風の通る場所、視線の温度
週末、二人が向かったのは都心の緑豊かな高台にある公園。青空の下、テラス席で交わされる会話は、前回の「夜の闇」の中とはまた違う透明感を持っていく。麻衣は、高瀬がふいに見せた「男の顔」に息を呑む。そして、会話の中で高瀬が口にした「理想の二人」という言葉。それは、麻衣の閉ざしていた扉をこじ開ける決定的な一言だった――。
麻衣の「女としてのプライド」と「年齢による不安」の葛藤を、非常に濃密に描き出しました。
次章、いよいよ外での再会を経て、二人の関係は「言葉」を超えたステージへと向かいます。
第九章:翳りゆく週末、見えないノイズ
金曜日の午後、オフィスに差し込む西日はどこか残酷なほど明るかった。
デスクの隅に置いたスマートフォンの画面が、短い振動と共に光る。高瀬さんからのLINEだ。
きっと、「明日は何時にどこで?」という、待ちきれない想いが詰まったメッセージに違いない。私はほんの少しだけ口角を上げ、周囲に悟られないよう、そっと画面をスワイプした。
けれど、そこに並んでいたのは、私の期待を無惨に引き裂く言葉の羅列だった。
『麻衣さん、本当に、本当に申し訳ありません。明日の公園での約束ですが、どうしてもキャンセルさせていただけないでしょうか』
心臓が、冷たい水に浸されたように縮み上がる。
読み進めると、そこには彼の痛切なまでの謝罪と、不測の事態が綴られていた。
『明日は会社のイベントでバーベキューがあったことを、麻衣さんとの約束が楽しみすぎて、完全に失念していました。幹事の後輩から確認が来て初めて気づき、一度は断ったんです。でも、上司から「次の大きなプロジェクトのメンバーが全員集まるから、ここで親睦を深めておかないと今後の動きに響くぞ」と強く言われてしまい……。転勤してきたばかりの身として、どうしても断り切れませんでした。僕の不徳の致すところです。本当に、ごめんなさい』
私は、スマートフォンの画面を見つめたまま、しばらく身動きが取れなかった。
指先が微かに震える。
怒りではない。それは、自分の「特別さ」が、会社の「業務」という抗いようのない大義名分に負けたことへの、言いようのない無力感だった。
『お仕事ですもの、仕方がありません。気になさらないでくださいね。バーベキュー、楽しんできてください』
画面を叩く指は、驚くほど事務的な言葉を選んでいた。
四十三歳の分別。
ここで「嫌だ」「私を優先して」と言えるほど、私は若くないし、愚かでもない。けれど、物分かりの良い大人の仮面を被れば被るほど、仮面の下の素顔は醜く歪んでいく。
*
翌日の土曜日。
本来なら、今頃は新しいラベンダー色のワンピースに袖を通し、鏡の前で微笑んでいたはずだった。
けれど今の私は、色褪せたスウェット姿で、薄暗いリビングのソファに深く沈み込んでいる。
高瀬さんは今頃、河川敷かどこかの緑地で、賑やかな喧騒の中にいるのだろう。
お酒が飲めない彼のことだ。きっと、甲斐甲斐しく肉を焼き、誰かのグラスに烏龍茶を注いでいるに違いない。
ふと、高瀬さんが言っていた「幹事の後輩」という言葉が、トゲのように胸に刺さった。
夕方、高瀬さんから一枚の写真が届いた。
『現場はこんな感じです。麻衣さんと静かに過ごしたかったな、と肉を焼きながら考えています』
その写真には、炭火の上で弾ける肉や野菜と共に、数人の男女が笑いながら写っていた。
その中で、高瀬さんのすぐ隣に座り、太陽のような満面の笑みを浮かべている一人の女性がいた。
ショートボブの似合う、快活そうな女性。
麻衣よりは明らかに若く、けれど大学生のような幼さはない。
三十二、三……いや、三十代後半といったところだろうか。
彼女は、高瀬さんの腕に自分の腕を軽く触れさせながら、トングを手にした彼に何かを耳打ちしている。
その距離感の近さに、私は息が止まりそうになった。
(……この人が、幹事の「後輩」?)
ほどなくして、高瀬さんの会社のFacebookグループが公開されているのを、私は執念に近い執着で見つけ出した。
彼女の名前は「和久井奈々子」。三十七歳。
私の六歳下。
三十七歳という年齢は、四十三歳の私にとって、残酷なまでに「可能性」に満ちた数字に見えた。
まだ出産を望めるかもしれないし、肌のハリも、未来への楽観も、私よりはずっと多く持ち合わせているはずだ。
彼女なら、バーベキューの場で高瀬さんとビールを(彼は飲めないけれど)楽しそうに酌み交わし、屋外の開放的な空気の中で、彼の「男としての本能」を刺激することができるかもしれない。
私はキッチンへ向かった。
予定のなくなった週末を埋めるように、無心に包丁を動かす。
今日の作り置きは、小松菜の浸しと、筑前煮。
いつも通り、丁寧に出汁を引き、野菜の角を取る。
けれど、出来上がった料理をタッパーに詰めながら、私は虚しさに襲われた。
(私は、こんなことをしていて何になるんだろう)
暗いキッチンで、冷めていく筑前煮を眺める。
高瀬さんは、奈々子さんのような若々しくて活動的な女性に囲まれている。
一方の私は、静かな部屋で、一人分の地味な和食を作っている。
彼が私に抱いた興味なんて、ほんの一時の、酔狂な「癒やし」に過ぎなかったのではないか。
水族館の青い闇の中で、手を重ねたあの瞬間も。
ビストロの琥珀色の照明の下で、未来を語り合ったあの言葉も。
この「三十七歳」という鮮烈な現実を前にすれば、すべてがセピア色の幻影のように霞んでいく。
「……こんな私を、彼が抱きたいなんて思うわけがない」
独り言が、冷たいシンクに響いた。
和久井奈々子。彼女はきっと、迷わずに彼を自分の部屋へ誘い、その健康的な身体で彼を魅了するだろう。
四十三歳の私が、鏡の前で一時間も悩んで出した「慎み」や「戸惑い」なんて、彼女の放つ一瞬の輝きの前では、古臭い道徳のように切り捨てられてしまう。
その夜、高瀬さんから「今、帰宅しました。麻衣さんの声が聞きたいです」とLINEが来た。
いつもなら、すぐに通話ボタンを押していただろう。
けれど、私はスマートフォンを裏返した。
声を聞けば、私はきっと「あの女性は誰?」と聞いてしまう。
そんな嫉妬に狂った醜い自分を、彼に見せるわけにはいかなかった。
一度火がついた不安は、止まることを知らない。
暗い寝室で横になりながら、私は昨日までの「幸福」が、どれほど脆い地盤の上に立っていたかを痛感していた。
四十三歳の恋には、もう「無条件の肯定」なんて存在しない。
常に誰かと、あるいは「かつての自分」と比べられ、磨り減っていく。
和久井奈々子という影が、私の心の中の「高瀬」という居場所を、少しずつ奪っていく足音が聞こえるようだった。
眠れない夜の淵で、私は自分の冷えた足を抱えた。
彼に、私の料理を食べてもらえる日は、本当に来るのだろうか。
それとも、この作り置きが傷んで捨てられる頃には、彼はもう、私の知らない誰かの隣で笑っているのだろうか。
週末の静寂は、死を予感させるほどに深く、重かった。




