鏡の中の迷子、キッチンの微熱
週末の夜に交わした、あの一時間の長電話。
その余韻が消えないうちに届いた高瀬からのLINEが、麻衣の日常をさらに激しく揺さぶった。
『来週末ですが、もしよろしければ品川の水族館はどうでしょう。あそこは夜になると照明が落とされて、とても静かなんです。魚たちを眺めながらなら、ゆっくりお話しできるかと思いまして』
水族館。
その提案に、麻衣は思わず口元を緩めた。遊園地や映画館ほど騒がしくなく、レストランほど対面に緊張を強いられない。横に並んで、同じ景色を見ながら歩く。彼の選ぶ場所には、いつも「対話」への敬意と、麻衣への配慮が感じられた。
『素敵ですね。ぜひ伺いたいです』
そう返信したものの、送信ボタンを押した直後から、麻衣の心には「楽しみ」を上回るほどの「焦燥」が波のように押し寄せた。
「……何を着て行けばいいの?」
クローゼットを開けると、そこには「佐伯麻衣」という女性の歴史が整然と並んでいた。
平日の戦闘服である、ネイビーやベージュのテーラードジャケット。アイロンの効いた白いシャツ。そして、かつて結婚生活を送っていた頃に「妻」として着ていた、無難で主張のない膝丈のスカートたち。
どれも清潔で、社会人として正しい。けれど、今の麻衣が求めている「高瀬の隣に並ぶ自分」には、どれも決定的に何かが足りなかった。
四十三歳。
若作りに見えてもいけない。かといって、老けて見えるのも論外だ。
気合が入りすぎていると思われたくないけれど、適当に済ませたとも思われたくない。
麻衣は次々と服を引っ張り出しては鏡に合わせ、そして落胆してベッドに投げ出した。
「これじゃ仕事帰りみたい。……こっちは、なんだか顔色がくすんで見える」
鏡に映る自分を、これほどまでに執拗に観察したのはいつ以来だろう。
目尻の乾燥、頬のわずかな緩み。かつては気にならなかった細部が、水族館の青い照明の下でどう映るのかを想像すると、背筋が寒くなった。
(新しい服を、買いに行こう)
決意したのは平日の昼休みだった。
週末まで待てない。今のままの自分では、彼に会う資格がないような、そんな強迫観念に駆られていた。
仕事帰りのデパート。華やかな照明と、若々しい店員たちの視線が痛い。
以前の自分なら「私は私だから」と、堂々と振る舞えたはずなのに。今の麻衣は、まるで初めて恋を知った少女のように、自分の容姿に自信が持てずにいた。
試着室の中で、麻衣は一枚の淡いラベンダー色のワンピースを身に纏った。
シルク混の柔らかな生地が、体を優しく包む。
「お客様、とてもお似合いですよ。お肌のトーンが明るく見えます」
店員のお決まりの台詞も、今の麻衣には福音のように聞こえた。
お化粧はどうしよう。アクセサリーは?
高瀬は、何に気づいてくれるだろうか。
いや、そもそも彼は、私の服装なんて気にするタイプなのだろうか。
買い物袋を下げて帰宅した麻衣を待っていたのは、いつもの静まり返った部屋だった。
けれど、クローゼットには新しい服が。そして心には、週末へのカウントダウンが灯っている。
*
翌日の夜。麻衣はいつものように、キッチンに立っていた。
今日の作り置きは、彩り豊かな野菜の肉巻きと、出汁をたっぷりと含ませた高野豆腐の煮物。
包丁の音が、トントントンと軽快に響く。
(高瀬さんに、食べてもらいたいな……)
ふいに、そんな想いが指先から溢れそうになる。
彼が言っていた、お酒が飲めないという言葉。それなら、家庭的で優しい味付けの料理が合うかもしれない。
彼は何を美味しいと思うだろうか。
私の作る「出汁の味」を、彼は気に入ってくれるだろうか。
けれど、同時に戸惑いも頭をもたげる。
いつか食べてもらえる日が来るなんて、期待していいのだろうか。
私たちはまだ、一度しか会っていない。
お互いの「欠落」を確認し合っただけの、バツイチ同士。
また、元夫の時と同じように、いつかはこの料理の味に飽きられ、私の存在そのものが「当たり前」という名の透明な背景に変わってしまうのではないか。
火を止め、鍋から立ち上がる湯気を眺める。
料理をすることは、麻衣にとっての愛情の表現だ。
けれど、その愛情が重荷にならないだろうか。
この年での恋愛は、一歩間違えれば「生活感」という名の重力に引きずり下ろされてしまう。
その夜、麻衣はなかなか眠りにつけなかった。
目を閉じると、水族館の大きな水槽の前で、青い光に照らされた高瀬の横顔が浮かぶ。
彼はどんな服装で来るだろう。
いつものスーツではなく、カジュアルな装いの彼。
想像するだけで、心臓の奥がキュッと締め付けられる。
スマートフォンに手が伸びる。
彼からの連絡はない。
昨日、映画の感想を送ったきりだ。
返信が来ないのは、彼も忙しいからだろうか。それとも、私にそれほど興味がないのだろうか。
そんなネガティブな思考が、深夜の静寂の中で増幅していく。
(私、おかしいわ。たった一回のデートで、こんなに一喜一憂して)
四十三歳の分別。
それは、傷つくのを避けるための盾だったはずだ。
けれど、その盾を捨ててでも、彼の心の近くに行きたいと願っている自分を、麻衣は否定できなかった。
窓の外、夜明けの気配が忍び寄る。
冷えた空気を吸い込み、麻衣は深く溜息をついた。
週末まで、あと三日。
期待と、不安と、ほんの少しの勇気。
それらを抱えたまま、彼女は浅い眠りの中へと落ちていった。
夢の中で、彼女は広い海の底にいた。
隣には、誰かがいる。
その温もりだけが、暗い水底で唯一の道標だった。




