ブルー・モーメントの、深呼吸
その日は、目覚まし時計が鳴る一時間前に目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中は青みがかった薄闇に包まれている。枕元のスマートフォンに目をやると、午前五時三十分。昨夜はあんなに寝付けなかったのに、意識は驚くほど冴えわたっていた。
今日、私は高瀬さんに会う。
その事実が意識の表層に浮かび上がった瞬間、心臓がトクン、と大きく跳ねた。
這い出すようにベッドを抜け出し、まずは白湯を飲む。胃の腑が温まるのを待ちながら、洗面台の鏡の前に立った。
朝一番の、飾り気のない四十三歳の顔。
この数日間、いつもより念入りに保湿を重ね、マッサージをしてきた成果だろうか、肌の調子は悪くない。けれど、これから始まる「儀式」を思えば、今の自分はまだ未完成のキャンバスに過ぎなかった。
基礎化粧品を、指先の熱で押し込むように馴染ませていく。
いつもなら五分で終わるメイクに、今日はその三倍の時間をかけた。
ファンデーションは厚塗りにならないよう、けれど隠したい影は光で飛ばすように。アイラインの一ミリの角度、マスカラの塗り残しがないか、何度も何度も鏡を近づけて確認する。
(やりすぎかな……。でも、薄すぎて「手抜き」だと思われるのはもっと怖い)
そんな葛藤と戦いながら、先日新調したラベンダー色のワンピースに袖を通す。
シルクの滑らかな感触が肌を滑り、背筋が自然と伸びる。アクセサリーは、主張しすぎないパールのピアスと、細いゴールドのブレスレットを選んだ。
鏡の前で右へ左へと体を捻り、ウエストのライン、裾の揺れ方を確認する。
「……よし」
小さく呟いてみるが、不安は消えない。
四十三歳の女性が、ここまで着飾ることは「恥ずかしい」ことではないだろうか。
高瀬さんは、私のこうした「努力」に気づいてくれるだろうか。
いや、そもそも男性という生き物は、女性の服の色やアクセサリーの微細な変化など、それほど興味がないのではないか。
かつての結婚生活では、髪を十センチ切っても、新しい服を買っても、元夫がそれに気づくことはほとんどなかった。
「あ、そういえば何か変わった?」
数日経ってから投げかけられる、そんな無頓着な言葉に、何度心を削られたことだろう。
品川駅の待ち合わせ場所に到着したのは、約束の三十分も前だった。
改札付近は、休日を楽しむ家族連れや若いカップルで溢れかえっている。その喧騒の中に身を置いていると、自分がひどく場違いな場所に立っているような錯覚に陥った。
スマートフォンを何度も確認するが、彼からの連絡はまだない。
(早く着きすぎちゃった。……落ち着かない)
思考が混乱し、足元がふわふわと浮いているような感覚。
誰かを待つという時間が、これほどまでに長く、もどかしいものだということを、私はいつの間にか忘れてしまっていた。
その時だった。
人混みの向こうから、一人の男性が歩いてくるのが見えた。
ネイビーの柔らかなアンコンジャケットに、センタープレスの効いた細身のグレーパンツ。足元は清潔感のあるレザースニーカー。
高瀬さんだ。
居酒屋で会った時の「大人しい男性」という印象は、良い意味で裏切られた。
立ち姿は洗練されていて、年齢よりもずっと若々しく見える。けれど、首元から覗くシャツの襟元や、時計の選び方には、大人の男性らしい細やかなこだわりが感じられた。
「……麻衣さん」
私の前に立った高瀬さんは、少しだけ目を見開いた。
その瞳が、私の頭の先から足元までを、慈しむように、けれど確かに捉えたのを私は見逃さなかった。
「お待たせしました。……すみません、随分早くからいらしてたんじゃないですか?」
「いえ、私も今着いたばかりで」
ありきたりな嘘をつく私の言葉を、彼は柔らかい笑みで受け流した。
「……今日の麻衣さん、とても素敵ですね」
心臓が、耳元で鳴るような音がした。
「そのワンピースの色、麻衣さんの肌の色にとてもよく合っています。……僕、今日の格好、麻衣さんのオシャレに釣り合ってますか? 少し心配だったんです」
彼は少しだけ照れくさそうに、自分のジャケットの裾を直した。
嬉しさが、喉の奥までせり上がってくる。
見てくれていた。
私が迷いながら選んだ色を、鏡の前で重ねた時間を、彼はその一言で肯定してくれた。
「……高瀬さんこそ、すごく爽やかで。いつもより、ずっと若く見えます」
「あはは、本当ですか? 気合を入れて選んだ甲斐がありました」
二人は、どちらからともなく歩き出した。
目指すのは、駅のすぐそばにある水族館。
チケットを買い、中へ入ると、そこは外の喧騒が嘘のような別世界だった。
照明が落とされ、深い青色の光が満ちている。
一人なら、絶対に訪れることのなかった場所。
離婚してからの五年間、私はこうした「非日常」を、どこか避けて生きてきたのかもしれない。一人で楽しむ術は身につけたけれど、誰かと感動を共有するというコストを、恐れていたのだ。
けれど今、隣を歩く高瀬さんの気配を感じながら、私はかつてないほど心が満たされていくのを感じていた。
「見てください、あのクラゲ。光を透かして、まるで映画のワンシーンみたいだ」
高瀬さんが水槽を指差す。
その指先が、一瞬だけ私の腕に触れそうになり、また離れていく。
水槽の青い光に照らされた彼の横顔は、居酒屋で見た時よりもずっと深く、優しく見えた。
(ああ……私、本当に嬉しいんだ)
四十三歳のバツイチ。会社員。
そんな記号を脱ぎ捨てて、ただ一人の女性としてこの青い闇の中に溶けていく。
高瀬さんと出会わなければ、私は一生、キッチンで作り置きの料理を作りながら、静かに「自由」を消費して終わっていたかもしれない。
「麻衣さん?」
彼が覗き込むように声をかけてくる。
「……はい、本当に綺麗ですね」
私は微笑みながら、深く息を吸い込んだ。
水族館の少し冷えた、けれど潤んだ空気が、肺の奥まで満ちていく。
今日という日が、私たちの物語の新しい章になることを、私は確信していた。




