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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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5/10

ブルー・モーメントの、深呼吸

 その日は、目覚まし時計が鳴る一時間前に目が覚めた。

 カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中は青みがかった薄闇に包まれている。枕元のスマートフォンに目をやると、午前五時三十分。昨夜はあんなに寝付けなかったのに、意識は驚くほど冴えわたっていた。

 今日、私は高瀬さんに会う。

 その事実が意識の表層に浮かび上がった瞬間、心臓がトクン、と大きく跳ねた。

 這い出すようにベッドを抜け出し、まずは白湯を飲む。胃の腑が温まるのを待ちながら、洗面台の鏡の前に立った。

 朝一番の、飾り気のない四十三歳の顔。

 この数日間、いつもより念入りに保湿を重ね、マッサージをしてきた成果だろうか、肌の調子は悪くない。けれど、これから始まる「儀式」を思えば、今の自分はまだ未完成のキャンバスに過ぎなかった。

 基礎化粧品を、指先の熱で押し込むように馴染ませていく。

 いつもなら五分で終わるメイクに、今日はその三倍の時間をかけた。

 ファンデーションは厚塗りにならないよう、けれど隠したい影は光で飛ばすように。アイラインの一ミリの角度、マスカラの塗り残しがないか、何度も何度も鏡を近づけて確認する。

 

(やりすぎかな……。でも、薄すぎて「手抜き」だと思われるのはもっと怖い)

 そんな葛藤と戦いながら、先日新調したラベンダー色のワンピースに袖を通す。

 シルクの滑らかな感触が肌を滑り、背筋が自然と伸びる。アクセサリーは、主張しすぎないパールのピアスと、細いゴールドのブレスレットを選んだ。

 鏡の前で右へ左へと体を捻り、ウエストのライン、裾の揺れ方を確認する。

「……よし」

 小さく呟いてみるが、不安は消えない。

 四十三歳の女性が、ここまで着飾ることは「恥ずかしい」ことではないだろうか。

 高瀬さんは、私のこうした「努力」に気づいてくれるだろうか。

 いや、そもそも男性という生き物は、女性の服の色やアクセサリーの微細な変化など、それほど興味がないのではないか。

 かつての結婚生活では、髪を十センチ切っても、新しい服を買っても、元夫がそれに気づくことはほとんどなかった。

「あ、そういえば何か変わった?」

 数日経ってから投げかけられる、そんな無頓着な言葉に、何度心を削られたことだろう。

 品川駅の待ち合わせ場所に到着したのは、約束の三十分も前だった。

 改札付近は、休日を楽しむ家族連れや若いカップルで溢れかえっている。その喧騒の中に身を置いていると、自分がひどく場違いな場所に立っているような錯覚に陥った。

 スマートフォンを何度も確認するが、彼からの連絡はまだない。

(早く着きすぎちゃった。……落ち着かない)

 思考が混乱し、足元がふわふわと浮いているような感覚。

 誰かを待つという時間が、これほどまでに長く、もどかしいものだということを、私はいつの間にか忘れてしまっていた。

 

 その時だった。

 人混みの向こうから、一人の男性が歩いてくるのが見えた。

 ネイビーの柔らかなアンコンジャケットに、センタープレスの効いた細身のグレーパンツ。足元は清潔感のあるレザースニーカー。

 高瀬さんだ。

 居酒屋で会った時の「大人しい男性」という印象は、良い意味で裏切られた。

 立ち姿は洗練されていて、年齢よりもずっと若々しく見える。けれど、首元から覗くシャツの襟元や、時計の選び方には、大人の男性らしい細やかなこだわりが感じられた。

「……麻衣さん」

 私の前に立った高瀬さんは、少しだけ目を見開いた。

 その瞳が、私の頭の先から足元までを、慈しむように、けれど確かに捉えたのを私は見逃さなかった。

「お待たせしました。……すみません、随分早くからいらしてたんじゃないですか?」

「いえ、私も今着いたばかりで」

 ありきたりな嘘をつく私の言葉を、彼は柔らかい笑みで受け流した。

「……今日の麻衣さん、とても素敵ですね」

 心臓が、耳元で鳴るような音がした。

「そのワンピースの色、麻衣さんの肌の色にとてもよく合っています。……僕、今日の格好、麻衣さんのオシャレに釣り合ってますか? 少し心配だったんです」

 彼は少しだけ照れくさそうに、自分のジャケットの裾を直した。

 嬉しさが、喉の奥までせり上がってくる。

 見てくれていた。

 私が迷いながら選んだ色を、鏡の前で重ねた時間を、彼はその一言で肯定してくれた。

「……高瀬さんこそ、すごく爽やかで。いつもより、ずっと若く見えます」

「あはは、本当ですか? 気合を入れて選んだ甲斐がありました」

 二人は、どちらからともなく歩き出した。

 目指すのは、駅のすぐそばにある水族館。

 

 チケットを買い、中へ入ると、そこは外の喧騒が嘘のような別世界だった。

 照明が落とされ、深い青色の光が満ちている。

 一人なら、絶対に訪れることのなかった場所。

 離婚してからの五年間、私はこうした「非日常」を、どこか避けて生きてきたのかもしれない。一人で楽しむ術は身につけたけれど、誰かと感動を共有するというコストを、恐れていたのだ。

 けれど今、隣を歩く高瀬さんの気配を感じながら、私はかつてないほど心が満たされていくのを感じていた。

「見てください、あのクラゲ。光を透かして、まるで映画のワンシーンみたいだ」

 高瀬さんが水槽を指差す。

 その指先が、一瞬だけ私の腕に触れそうになり、また離れていく。

 水槽の青い光に照らされた彼の横顔は、居酒屋で見た時よりもずっと深く、優しく見えた。

 

(ああ……私、本当に嬉しいんだ)

 四十三歳のバツイチ。会社員。

 そんな記号を脱ぎ捨てて、ただ一人の女性としてこの青い闇の中に溶けていく。

 高瀬さんと出会わなければ、私は一生、キッチンで作り置きの料理を作りながら、静かに「自由」を消費して終わっていたかもしれない。

「麻衣さん?」

 彼が覗き込むように声をかけてくる。

「……はい、本当に綺麗ですね」

 私は微笑みながら、深く息を吸い込んだ。

 水族館の少し冷えた、けれど潤んだ空気が、肺の奥まで満ちていく。

 今日という日が、私たちの物語の新しい章になることを、私は確信していた。


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