真夜中のスクリーン、重なる独白
四月の終わり、夜の帳が下りるのが少しずつ遅くなってきた。
佐伯麻衣の日常は、ここ一週間で劇的な変容を遂げていた。といっても、誰かを目に見えて生活の中に招き入れたわけではない。ただ、仕事から帰り、手早く作り置きの夕食を済ませた後の「一人の時間」の質が変わったのだ。
部屋の明かりを落とし、間接照明だけを灯す。
テレビの前に座り、高瀬から送られてきた「映画リスト」のPDFをスマートフォンで開く。
そこには、彼が愛した物語たちが、彼自身の言葉を添えられて並んでいた。
『第一夜:もしお疲れでなければ、この静かなフランス映画から始めてみてください。台詞は少ないですが、光の使い方がとても雄弁なんです』
彼が薦めてくれたのは、一九六〇年代の古いヌーヴェルヴァーグ作品や、北欧のひっそりとした単館系映画、あるいは日本の古いモノクロ映画だった。自分一人では、サブスクリプションの膨大な海の中で、決してクリックすることのなかったであろうタイトルばかりだ。
今夜、麻衣が選んだのは、ある海辺の街を舞台にしたモノクロ映画だった。
画面の中で、名前も知らない俳優たちが、寄せては返す波のように淡々と言葉を交わす。
(映画を、こんなに「真剣に」観るのは初めてかもしれない……)
これまでの麻衣にとって、映画やドラマは「消費」するものだった。家事の合間に流し読みしたり、寂しさを紛らわすためのBGM代わりにしたり。内容を完璧に把握しなくても、なんとなく結末が分かれば満足していた。
けれど、今は違う。
このシーンを高瀬はどう見たのだろう。彼は解説の中で「窓辺の影が、主人公の迷いを表している」と書いていた。その一節を思い出しながら画面を凝視すると、確かに、ただの暗がりだと思っていた影が、深い感情の澱のように見えてくるから不思議だ。
一本観終えるごとに、麻衣の心には、これまで使ってこなかった新しい筋肉を動かした後のような、心地よい疲労感と高揚感が残った。
観終えた直後の熱が冷めないうちに、彼女はスマートフォンを手に取る。
『三本目の「青い部屋」、観終えました。高瀬さんが書いていた「沈黙の音」という意味が、最後の一分でようやく分かった気がします。主人公が何も言わずにコートを羽織るシーン。あの時の、布が擦れる音。あんなに悲しい音があるなんて知りませんでした。私ならきっと、あそこで何か言葉を吐き出して、台無しにしてしまっていたと思います。』
送信ボタンを押してから、少しだけ呼吸を整える。
かつての結婚生活では、夫と一緒に映画を観ることもあった。けれど、夫はいつも途中で飽きてスマートフォンをいじり始めたり、「意味が分からない」と笑い飛ばしたりしていた。麻衣もそれに合わせ、「そうだね、ちょっと難解すぎたね」と、自分の心に芽生えた小さな感動を無理やり握りつぶしていた。
けれど、高瀬は違った。
『麻衣さんの「布が擦れる音」という着眼点、凄く素敵ですね。僕は視覚的なことばかりに気を取られていましたが、確かにあのシーンの音響は、言葉以上の絶望を物語っていました。麻衣さんの感想を読んで、僕ももう一度観返したくなりました。視点が新鮮で、僕の方が勉強になります。』
高瀬からの返信は、いつも麻衣の言葉を肯定し、さらに広げてくれるものだった。
自分とは違う、けれどどこか響き合う視点。
文字のやり取りを重ねる中で、麻衣は高瀬という人間の輪郭を、映画のキャラクターを解析するように少しずつ、丁寧に理解していった。
彼はわがままで離婚したと言っていたけれど、それはきっと、自分の感性に嘘をつけない誠実さの裏返しだったのではないか。そんな想像を巡らせる時間は、どんな贅沢なエステよりも、麻衣の心を潤していった。
一週間、毎日一本。
映画を観ることは、高瀬の心の深淵を覗くことと同義だった。
七本目を観終えた金曜日の夜。時刻は二十二時を回っていた。
ふいに、スマートフォンが震えた。
メッセージの通知ではない。着信だ。
画面には「高瀬」の二文字。
麻衣は思わず跳ね起き、乱れた髪を無意識に手櫛で整えた。相手に見えるわけではないのに、背筋が伸びる。
「……もしもし」
『夜分にすみません。高瀬です。……今、大丈夫でしたか?』
受話器越しに聞く彼の声は、居酒屋の喧騒の中で聞いた時よりも、ずっと深く、耳元に直接響いた。少しだけ、はにかんだような吐息が混じっている。
「はい、大丈夫です。ちょうど今、リストの最後の映画を観終えたところだったので」
『ああ、タイミングが良かったです。……映画、どうでしたか?』
そこから、どちらからともなく映画の話が始まった。
文字のやり取りも楽しかったが、声に乗せられる熱量は格別だった。
一人が寂しいと思っていた、あの冷たい部屋。
けれど、スマートフォンのスピーカーから漏れる彼の声が、空気の粒子を温めていく。
「高瀬さんのリストのおかげで、この一週間、なんだか別の世界にいたみたいです。仕事中も、あ、あのシーンの続きはどうなるんだろうって考えてしまって」
『ふふ、それは嬉しいな。僕も、麻衣さんから届く感想が楽しみで、仕事の合間に何度もチェックしてしまったんですよ。……実は、僕もこの年で、こんなに誰かと熱心に物語について話せるなんて思っていなかった。』
話は映画から、お互いの子供時代の思い出、今の仕事の悩み、そして、少しだけ過去の結婚生活の話へと移り変わっていった。
驚いたのは、高瀬が麻衣の話を遮ることなく、最後の一滴まで掬い上げるように聴いてくれることだった。
「……ごめんなさい、私ばかり話しちゃって。男の人と、こんなに長く電話するなんて、もう何年振りか分からないくらいで」
『いや、僕こそ。もっと聴いていたいと思ってしまって。麻衣さんの声は、落ち着きます。……あ、もう一時間以上経ってますね。すみません、引き止めてしまって』
一時間。
元夫とは、十年一緒にいても、これほどまでに「言葉」が通じ合った実感はなかった。
何を話したかではなく、どう感じたかを共有できる喜び。
それは、失われていた感情の回路が、バチバチと音を立てて再接続されていくような感覚だった。
「あの……高瀬さん」
『はい?』
「リストの映画、全部観終えてしまったので……次は、高瀬さんの「生の声」で、感想を聞きたいです」
沈黙。
心臓が耳元で鳴っている。
やりすぎた、と後悔しかけたその時、電話の向こうで高瀬が小さく笑った。
『そうですね。……僕も、直接お会いして話したいです。……来週末、もしお時間が合えば、どこかでお会いしませんか?』
電話を切った後も、麻衣はしばらくスマートフォンを握りしめたまま、ベッドに横たわっていた。
天井を見つめる。
つい二週間前まで、ここはただ眠るだけの場所だった。
けれど今は、明日という日が、そして来週末という未来が、指先に触れられるほど近く、熱を持って存在している。
四十三歳の恋愛。
それは、若者のような爆発力はないかもしれない。
けれど、一本の映画を丁寧に読み解くように、一通のLINEの行間を慈しむように。
ゆっくりと、けれど確実な足取りで、麻衣は新しい人生のプロットを書き進めようとしていた。
窓の外、夜の静寂に、遠くで電車の走る音が聞こえる。
明日はスーパーで何を買い、何を作ろうか。
そんな些細な日常のディテールが、今の麻衣には、たまらなく愛おしく感じられた。




