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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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キッチンに灯る、微熱のレシピ

 スマートフォンの画面が、暗い部屋の中で青白く光っている。

 深夜零時過ぎ。高瀬から届いた一通のLINE。

『今日は楽しい話をありがとうございました。無事に帰れましたか? 例のリスト、今度整理して送りますね。おやすみなさい。高瀬』

 麻衣はベッドの上で、その短い文面を何度も読み返していた。既読をつけるべきか、それとも明日の朝まで待つべきか。指先が画面の上で、迷子のように泳ぐ。

(今返したら、待っていたみたいで恥ずかしいかしら。でも、無視するのも失礼よね……)

 四十三歳にもなって、何を学生のようなことで悩んでいるのかと、自分がおかしくなる。離婚してからの五年間、こうした「駆け引き」のような感情からは遠く離れていた。元夫との関係が冷え切ってからは、連絡事項は事務的なものばかりだったし、その後に知り合った男性たちとも、心が動く前に「効率」を優先して距離を置いてきた。

 けれど、高瀬という男は、麻衣の心の、一番奥にある「触れられたくないけれど、誰かに見つけてほしい場所」に、土足ではなく、静かに、そして正確に指先を触れてきたような気がする。

「私、こんな性格だったかな……」

 結局、その夜は「無事に帰宅しました。おやすみなさい」という素っ気ない、けれど精一杯の返信を送るだけで精一杯だった。スマートフォンの電源を切り、枕元に伏せる。心臓の音が、いつもより少しだけ速い。

 翌朝、目覚めると外は快晴だった。

 通勤電車の窓から見える景色が、昨日よりも少しだけ鮮やかに見える。

 昼休み、スマートフォンをチェックすると、高瀬から返信が来ていた。

『おはようございます。今日も暑くなりそうですね。お仕事、無理せず頑張ってください』

 何てことのない挨拶。けれど、その「今日も」という言葉が、彼と自分の時間が繋がっていることを証明しているようで、麻衣の唇に小さな笑みがこぼれた。

 午後からの仕事は、驚くほど捗った。

 これまでは、ただ「こなす」だけだったルーチンワーク。けれど、心のどこかで高瀬とのやり取りを報酬のように感じている自分に気づく。

(このまま、何も変化のない生活を続けていちゃいけない気がする)

 ふと、自分の生活を振り返る。

 一人の自由を謳歌しているつもりだったが、実態はどうだったか。

 夕食はコンビニのサラダと、賞味期限ギリギリの納豆。あるいは、適当なパスタで済ませる。掃除も週末にまとめてやるだけ。お洒落も、会社で浮かない程度の「無難」を制服のように着回している。

「自由」とは、自分を甘やかすことではなく、自分を律して慈しむことではなかったか。

 退社後、麻衣はまっすぐ駅ビルの中にあるスーパーへと向かった。

 いつもなら、総菜コーナーへ直行するところだが、今日は真っ先に野菜売り場へと足を運ぶ。

 瑞々しいナス、深い緑のピーマン、真っ赤に熟したトマト。かつて、結婚生活を送っていた頃、麻衣は料理が好きだった。誰かのために、栄養を考え、彩りを整える。その時間が好きだったはずだ。いつから、自分のためにその手間を惜しむようになってしまったのだろう。

 カゴの中に、新鮮な食材を次々と入れていく。

 鶏の胸肉、彩りのパプリカ、香りの良いミョウガ。

 気づけば、カゴは両手で持つほど重くなっていた。

 帰宅し、部屋着に着替えると、麻衣は髪をきゅっと一つに束ねた。

 エプロンを締める。このエプロンを出すのも、数ヶ月ぶりかもしれない。

 キッチンのカウンターに食材を並べ、無心に包丁を動かし始める。

 トントントン、と規則正しい音がリズミカルに響く。

 ナスの揚げ浸し、鶏肉とパプリカのマリネ、ひじきの煮物。

 週末を楽にするための「作り置き」だが、今はその作業自体が、自分の荒んだ心を整えていく儀式のようだった。

(もし高瀬さんと、いつか一緒に食事をすることがあったら)

 そんな妄想が頭をよぎり、麻衣は慌てて首を振った。

(何考えてるの。まだ一度会っただけじゃない。バカみたい、私)

 けれど、期待は止められない。

 コンロで鍋がコトコトと音を立てる間、麻衣は何度もキッチンの隅に置いたスマートフォンの画面をチラリと見た。

 通知は来ない。

 彼は今、何をしているだろうか。まだ仕事だろうか。それとも、彼もまた自分の部屋で、趣味の映画でも観ているのだろうか。

「期待しすぎは、毒よね」

 独り言を呟きながら、ミョウガを細かく刻む。

 ミョウガの爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。

 かつて元夫に「ミョウガなんて、あってもなくてもいいのに」と言われたことを思い出した。彼は、麻衣が料理にかける細やかなこだわりを、あまり理解してくれなかった。

 高瀬さんなら、どう言うだろう。

 あの時、アイスランドの空気を「青い」と表現した彼なら、この香りの繊細さを分かってくれるのではないだろうか。

 一時間ほど集中して料理を作ると、キッチンには四つの保存容器が並んだ。

 彩り豊かな料理。それは、麻衣が自分自身の人生を、もう一度肯定しようとした証のようにも見えた。

 最後に余ったナスをつまみ食いしてみる。出汁がよく染みていて、驚くほど美味しかった。

 その時。

 ピコン、と短い通知音が鳴った。

 濡れた手をタオルで拭き、焦る気持ちを抑えて画面を開く。

『お疲れ様です。約束のリストを作ってみました。少しマニアックかもしれませんが、週末の夜にでも眺めてみてください』

 続いて、PDFのファイルが送られてくる。

 麻衣は、保存容器の並ぶキッチンに立ったまま、そのファイルを開いた。

 そこには、映画のタイトル、製作年、そして高瀬らしい短いけれど愛のこもった解説が、丁寧に書き込まれていた。

 最後の行には、こうあった。

『もし、この中で気になるものがあれば、今度感想を聞かせてもらえませんか?』

 心の中に、温かな出汁がじわりと染み渡るような感覚があった。

 麻衣は、さっき作ったばかりのナスの揚げ浸しの写真を撮り、彼に送ろうとして、一度指を止めた。

(……やっぱり、これはまだ早すぎるかな)

 結局、写真は送らずに。

『ありがとうございます。素敵なリストで、週末が楽しみになりました。私も今、料理を作っていたところなんです。久しぶりに、無心になれました』

 そう送った。

 窓の外には、都会の夜景が広がっている。

 五年前、離婚を決めた夜に見た景色と同じはずなのに、今の麻衣には、街の明かりの一つひとつに、誰かの「生活」と「体温」が宿っているように見えた。

 寂しいと思っていた一人きりの夜。

 けれど、画面の向こうに誰かがいると思うだけで、この静寂は「孤独」から「平穏」へと姿を変えていく。

 麻衣は、自分でも気づかないうちに、鼻歌を歌いながらキッチンを片付け始めていた。

 四十三歳の恋愛。

 それは、激しい雷雨ではなく、しとしとと降り続く、けれど大地を深く潤す雨のように始まるのかもしれない。

 次に彼に会う時。

 私は、今よりも少しだけ、自分を好きな私でいたい。

 冷蔵庫を閉める音と共に、麻衣の新しい日常が、確かな音を立てて動き出した。


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