琥珀色の扉、初めての味
水族館を出ると、品川の街はすっかり夜の帳に包まれていた。
先ほどまでの青い幻想的な世界とは対照的に、駅へと向かう人々の群れや街灯の光、ビルの窓から漏れる無数の生活の灯火が、現実の重みを突きつけてくる。
けれど、私の左手には、まだあのクラゲの前で触れ合った高瀬さんの手の残熱が、消えない火種のように残っていた。
「麻衣さん、実は……この近くに、転勤してきてからずっと気になっているお店があるんです。でも、そこ、少し路地裏にあって、外から見るとすごく雰囲気が良くて。……僕みたいな男一人がお酒も飲まずに入るには、少しだけ気恥ずかしくて、半年間ずっと素通りしていたんです」
高瀬さんは少し照れくさそうに、けれど期待に満ちた瞳で私を見た。
「もしよければ、今日、その扉を一緒に開けてくれませんか?」
「……そんなふうに言っていただけるなんて。ぜひ、ご一緒させてください」
辿り着いたのは、入り組んだ路地裏にひっそりと佇む、木の扉が印象的な小さなお店だった。
真鍮の取っ手がついた重厚な扉の横には、小さな黒板に手書きのメニューが書かれている。控えめな照明に照らされたその店構えは、派手さはないけれど、確かなこだわりを感じさせる「大人のための隠れ家」そのものだった。
高瀬さんが少し緊張した面持ちで扉を開ける。
中に入ると、柔らかな琥珀色の照明と、ハーブとガーリックが混じり合った食欲をそそる芳醇な香りが私たちを迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
店主に案内されたのは、壁際の小さなテーブル席だった。
高瀬さんは周囲を興味深そうに見渡し、それから私に向き合って、ほっとしたように息をついた。
「よかった。想像していた通り、……いや、それ以上に落ち着く場所ですね。一人で勇気を出して入らなくて正解でした。今日は麻衣さんと来られて、本当に嬉しい」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。彼にとっての「初めて」の場所に、私が選ばれたこと。それが、どんな高価なプレゼントよりも私の自尊心を浸した。
お酒が飲めない彼は、自家製のジンジャーエールを。私はそれに合わせて、同じノンアルコールのスパークリングを頼んだ。彼と同じ目線で、この未知の味を体験したいと思ったからだ。
「僕は、食べるのが大好きなんです。お酒を飲まない分、舌で味わうことに集中したくて。旅先でも、地図に載っていないような小さな食堂を回るのが趣味でして」
運ばれてきた前菜を前に、高瀬さんの瞳が少年のように輝く。
彼は一口ごとに、その料理に使われているスパイスの隠し味や、野菜の切り方による食感の違いについて、楽しそうに、けれど深く語ってくれた。モロッコの市場で見かけたスパイスの山の話。北海道の雪深い村で見つけた、力強い大地の味がするジャガイモ料理。
彼の語る食の記憶は、そのまま彼が孤独の中で大切に育んできた、彩り豊かな人生の断片だった。
「高瀬さんの話を聞いていると、自分がどれだけ狭い世界で生きていたか痛感します。私なんて、会社と家の往復ばかりで……。週末も、一人分の作り置きを無心で作るくらいしか、楽しみを見つけられなかったから」
私は、自分が抱えていた「停滞感」を、気づけば包み隠さず吐露していた。
「作り置き、いいじゃないですか。それは自分を大切にしている、立派な仕事ですよ」
高瀬さんは、フォークを置いて私をじっと見つめた。
「誰かのために作る料理もいいけれど、自分のために丁寧に火を通す。それは、自分の人生を、自分の身体を、投げ出していないということです。麻衣さんが以前、料理をして無心になれたと話してくれた時……僕は、その静かな強さに惹かれたんです」
心臓が、また不規則なリズムを刻む。
私は彼に、自分の情けない部分も、年齢への焦りも、まるで長年連れ添った親友に話すかのように、素直な言葉で伝えられていた。
四十三歳。これから体は衰えていくだけだし、仕事も定年までのカウントダウン。どこか「余生」を生きているような心地がしていたこと。
自由は手に入れたけれど、その自由が時々、あまりにも広すぎて迷子になってしまうこと。
「不安ですよね。僕も、ふとした瞬間に『このまま一人で、誰にも気づかれずに消えていくのかな』って考えることがあります。わがままで選んだ一人きりの道だけど、その代償の重さに足がすくむ夜もある」
高瀬さんはジンジャーエールのグラスを回しながら、少しだけ寂しげな、けれど澄んだ表情を浮かべた。
「でもね、麻衣さん。僕は最近、こう思うようにしているんです。『明日は、今日よりも一つだけいいことがあるはずだ』って」
「明日は、今日よりも?」
「そう。大きな変化じゃなくていい。新しい美味しいお店を見つけるとか、読んでいる本に感動するとか、あるいは……こうして麻衣さんと、もっと深い話ができるようになるとか」
彼は悪戯っぽく笑い、私の目を見つめた。
「昨日までの僕は、麻衣さんと水族館へ行く今日を、このお店の扉を開ける今夜を楽しみにして生きてきた。そして今の僕は、明日麻衣さんにどんなメッセージを送ろうか、それを楽しみにしている。それだけで、人生は捨てたもんじゃないと思いませんか?」
その言葉が、私の凝り固まった心を、ゆっくりと、けれど力強く解きほぐしていった。
未来を「下り坂」だと決めつけていたのは、他ならぬ私自身だ。
けれど、目の前のこの人は、不確かな明日の中に、小さな光を見出そうとしている。
「……高瀬さん。私、こんなに自分の気持ちを素直に言葉にできたの、本当に久しぶりです。元夫にも、誰にも言えなかったようなことが、どうしてあなたには言えてしまうんでしょう」
「それはきっと、僕たちが同じ『痛み』と『静寂』を知っているからかもしれませんね」
デザートのアフォガートが運ばれてくる頃には、私たちの間には、言葉以上の濃密な空気が流れていた。
初めてのお店で、新しい味に出会い、心を通わせる。
それは、失われていた私の「生」の輪郭が、鮮やかな色を持って蘇る瞬間だった。
お店を出ると、夜風はさらに冷たくなっていた。
品川駅の改札口。別れの時間が近づいている。
人混みの中で立ち止まり、高瀬さんは私に向き合った。
「麻衣さん。今日は本当に、ありがとうございました。……半年間、勇気が出なくて入れなかったあのお店の味、一生忘れないと思います。一人で食べる夕食よりも、何倍も美味しかった。……もしよければ、また近いうちに、麻衣さんの『作り置き』の話を聞かせてくれませんか?」
それは、遠回しな、けれどこの上なく誠実な「次」への約束だった。
「ええ。私も……今度は高瀬さんに、私の料理の感想を聞いてもらいたいって、生意気なことを考えてしまいました」
「それは最高の楽しみだ。じゃあ、明日は今日よりもいい日になりますね」
改札を通る彼の背中を見送りながら、私は自分の胸に手を当てた。
そこには、冷たい静寂ではなく、微かな、けれど確かな「希望」という名の熱が宿っていた。
帰りの電車の中。
私は、窓に映る自分の顔を見た。
朝、あんなに不安げに鏡を見つめていた四十三歳の女は、今、ほんの少しだけ口角を上げて、明日という日を待っている。




