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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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凪の静寂(しじま)と、小さな予兆

 四月の終わり、夕暮れ時のオフィスは、窓から差し込む斜光が埃のダンスを黄金色に染め上げていた。

 佐伯麻衣さえき まいは、デスクの端に置かれたカレンダーをぼんやりと眺める。四十三歳、独身。いや、「バツイチ」という記号がついてから、五年の月日が流れた。

 十年の結婚生活。それは、激しい争いや裏切りがあったわけではない。ただ、ゆっくりと、しかし確実に、二人の間に流れる空気が希薄になっていったのだ。

「明日、何食べる?」

「何でもいいよ」

 そんな会話が、いつしか「明日、何時に帰る?」という確認作業になり、最後にはそれすらも消えた。

 互いに自分の足で立ち、自分の人生を歩める能力があったからこそ、「なぜ私たちは一緒にいるのだろう」という疑問が、一度芽生えると止まらなくなった。お互いが一人になれば、もっと自分らしく、もっと自由に、人生を謳歌できるのではないか。

 話し合いは驚くほど円満だった。泣き叫ぶことも、食器を投げることもなく、まるで賞味期限の切れた調味料を整理するように、二人は離婚届に判を押した。

「じゃあ、元気で」

 区役所の前で別れた元夫の背中は、記憶の中で今も優しく、どこか寂しげだ。彼は決して悪い人ではなかった。ただ、二人の「時間」が、同じ場所で重なり続ける理由を見失っただけだった。

 離婚してからの五年間、麻衣は会社に通いやすい新しい街にマンションを借り、自分だけの帝国を築いた。

 インテリアは全て自分の好みで統一し、金曜の夜には誰に気兼ねすることなく、少し高いワインを開け、配信映画に没頭した。自由だった。羽が生えたように身軽だった。

 けれど、自由という名の果実は、時が経つにつれて少しずつその瑞々しさを失っていく。

 四十三歳。ふとした瞬間に鏡を見る。目尻の笑い皺、少しだけ下がった口角。自分一人で生き抜く覚悟はできている。けれど、深夜、ふいに目が覚めた時に感じる部屋の静寂が、以前よりも「冷たく」感じるようになっていた。

 元夫は、いい人だったな。

 そう思うことはあっても、よりを戻したいわけではない。あの場所に戻ったところで、また同じ「酸素の薄い部屋」に閉じ込められるだけだ。

 麻衣が求めているのは、過去への回帰ではなく、見たことのない「何か」なのだと、自分でも気づき始めていた。

 *

「佐伯さん、今日の飲み会、顔出せる?」

 課長の声に、麻衣は現実に引き戻された。今日は取引先のITコンサルティング会社との親睦会だ。あまり乗り気ではなかったが、立場上、断るのも角が立つ。

「ええ、伺います。場所はいつものところですよね」

 会場は、少し小洒落た個室居酒屋だった。

 ビールやハイボールが運ばれ、形式的な乾杯が交わされる。麻衣は適当に相槌を打ちながら、サラダを取り分け、円滑なコミュニケーションという名の「仕事」をこなしていた。

 その時、ふと視界の端に、一人の男性が映った。

 取引先側の末席に座る男。年は麻衣と同じくらいだろうか。

 彼は、賑やかな喧騒の中にいながら、まるですりガラスの向こう側にいるように静かだった。自分から話の輪に入るわけでもなく、薄笑いを浮かべてグラスを眺めている。

(暗そうな人……)

 それが、麻衣が抱いた彼への第一印象だった。社交的なことが美徳とされるこの手の場において、彼の沈黙はどこか異質で、場を白けさせているようにも見えた。

 中盤、麻衣が化粧直しのために席を立ち、数分後に戻ってくると、自分の座っていた場所には別の同僚が座り込み、相手方の担当者と熱心に議論を交わしていた。

 空いているのは、あの「暗そうな男」の隣だけだった。

 麻衣は心の中で小さくため息をつき、極めて事務的な笑みを浮かべて彼の隣に腰を下ろした。

「すみません、お隣、失礼しますね」

「あ、はい。どうぞ」

 彼は小さく会釈をしただけで、やはり何も話してこない。

(なんなの、この人。接待の場だって分かってるのかしら)

 沈黙に耐えかねた麻衣は、少し挑戦的な気持ちで声をかけた。

「……お酒、進んでいないようですが、お口に合いませんか?」

 すると彼は、困ったように眉を下げて、手元の烏龍茶を見つめた。

「すみません。僕、お酒が全く飲めない体質で。こういう賑やかな場所、実はあまり得意じゃないんです。雰囲気を壊していたら申し訳ない」

 その声は、意外なほど低く、穏やかだった。

「そうだったんですか。それなら、無理に出席しなくても良かったのでは?」

「転勤してきてまだ半年でして。顔を売っておけと上司に言われて……。あ、申し訳ありません。高瀬と言います」

 高瀬と名乗った男は、照れくさそうに名刺を差し出した。

 話を聞けば、彼は麻衣と同い年の四十三歳。そして、彼もまた「バツイチ、子なし」だという。

「どうして離婚されたんですか?」

 初対面で聞くには無作法な質問だったが、お酒の勢いと、彼の飾らない雰囲気が麻衣の口を滑らせた。

 高瀬は少し考える仕草をしてから、苦笑した。

「僕が、わがままだったんだと思います。自分の世界を大事にしすぎて、相手を置いてきぼりにしてしまった。気づいた時には、もう修復できない距離になっていました」

 その言葉に、麻衣の胸が小さく震えた。理由こそ違えど、行き着いた先は自分と同じだ。

 そこからの会話は、驚くほど弾んだ。

 暗い人だという先入観は、数分で霧散した。

 高瀬は、多趣味だった。長期休暇には一人で海外の秘境を旅し、週末はボルダリングで汗を流し、雨の日は一日中、古いミステリー小説を読みふけるという。

「この前行ったアイスランドは、空気が青いんですよ。本当に、ただの青じゃなくて、染みるような……」

 彼が語る旅の情景は、まるで目の前に景色が広がるように鮮やかで、麻衣はいつの間にか、身を乗り出して聞き入っていた。

 彼は決して自分の知識をひけらかすわけではない。ただ、自分が愛しているものを、愛おしそうに言葉にしているだけだった。

「麻衣さんは、何をしている時が一番楽しいですか?」

 高瀬にそう問われ、麻衣は絶句した。

 自分の楽しみ。そんなもの、この五年間の「自由」の中で、見つけられていただろうか。ただ、空いた時間を埋めていただけではなかったか。

「私……。最近は、ただゆっくりお酒を飲んでいるくらいで。何かに夢中になるなんて、忘れていました」

「それはそれで贅沢な時間ですよ。でも、もし良かったら今度、僕の好きな映画のリスト、送ります。きっと、麻衣さんの好みに合うと思う」

 気づけば、お開きの時間になっていた。

 店を出ると、夜風が火照った頬に心地よく当たった。

「あ、高瀬さん」

 麻衣は、自分でも驚くほどのスピードでスマートフォンを取り出していた。

「もしよければ、LINE……交換しませんか? さっきのリスト、気になって」

 自分から男性を誘うような真似をしたのは、一体いつ以来だろう。心臓が早鐘を打つのを感じる。

 高瀬は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにあの穏やかな笑みを浮かべた。

「喜んで。僕も、もっとお話ししたいと思っていました」

 帰りのタクシーの中。車窓を流れる街の光を眺めながら、麻衣は自分の手が少し震えていることに気づいた。

 何やってるの、私。

 四十を過ぎて、初対面の男の人に自分から連絡先を聞くなんて。

 しかも相手は仕事の取引先だ。冷静になれば、リスクしかない。

 けれど、彼と話している時の自分は、確かに「四十三歳の佐伯麻衣」ではなく、ただの「麻衣」に戻っていた気がした。

 マンションにつき、静まり返った部屋に入る。

 コートを脱ぎ、メイクを落としていると、スマートフォンの通知音が鳴った。

『今日は楽しい話をありがとうございました。無事に帰れましたか? 例のリスト、今度整理して送りますね。おやすみなさい。高瀬』

 鏡の中の自分が、少しだけ赤らんでいる。

 翌朝、目覚めても、彼への興味は冷めるどころか、より深く、重く、胸の奥に居座っていた。

 この歳で、恋愛?

 また、あの「すれ違い」を繰り返すだけじゃないの?

 友達でいれば、傷つかずに済む。

 でも、彼みたいな魅力的な人なら、すぐに新しい誰かが現れるかもしれない――。

 朝のコーヒーを淹れる手の手元が、少しだけ狂った。

 凪のように静かだった麻衣の日常に、小さな、けれど抗いようのない波紋が広がり始めていた。


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