終わりの潔さ、始まりの覚悟
月曜日の朝。
オフィスに足を踏み入れた高瀬の表情には、一睡もしていない者の疲労と、それ以上に、硬い石のような決意が刻まれていた。
彼が海辺でたどり着いた結論は、一つだった。
彼は、麻衣を選ぶ。
それは奈々子が劣っているからではない。むしろ、彼女の眩しさは、今の高瀬にとってはこの上ない救いになり得たはずだ。しかし、高瀬が自らの人生に求めているのは、自分を引っ張り上げてくれる光ではなく、共に深い夜を歩める静かな足音だった。不完全な身体を晒し合い、過去の傷跡を慈しみ、ただ「そこにいる」だけで満たされる麻衣との時間。それこそが、一度人生を諦めかけた彼が、最期まで守り抜きたいと願った「聖域」だった。
だが、その安息を手に入れるためには、絶対に越えなければならない関門があった。
(……和久井さんに、話をしなければならない)
麻衣の元へ行き、「君を選んだ」と告げるのは簡単だ。それは救いであり、喜びだからだ。しかし、誠実であるということは、残酷であるということでもある。
奈々子の想いを知りながら、曖昧なまま麻衣と幸せになることは、自分を信じてくれた二人の女性に対する最大の裏切りだ。高瀬は、自分の身勝手で傷つけた奈々子の涙を、正面から受け止める責任があると考えた。
*
その日の夕方。高瀬は奈々子を呼び出した。場所は、スペインバルのような賑やかな場所ではなく、人通りの少ない公園の片隅だった。
奈々子は、何かに気づいているようだった。いつもなら弾けるような笑顔を見せる彼女が、今日は唇を引き結び、祈るような手つきで自分のカバンのストラップを握りしめている。
「和久井さん」
高瀬の声は、沈痛だが明瞭だった。
「……はい」
「昨日、一日一人で考えました。君がくれた言葉、君が僕に向けてくれた真っ直ぐな気持ち。……それに対して、僕は中途半端な気持ちで応えてはいけないと思ったんだ」
奈々子の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。彼女は聡明な女性だ。高瀬の最初の言葉だけで、結末を悟ってしまったのだろう。
「……佐伯さん、なんですね」
「……ああ。彼女と、歩んでいきたいと思っている」
高瀬は、言い訳をしなかった。「君は若すぎる」とも「もっといい人がいる」とも言わなかった。そんな言葉は、真剣に恋をした女性への侮辱でしかない。
「僕は、わがままな男だ。君の明るさに、君のパワーに救われていた部分も確かにあった。でも、僕は彼女と一緒に、自分たちの不器用な生活を積み重ねていきたいんだ。……本当に、すまない。君の誠実さに、僕は応えられない」
しばらくの間、公園の木々が風に揺れる音だけが響いていた。
奈々子は、溢れそうになる涙をグッと堪え、天を仰いだ。そして、震える声で言った。
「……ずるいです、高瀬さん。そんなにハッキリ言われたら、嫌いになることもできないじゃないですか」
彼女は一歩前に踏み出し、高瀬の目を真っ直ぐに見つめた。
「でも、よかったです。……私の好きになった人が、中途半端に二人の間をフラフラするような人じゃなくて。……佐伯さんに、負けたのは悔しいけれど。でも、高瀬さんが選んだ道なら、きっとそれが正解なんでしょうね」
奈々子は、精一杯の、けれど今にも崩れそうな笑顔を見せた。
「……ありがとうございました。私の初恋……あ、初恋じゃないですね。でも、こんなに必死になれた恋は、久しぶりでした。……さようなら」
彼女は振り返らずに、走り去っていった。
高瀬はその場に立ち尽くし、一人の女性を深く傷つけてしまった重みに、肩を震わせた。
誠実であることの代償。それは、自分が「悪者」になることを引き受けることだ。
彼は深く頭を垂れ、その痛みを自らの身体に刻み込んだ。
*
午後八時。
麻衣は、自宅のキッチンで、時計の針の音を数えていた。
週末、彼から届いた「一人で考えたい」というメッセージ。
月曜日になっても、彼からの連絡はない。
オフィスで彼と目が合うこともなかった。
奈々子が高瀬の席へ行き、何かを話しているのを遠目に見て、麻衣の心は千々に乱れた。
(彼は、やっぱりあの子を選ぶのかもしれない)
(三度目の正直なんて、この年齢には用意されていないんだわ)
四十三歳の自意識が、彼女を奈落へ引きずり込もうとする。
作り置きのタッパーが並ぶ冷蔵庫。磨き上げられた水回り。彼のいない部屋は、完璧に整えられているがゆえに、かえってその空虚さが際立っていた。
その時。
玄関のチャイムが、静寂を切り裂いた。
麻衣は、エプロンを外すのも忘れ、玄関へ駆け寄った。
ドアを開けると、そこには、ひどく疲れ果てた、けれど眼差しに強い熱を宿した高瀬が立っていた。
「……高瀬さん」
麻衣の声が震える。
高瀬は何も言わず、まず深く息を吸い込んだ。そして、彼女の目を逸らさずに言った。
「遅くなって、すみません。……さっきまで、和久井さんと話していました」
麻衣の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「彼女に、ハッキリと伝えました。……僕は、君が好きだと。君と、これからの人生を一緒に歩んでいきたいんだと」
「……えっ?」
「麻衣さん。僕は君を、もう二度と迷わせたくない。……僕を選んでくれますか?」
高瀬は、そのまま麻衣を強く抱きしめた。
コート越しに伝わってくる、冷たい夜風の匂い。
そして、それ以上に熱い、彼の決意の鼓動。
麻衣の頬を、熱い涙が伝い落ちる。
四十三歳の恋。
それは、誰かを傷つける痛みを背負い、自分の弱さを認め合いながら、ようやく辿り着いた「本当の場所」だった。
「……私で、いいんですか? 本当に、私で」
「麻衣さんじゃなきゃ、ダメなんです。……僕のわがままを、君の優しさで、一緒に包んでいってほしい」
暗い玄関先。
二人の影が、一つに重なり合う。
長い、あまりにも長い週末が終わった。
キッチンでは、冷めたほうじ茶がテーブルに置かれたままだ。
けれど、この部屋の空気は、もう二度と以前のような冷たい静寂に戻ることはないだろう。
嵐は去った。
けれど、これは結末ではない。
誰かを愛し、誰かに愛されるという、果てしない旅の、新しい一歩だった。




