聖域の戸惑い、あるいは鏡の審判
月曜日の朝。
駅のホームに溢れる人々は、昨日まで私がいたあの青い水底の世界とは、あまりにかけ離れた「日常」を纏っていた。
オフィスに到着し、いつものようにコーヒーを淹れ、パソコンを立ち上げる。画面に流れる無機質な数字やメールの文面を眺めながら、私の指先は時折、無意識に左手の甲を撫でていた。
あそこで彼が触れた、確かな熱。
あの日から、私たちのLINEはさらに密なものになっていた。
朝の「おはよう」から始まり、昼休みにはランチの写真を送り合い、夜にはその日の些細な出来事を報告する。それは、かつての結婚生活でも味わったことのない、細やかで瑞々しい言葉のキャッチボールだった。
『麻衣さんの作った「彩り野菜の肉巻き」、本当に美味しそうですね。画面越しに香りがしてきそうです』
夜、キッチンで作り置きの保存容器を並べながら、そのメッセージを受け取った。
胸がキュッとなる。この、誰かに見せるためでも、褒められるためでもなく続けてきた私の「日常」を、彼はまるごと肯定してくれる。
(食べてほしいな……)
その想いは、もはや誤魔化しようのないほど膨らんでいた。
けれど、その後に続く一歩を想像した瞬間、私の心に冷たい霧が立ち込める。
「うちに、呼びたい」
その言葉を口の中で転がしてみるが、どうしても飲み込めない。
四十三歳、バツイチ。
この年齢で男性を自分の部屋に招くことは、何を意味するのか。
もし私が「私の料理、食べに来ませんか?」と誘えば、それは暗黙のうちに「その後の展開」を許可したことにならないだろうか。
彼は誠実な人だ。体目当てで近づいてくるような人ではない。それは分かっている。
でも、だからこそ怖いのだ。
私は、バスルームの鏡の前に立った。
お風呂上がりの、何の飾りもない、ありのままの自分。
五年間、誰にも触れられていない私の身体。
二十代の頃のような弾力はなく、重力に逆らえない曲線がそこにある。
(彼は、こんな私を抱きたいと思うのだろうか)
もし、部屋に呼んで、美味しい料理を食べて、楽しくお話しして。
それだけで、彼が「じゃあ、おやすみなさい」と帰っていったら?
それはそれで、女としての敗北のような気がしてならない。私には、彼に「一線を越えたい」と思わせるほどの魅力がないのだと、残酷に突きつけられるようで。
けれど、いざ彼が私を求めてきたとき、私は自分に自信を持って応えられるのだろうか。
準備ができていない。
心の準備も、身体の準備も。
五年の空白は、私から「女であること」の滑らかさを奪い、代わりに「生活者」としての硬い殻を植え付けてしまった。
「……バカみたい」
私は鏡の中の自分を睨みつけた。
まだ正式に「付き合ってください」と言われたわけでもない。ただ一度デートをしただけで、何をこんなに先走っているのか。
でも、大人の恋には、そんな明確な区切りなんてないことも知っている。
空気で、視線で、あるいは部屋の湿度で。
なし崩しに、けれど決定的に変わってしまう瞬間が、すぐそこまで来ていることを本能が察知していた。
次の週末の約束を決めなければならない。
私の指は、スマートフォンの画面の上で何度も止まった。
『今度は、私の家で夕食でもどうですか?』
そう打っては、消す。
『週末、またどこか外でお会いしませんか?』
そう打っては、また消す。
外で会いたい。もっと彼の目を見たい。
彼の瞳に映る私が、どんな顔をしているのか。
居酒屋の時のような「暗い人」ではなく、水族館の時の「情熱的な人」でもなく、ただの私のことを、彼はどう見ているのか。
もう一度外で会って、その「視線の熱量」を確かめてからでなければ、私の聖域であるこの部屋の扉を開けることはできない。
翌日、スーパーの帰り道。
私は、夕暮れ時の赤く染まった街を歩きながら、高瀬さんにLINEを送った。
『高瀬さん。今度の週末、もしよければ……少し静かな公園か、テラスのあるカフェでゆっくりお話ししませんか? まだまだ高瀬さんの「旅の話」の続き、聞きたいんです』
送信。
送ってから、ふっと溜息が出た。
情けない自分。臆病な自分。
でも、これが四十三歳の私の「誠実さ」なのだと思う。
数分後、スマートフォンの震え。
『いいですね。ちょうど、最近見つけた眺めのいい公園があるんです。そこで、麻衣さんの「これからやりたいこと」の続きも、ぜひ聞かせてください』
彼の返信は、いつも私の逃げ場を塞ぐことなく、優しく包み込んでくれる。
抱きたいと思われる魅力があるかどうか、そんな不安に苛まれる私を、彼はいつも「言葉」で抱きしめてくれているのかもしれない。
私は夜のキッチンに戻り、また無心に包丁を握った。
いつか、この料理を彼に食べてもらう日のために。
そしていつか、この硬い殻を彼に脱がせてもらう日のために。
私はもう少しだけ、自分という輪郭を丁寧に整えていこうと思った。
四十三歳の夜は長い。
けれど、かつてのような冷たい静寂ではない。
そこには、週末の風を待つ、微かな熱が確かに宿っていた。




