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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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8/9

聖域の戸惑い、あるいは鏡の審判

 月曜日の朝。

 駅のホームに溢れる人々は、昨日まで私がいたあの青い水底の世界とは、あまりにかけ離れた「日常」をまとっていた。

 オフィスに到着し、いつものようにコーヒーを淹れ、パソコンを立ち上げる。画面に流れる無機質な数字やメールの文面を眺めながら、私の指先は時折、無意識に左手の甲を撫でていた。

 あそこで彼が触れた、確かな熱。

 

 あの日から、私たちのLINEはさらに密なものになっていた。

 朝の「おはよう」から始まり、昼休みにはランチの写真を送り合い、夜にはその日の些細な出来事を報告する。それは、かつての結婚生活でも味わったことのない、細やかで瑞々しい言葉のキャッチボールだった。

『麻衣さんの作った「彩り野菜の肉巻き」、本当に美味しそうですね。画面越しに香りがしてきそうです』

 夜、キッチンで作り置きの保存容器を並べながら、そのメッセージを受け取った。

 胸がキュッとなる。この、誰かに見せるためでも、褒められるためでもなく続けてきた私の「日常」を、彼はまるごと肯定してくれる。

(食べてほしいな……)

 その想いは、もはや誤魔化しようのないほど膨らんでいた。

 けれど、その後に続く一歩を想像した瞬間、私の心に冷たい霧が立ち込める。

「うちに、呼びたい」

 その言葉を口の中で転がしてみるが、どうしても飲み込めない。

 四十三歳、バツイチ。

 この年齢で男性を自分の部屋に招くことは、何を意味するのか。

 もし私が「私の料理、食べに来ませんか?」と誘えば、それは暗黙のうちに「その後の展開」を許可したことにならないだろうか。

 彼は誠実な人だ。体目当てで近づいてくるような人ではない。それは分かっている。

 でも、だからこそ怖いのだ。

 私は、バスルームの鏡の前に立った。

 お風呂上がりの、何の飾りもない、ありのままの自分。

 五年間、誰にも触れられていない私の身体。

 二十代の頃のような弾力はなく、重力に逆らえない曲線がそこにある。

 

(彼は、こんな私を抱きたいと思うのだろうか)

 もし、部屋に呼んで、美味しい料理を食べて、楽しくお話しして。

 それだけで、彼が「じゃあ、おやすみなさい」と帰っていったら?

 それはそれで、女としての敗北のような気がしてならない。私には、彼に「一線を越えたい」と思わせるほどの魅力がないのだと、残酷に突きつけられるようで。

 けれど、いざ彼が私を求めてきたとき、私は自分に自信を持って応えられるのだろうか。

 準備ができていない。

 心の準備も、身体の準備も。

 五年の空白は、私から「女であること」の滑らかさを奪い、代わりに「生活者」としての硬い殻を植え付けてしまった。

「……バカみたい」

 私は鏡の中の自分を睨みつけた。

 まだ正式に「付き合ってください」と言われたわけでもない。ただ一度デートをしただけで、何をこんなに先走っているのか。

 でも、大人の恋には、そんな明確な区切りなんてないことも知っている。

 空気で、視線で、あるいは部屋の湿度で。

 なし崩しに、けれど決定的に変わってしまう瞬間が、すぐそこまで来ていることを本能が察知していた。

 次の週末の約束を決めなければならない。

 私の指は、スマートフォンの画面の上で何度も止まった。

『今度は、私の家で夕食でもどうですか?』

 そう打っては、消す。

『週末、またどこか外でお会いしませんか?』

 そう打っては、また消す。

 外で会いたい。もっと彼の目を見たい。

 彼の瞳に映る私が、どんな顔をしているのか。

 居酒屋の時のような「暗い人」ではなく、水族館の時の「情熱的な人」でもなく、ただの私のことを、彼はどう見ているのか。

 もう一度外で会って、その「視線の熱量」を確かめてからでなければ、私の聖域であるこの部屋の扉を開けることはできない。

 翌日、スーパーの帰り道。

 私は、夕暮れ時の赤く染まった街を歩きながら、高瀬さんにLINEを送った。

『高瀬さん。今度の週末、もしよければ……少し静かな公園か、テラスのあるカフェでゆっくりお話ししませんか? まだまだ高瀬さんの「旅の話」の続き、聞きたいんです』

 送信。

 送ってから、ふっと溜息が出た。

 情けない自分。臆病な自分。

 でも、これが四十三歳の私の「誠実さ」なのだと思う。

 

 数分後、スマートフォンの震え。

『いいですね。ちょうど、最近見つけた眺めのいい公園があるんです。そこで、麻衣さんの「これからやりたいこと」の続きも、ぜひ聞かせてください』

 彼の返信は、いつも私の逃げ場を塞ぐことなく、優しく包み込んでくれる。

 抱きたいと思われる魅力があるかどうか、そんな不安にさいなまれる私を、彼はいつも「言葉」で抱きしめてくれているのかもしれない。

 私は夜のキッチンに戻り、また無心に包丁を握った。

 いつか、この料理を彼に食べてもらう日のために。

 そしていつか、この硬い殻を彼に脱がせてもらう日のために。

 私はもう少しだけ、自分という輪郭を丁寧に整えていこうと思った。

 四十三歳の夜は長い。

 けれど、かつてのような冷たい静寂ではない。

 そこには、週末の風を待つ、微かな熱が確かに宿っていた。


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