
renaが笑う。
「だいたい合ってる」
shihoが言う。
「だいたいなんだ」
「だいたい。でも、natsuの解釈は好き」
natsuは少しだけ満足そうに頷いた。
shihoは、今度は別の行を見た。
Coisich sinn le chéile
「ここは?」
natsuが答える。
「ともに歩こう」
「それは書いてある」
「うん。だから分かる」
shihoは小さく笑った。
「そうね」
renaは歌詞カードを閉じた。
「大丈夫。今日は、ちゃんとやれる」
shihoはリードを確認しながら頷いた。
「やってきたから」
その言葉で、三人は少し黙った。
やってきた。
それは本当だった。
何度も練習した。
声の高さ。
息の位置。
shihoの低音が入るタイミング。
natsuのフルートが返事をする位置。
アコギの余韻が残りすぎないようにすること。
言葉を混ぜても散らからないようにすること。
歩幅の歌なのに、三人の歩幅が崩れないようにすること。
誰かと比べたいわけではなかった。
勝ちたいわけでもなかった。
ただ、自分たちの音を、自分たちで許せるものにしたかった。
だから、やってきた。
一生懸命に。
ストイックに。
丁寧に。
その事実だけは、三人とも疑っていなかった。
スタッフが控室のドアを叩いた。
「ReShiNaさん、お願いします」
renaは立ち上がった。
shihoがケースを持つ。
natsuがフルートを胸の前で持ち直す。
「行って、帰る」
natsuが小さく言った。
shihoが頷く。
「うん。行って、帰る」
renaは深呼吸した。
「行こう」
ステージ袖に立つと、司会者の声が聞こえた。
「続いては、透明な声、深い低音、風のようなフルートで独自の世界を描く女性三人組です」
透明な声。
深い低音。
風のようなフルート。
丁寧な紹介だった。
「SOUND SESSION 前夜祭 Acoustic Night。次は、ReShiNaです」
拍手。
三人はステージへ出た。
照明はやわらかかった。
客席の顔は、思っていたよりもよく見える。
最前列の女性。
ノートを持った男性。
本戦の出演者かもしれない若い二人。
端の方に座っている、静かに腕を組んだ人。
全員が、静かに見ている。
renaはマイクの前に立った。
「ReShiNaです」
自分の声が、会場に落ちる。
「今日は呼んでいただけて、とても嬉しいです」
嘘ではない。
本当に嬉しい。
「今日は、“つくし”という曲を演奏します」
客席が少しだけ反応した。
春の曲かな。
そんな空気が動く。
renaは続けた。
「同じ道を歩いていたはずなのに、いつの間にか歩幅が変わっていくことがあります」
shihoが静かにバスクラリネットを構える。
natsuがフルートを下げたまま、客席を見る。
「でも、足元には、昔一緒に歩いた道が残っている。そんな曲です」
renaは、少しだけ笑った。
「少し、いろんな言葉が混ざっています。アイルランド語も、スコットランド・ゲール語も。ひとつに揃えたというより、歩幅がずれていく感じごと、音に入れたくて」
客席の端で、ノートを持った男性が少し顔を上げた。
小さな声が聞こえる。
「へえ、混ぜてるんだ」
「ケルト系?」
「でも、つくしって日本の春だよね」
「面白いね。いろんなこと試してる曲なんだ」
「歩幅がずれていく感じで言葉も混ざるの、いいな」
renaは、その反応に少しだけ安心した。
拾ってくれている。
ただ綺麗な曲として流されているわけではない。
最初の音を鳴らす。
アコギが、会場にやわらかく広がる。
shihoの低音が、足元に影を作る。
natsuはまだ吹かない。
息だけを置く。
音になる前の風。
renaが歌い始めた。
≫ しゃがんで靴紐を結び直す
≫ 並ぶ つくし あの頃を思い出させる
客席の空気がすぐに変わった。
静かになる。
でも、冷たい静けさではない。
椅子に深く座る人がいる。
グラスを置く人がいる。
目を閉じる人がいる。
誰かが、小さく息を吐いた。
≫ 同じ目線で 同じ空気を吸って
≫ 同じこと習って 同じこと答えて
≫ 笑うタイミングまで 同じで
最前列の女性が、少しだけ目を細めた。
昔の誰かを思い出しているのかもしれない。
若い二人組の一人が、隣の相手をちらっと見た。
ノートを持った男性は、ペンを止めた。
書くより、聴く方を選んだようだった。
≫ Linn, gan focal a rá
その一節で、客席の端から小さな声が漏れる。
「今の、アイルランド語かな」
「たぶん。さっき言ってたよね」
「言葉なしで一緒に、みたいな感じ?」
「つくしでケルト混ぜるの、変だけど綺麗だな」
「挑戦してるね」
renaの声は揺れなかった。
けれど、胸の奥は少しだけ温かくなった。
挑戦してる。
そう受け取ってもらえるのは嬉しかった。
曲は進む。
≫ 同じことしてたはずなのに
≫ 背が伸びてから 少しだけ
≫ デコボコができた
≫ 先に行く日 立ち止まる日
≫ 黙る癖も それぞれ増えた
shihoのバスクラリネットが低く入る。
その低音は、懐かしさをただ甘くしない。
足元の土を思い出させる。
つくしが生える、まだ少し冷たい土。
春の曲なのに、浮かれきらない。
客席の何人かが、ゆっくり頷いている。
小さなコメントが、また聞こえた。
「この低い楽器、いいな」
「バスクラかな」
「声が上にあるから、下があると落ち着く」
「BGMとして流れてたらずっと聴けそう」
「作業中に流したい感じ」
その言葉は、悪意なく出た。
言った本人は、褒めている。
心地よいと言いたい。
ずっと聴けると言いたい。
shihoの音が会場に馴染んでいる、と言いたい。
でも、ステージ上のshihoには、その中の一部だけが細く残った。
BGMとして。
作業中に。
流したい。
ほんの小さな棘。
それでも、shihoの音は崩れなかった。
低音を、さらに丁寧に置く。
自分たちは練習してきた。
この音を、ここに置くために。
Chorusへ入る。
≫ 歩幅は確かめなくても
≫ 急ぎも遅れも気にしないって
≫ 気づけば、隣に影が並んでる
natsuのフルートが、そこに返事をする。
歌わない。
でも、歌っている。
renaの声の上を横切り、shihoの低音の隙間を抜けて、客席に薄く広がる。
会場の空気が少し緩んだ。
誰かが微笑む。
誰かが肩の力を抜く。
それは良い反応だった。
やさしい反応だった。
≫ Coisich sinn le chéile
≫ ともに歩こう!
≫ An rathad fo ar casan
≫ 足元には つくしの道だね
この部分で、数人が小さく体を揺らした。
大きく盛り上がるわけではない。
でも、曲に乗っている。
熱はある。
ただ、その熱は上に跳ねる熱ではなく、体温がゆっくり戻るような熱だった。
客席から、また声が漏れる。
「いいなあ、落ち着く」
「熱い曲じゃないけど、あったかい」
「本戦前にちょうどいいね」
「こういう曲あると、会場の空気がやわらかくなる」
「前夜祭っぽい」
renaは笑顔を保った。
声も乱れない。
でも、胸の奥で何かが少し沈んだ。
本戦前にちょうどいい。
会場の空気がやわらかくなる。
前夜祭っぽい。
それは褒め言葉。
分かっている。
分かっているのに、少しだけ遠くに置かれたような気がした。
Verse2に入る。
≫ いつの間にか 差ができた
≫ 隣にいる人も 変わった
≫ 揃ってたはずの影が 今日は少し遠い
曲の空気が少し深くなる。
懐かしさに、距離の痛みが混ざる。
客席はさらに静かになった。
静かにしようとしているのか。
聴いているのか。
受け取っているのか。
沈んでいるだけなのか。
ReShiNaには、まだその違いがよく分からない。
≫ 置いてかないでって 思うくせに
≫ 置いていったのは 私かもしれない
≫ どこで 歩幅を覚え直したんだろう
若い女性が、少し目元を押さえた。
隣の男性がそれに気づき、何か言いかけてやめた。
曲が続いているから。
その距離感が、歌詞と重なる。
客席の後ろから、小さな声。
「これ、幼なじみの曲?」
「友達にも聞こえる」
「恋愛じゃなくても刺さる」
「昔の同級生思い出すな」
「派手じゃないけど、ずっと聴ける」
派手じゃないけど、ずっと聴ける。
それも、褒め言葉だった。
悪意はない。
むしろ、かなり好意的だった。
でも、ReShiNaの胸には、それらが少しずつ違う形で積もっていく。
自分たちは、ちゃんと前に立っているのか。
それとも、誰かの記憶の背景に流れているのか。
その違いが、まだ分からない。
Bridgeへ入る。
≫ そろえるために 頑張ったわけじゃない
≫ 守るために 黙ったわけでもない
≫ ただ 並んだ記憶が 足元に残ってる
≫ 一人で歩けるのに 一人を選べない
shihoの低音が、ここで少しだけ強くなる。
主張するほどではない。
でも、支えるだけでもない。
足元に残る記憶を、少し重くする。
natsuは、その上に短いフルートを置く。
言いかけて、やめた言葉のような音。
客席が、また静かになる。
この静けさは悪くない。
悪くない。
けれど、ステージの上で、三人の呼吸が少しだけ重くなっていた。
Last Chorus。
renaは、声を少しだけ前に出した。
≫ いまでは 同じような人がいない
≫ 隣にいるのは だれ?
≫ それがダメじゃない
≫ だけど やっぱり特別なんだ
客席の空気が少し変わった。
ただ癒されているだけではない。
戻れないものへの痛みが出た。
ノートを持った男性が、何かを書いた。
最前列の女性は、ゆっくり頷いた。
若い女性は、隣の男性の袖を少しだけつまんだ。
≫ つくし
≫ 会いたくなる
≫ 今 君はどこにいるの?
そこに、natsuのフルートが入る。
歌ではない。
でも、呼びかけだった。
今、君はどこにいるの。
その問いに、風が返事を探しに行く。
客席から、小さなため息が漏れた。
「いいな……」
「癒される」
「なんか、ずっと流してたい」
「熱心に聴くっていうより、気づいたら包まれてる感じ」
「ライブで前のめりになる曲じゃないけど、好き」
「仕事終わりに聴きたい」
「本戦の前夜祭に合ってる」
熱心に聴く曲じゃない。
前のめりになる曲じゃない。
でも、好き。
それは正直な褒め言葉だった。
きっと、好意だった。
でも、renaの胸の奥に、また細い冷たさが積もった。
好き。
でも、前のめりではない。
好き。
でも、中心ではない。
そんなふうに聞こえてしまう。
そう聞こえてしまう自分を、renaは責めることもできなかった。
歌は続く。
≫ 歩幅はなんて気にしなくても
≫ そもそも何にも気にしてなくても
≫ 気づけば、隣に影が並んでた
三人の音が重なる。
renaの声。
shihoの低音。
natsuのフルート。
違う場所から出た三つの音が、同じ道の上に並ぶ。
≫ Coisich sinn le chéile
≫ ともに歩こう!
≫ An rathad fo ar casan
≫ 足元の つくしは 君たちと来た道
最後の音が、会場にやわらかく落ちた。
沈黙。
少し長い沈黙。
それから拍手。
大きくはない。
けれど、あたたかい。
丁寧で、深い拍手。
何人かは、少し遅れて手を叩き始めた。
曲の中から戻ってくるのに時間がかかったような拍手だった。
renaは頭を下げた。
shihoも頭を下げる。
natsuは、少し遅れて頭を下げた。
拍手の中で、renaは思った。
悪くなかった。
むしろ、よかった。
演奏はできた。
客席も聴いてくれた。
歌詞にも反応してくれた。
ケルト混合にも気づいてくれた。
「つくし」は届いた。
たぶん、届いた。
それなのに、胸の奥が痛い。
演奏後、司会者がステージに戻ってきた。
「ありがとうございました。ReShiNaさんでした」
拍手。
「いやあ、会場の空気が一気にやわらかくなりましたね」
客席から、同意するような小さな笑いが起きる。
「本戦前夜に、こういう音があるというのは、とても贅沢だと思います」
贅沢。
やわらかい。
本戦前夜。
renaは笑顔を崩さなかった。
shihoも、静かに頭を下げた。
natsuは、客席の奥を見ていた。
その目が、いつもより少しだけ遠い。
ステージを降りる途中、スタッフが声をかけてきた。
「本当に素敵でした」
「ありがとうございます」
renaは答えた。
「つくし、すごくよかったです。BGMとしてずっと流していたいくらいで」
その瞬間、shihoの指が、バスクラリネットのケースを少しだけ強く握った。
renaは笑った。
「ありがとうございます」
natsuは、スタッフをじっと見た。
スタッフは悪気なく笑っている。
本当に褒めている。
「会場が落ち着きました。次の出演者さんにも、いい流れで渡せそうです」
「そう言っていただけて嬉しいです」
renaは、丁寧に頭を下げた。
楽屋に戻るまで、三人はほとんど話さなかった。
壁の向こうから、次の出演者の音が聞こえてくる。
少し明るいギター。
客席の軽い手拍子。
笑い声。
ReShiNaの時とは違う、外へ跳ねる反応。
比べることではない。
ジャンルが違う。
曲の目的が違う。
客席の反応も違う。
分かっている。
分かっているのに、耳が勝手に比べてしまう。
控室に戻ると、natsuが最初に言った。
「風、渡した」
renaは顔を上げた。
「うん」
「でも、戻ってこなかった」
shihoは目を伏せた。
renaは、すぐに否定しようとした。
そんなことないよ。
ちゃんと拍手はあったよ。
聴いてくれていたよ。
そう言おうとした。
でも、言えなかった。
natsuの言葉が、少しだけ当たっていたから。
風は渡した。
でも、戻ってこなかった。
ReShiNaの音は、会場を整えた。
客席を癒した。
次の出演者へ、いい流れを作った。
でも、その風が自分たちのところへ熱として戻ってきた感覚は薄かった。
shihoが低く言った。
「BGMとして、だって」
renaは椅子に座った。
「褒めてくれてたよ」
「分かってる」
shihoは頷いた。
「悪意がないのも分かってる」
「うん」
「でも、痛い」
その言葉で、控室は少しだけ静かになった。
痛い。
誰かに傷つけられたわけではない。
でも、痛い。
だから余計に、どこへ置けばいいのか分からない。
natsuは、フルートケースを膝の上に置いていた。
いつものように、ぽやぽやとはしていない。
言葉は少ない。
でも、空気に沈んでいる。
二人の痛みが、natsuにも届いている。
一緒にいる以上、natsuだけ無傷でいられるはずがなかった。
「つくし、良かったよね」
renaが言った。
自分に言い聞かせるような声だった。
shihoは頷く。
「良かった」
natsuも頷いた。
「良かった」
「演奏も、崩れてない」
「うん」
「客席も聴いてくれた」
「うん」
「コメントも、悪くなかった」
「うん」
三人は、それぞれ頷いた。
それだけ事実を並べても、胸の奥の冷たさは消えなかった。
renaは、膝の上で手を握った。
「じゃあ、なんでこんなにしんどいんだろう」
誰も答えられなかった。
理由は分からない。
分からないまま、控室の空気だけが少しずつ重くなる。
natsuが、ぽつりと言った。
「つくし、寒いと出てこない?」
shihoが少し顔を上げた。
「春の植物だからね」
「じゃあ、下にいる」
renaがnatsuを見る。
「下?」
「雪の下」
natsuは、フルートケースを撫でた。
「まだ、出てないだけ」
その言葉に、renaの胸が少しだけ揺れた。
希望のようにも聞こえた。
でも、同時に、怖い言葉にも聞こえた。
雪の下にあるもの。
まだ出ていないもの。
それが本当に、つくしならいい。
春に伸びるものならいい。
でも、今の胸の奥にあるものは、もっと暗い形をしている気がした。
名前はまだない。
でも、根を張り始めている。
黒いもの。
花になる前の、黒い蕾。
renaは、それを口にしなかった。
shihoも何も言わなかった。
natsuも、それ以上は言わなかった。
壁の向こうで、次の出演者への拍手が起きている。
さっきより少し大きい。
少し明るい。
その拍手を聞きながら、三人は静かに座っていた。
Acoustic Nightは、失敗ではなかった。
むしろ、成功だった。
ReShiNaは丁寧に聴かれた。
必要とされた。
褒められた。
「つくし」も、ちゃんと届いた。
ケルトの言葉を混ぜた挑戦も、拾ってもらえた。
それでも、その夜、三人は静かに限界へ近づいていた。
誰かに突き落とされたわけではない。
誰かに否定されたわけでもない。
ただ、褒め言葉の形をした雪が、胸の奥に少しずつ積もっていった。
そして、その雪の下で。
まだ誰にも見えない黒い百合が、静かに根を伸ばしていた。




