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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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18/24

夜の静寂(しじま)、あるいは再生の体温

 玄関先で交わした抱擁の余韻が、冷えた夜気に溶けていく。

 私は高瀬さんをリビングへ招き入れ、冷めきっていたほうじ茶を片付けた。代わりに、少しだけ良いハーブティーを淹れる。蒸気と共に立ち上がるカモミールの香りが、張り詰めていた空気をゆっくりと解きほぐしていく。

 高瀬さんはソファに深く腰掛け、少しの間、目を閉じていた。一人の女性の想いを断ち切ってきた男の、重く、切ない疲労。その横顔を見て、私は胸が締め付けられる思いがした。

「……和久井さんは、大丈夫でしたか?」

 私が尋ねると、高瀬さんはゆっくりと目を開けた。

「……大丈夫、とは言えません。彼女を深く傷つけた自覚はあります。でも、曖昧な優しさで彼女の時間を奪うことの方が、ずっと残酷だと思ったんです」

 高瀬さんの言葉は、自分自身に言い聞かせるような強さを持っていた。

「和久井さんは素晴らしい女性です。活気に溢れ、未来を信じる力がある。……でも、僕が求めていたのは、その輝きではなかった。麻衣さん、君と出会って、僕は初めて『誰かと一緒に老いていくこと』の愛おしさを知ったんです。派手なイベントがなくても、ただ隣で同じスープを飲み、静かに夜を過ごす。そんな未来を、僕は君と描きたいと思った」

「高瀬さん……」

「僕は、君の不完全さを愛しています。昨日、君が言い出せずにいたあの戸惑いも、自分の年齢を恥じらうその眼差しも。……すべてが、僕にとってはかけがえのない『麻衣さん』という一人の女性の証なんです」

 私はハーブティーのカップを握りしめた。指先から伝わる温もりが、心の奥底にある凍えた場所を溶かしていく。

「私……和久井さんの写真を見たとき、本当に怖かったんです。彼女の若さ、弾けるような笑顔。それに比べて私は、もう一度誰かに愛される資格なんてないんじゃないかって。この五年間、私は女であることを捨てて、ただの『生活者』として生きてきたから」

「そんなことはない」

 高瀬さんが立ち上がり、私の前にひざまずいた。彼は私の両手をそっと包み込む。

「君が丁寧に整えてきたこの部屋も、あの美味しい料理も、全部君が『女』として、一人の人間として人生を慈しんできた結果じゃないですか。……僕は、今の麻衣さんが一番美しいと思っています。若さという借り物の光ではなく、内側から滲み出る、静かな月のような光を纏っている君が」

 その言葉が、私の最後の防波堤を崩した。

 私は彼の肩に顔を埋め、声を殺して泣いた。四十三年間、必死に張ってきた意地も、離婚の時に流せなかった涙も、すべてが彼の温もりの中で浄化されていく。

 *

 夜が更け、部屋の明かりを極限まで落とした。

 窓の外の都会の喧騒は遠のき、加湿器の微かな動作音だけが、私たちの沈黙を縁取っている。

「……ベッドへ、行きましょうか」

 高瀬さんの囁きに、私は小さく頷いた。

 寝室の扉を開ける。

 そこは、私が五年間、一人で孤独を噛みしめ、あるいは安息を得てきた場所だ。

 高瀬さんは、私の肩に手を回し、ゆっくりとベッドへと誘った。

 横たわると、シーツの冷たさが肌に触れる。けれど、すぐに彼の身体の熱がそれを上書きしていった。

 高瀬さんの指先が、私のブラウスのボタンに触れる。

 その瞬間、私は反射的に身を強張らせた。

(……見られたくない)

 四十三歳の身体。

 二十代の頃のような、瑞々しく張りのある肌ではない。

 下腹部のわずかな緩み、重力に逆らえない胸の曲線。

 灯りを消していても、彼の手が触れれば、その「現実」は如実に伝わってしまう。

 私は、自分がひどく古びた、価値のない骨董品のように思えて、恥ずかしさに押し潰されそうになった。

「麻衣さん。……力を抜いて。僕を見て」

 高瀬さんの声は、驚くほど穏やかだった。

 彼は私の手を握り、指先の一つひとつにキスを落としていく。

「君の身体は、君がこれまで懸命に生きてきた物語そのものだ。僕はそのすべてを、敬意を持って受け入れたい」

 彼はゆっくりと、私を覆う布を剥がしていった。

 露出した肌に、夜の空気が触れる。

 恥じらいで顔を背ける私を、高瀬さんは優しく引き寄せ、首筋から肩口へと唇を滑らせた。

 

 彼の唇が触れる場所が、熱を帯びていく。

 それは、若者のような激しい渇望ではない。

 砂漠に染み込む水のように、ゆっくりと、丁寧に、私の細胞一つひとつを確認し、目覚めさせていくような……慈しみの熱。

「……あ」

 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど甘く、震えていた。

 五年間、眠っていた私の「女」が、彼の指先から流れ込む愛情によって、ゆっくりと、けれど確かに息を吹き返していく。

 高瀬さんの肌が、私の肌と重なり合う。

 お互いの心臓の音が、一つに溶け合っていくのが分かった。

 

 私は、彼を求めて腕を回した。

 彼の背中の筋肉、少しだけ荒くなった呼吸。

 かつて結婚生活で感じていた「義務」としての行為とは、全く違う。

 これは、孤独という長い冬を越えた二人が、お互いの体温で「生きていること」を証明し合う、再生の儀式なのだ。

 恥じらいは、いつの間にか、深い安心感へと変わっていた。

 四十三歳という年齢が、今の私には、この深い愛を受け止めるための「器」の大きさのように思えた。

 若すぎたら、この静かな感動は分からなかっただろう。

 一度失ったからこそ、この肌の温もりが、どれほど贅沢で、どれほど脆い奇跡であるかを知っている。

「麻衣さん……愛しています」

 耳元で囁かれた言葉と共に、私たちは一つになった。

 それは、激しい波風ではなく、満ちていく潮のような抱擁だった。

 暗闇の中で、私たちはただの「バツイチの会社員」ではなく、名前を失った一対の魂として、夜の深淵を漂っていた。

 私の身体の隅々まで、彼の熱が、彼の意思が、彼の愛が、満たされていく。

 

(ああ……私、まだ女だったんだ)

 涙が、枕を濡らした。

 それは悲しみの涙ではなく、ようやく自分の居場所を見つけた安堵の涙だった。

 

 *

 行為の後の静寂は、何よりも雄弁だった。

 高瀬さんは私を後ろから抱き寄せ、大きな手で私の腹部を優しくさすってくれた。

「……痛みますか?」

「いいえ。……すごく、温かいです」

 昨夜のあの「二日目」の重苦しささえも、今の幸福感の前では、私たちの物語に彩りを添えるエピソードの一つに過ぎなかった。

 高瀬さんは、私の乱れた髪を整え、額に優しくキスをした。

「麻衣さん。これから、ゆっくりと時間をかけて、二人で歩んでいきましょう。……明日も、明後日も、ずっと君の隣で目覚めたい」

「はい。……私も、高瀬さんの隣で、毎日美味しいものを作って待っていたいです」

 窓の外、夜明けの気配はまだ遠い。

 けれど、私たちの心には、すでに眩しいほどの光が差し込んでいた。

 

 四十三歳の冬。

 人生の折り返し地点だと思っていたこの場所が、実は本当のスタートラインだったのだと、私は彼の腕の中で確信していた。

 

 私たちは、重なり合ったまま、静かな眠りの中へと落ちていった。

 そこにはもう、奈々子の影も、過去の亡霊も、何一つ存在しなかった。

 ただ、心地よい体温と、未来への微かな鼓動だけが、暗闇を優しく照らし続けていた。


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