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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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16/24

潮騒の独白、あるいは誠実の重力

 四月の海は、夜になるとまだ刺すような冷たさをはらんでいた。

 三浦半島の先端、人影の途絶えた海岸線に、高瀬は一人で立っていた。寄せては返す波の音が、規則正しいリズムで思考を削り取っていく。

 

「一人で考えたい」

 

 そう言って手に入れたこの週末の静寂は、彼が望んだはずのものだったが、いざ手元に転がってみると、それは重く、鋭い刃のように自らの胸を突き刺してきた。

 

 五年前、離婚届を役所に提出したあの日のことを思い出す。

 解放感よりも先にあったのは、自分という人間の「欠陥」に対する確信だった。誰かと歩幅を合わせることができない。自分の聖域に他人が入り込むことに耐えられない。そんな「わがまま」を抱えた自分には、誰かを幸せにする資格などないのだと。

 以来、高瀬は孤独を愛そうとしてきた。一人で旅をし、一人で食事をし、一人で完結する日々。それはそれなりに楽しく、何より「傷つくことも傷つけることもない」という圧倒的な安全圏だった。

 はずだった。

 佐伯麻衣という女性に出会うまでは。

 高瀬は、ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見つめる。そこには、麻衣から届いた温かな料理の数々や、とりとめのない会話の履歴が並んでいる。

 彼女の家で過ごしたあの夜の情景が、潮風に乗って蘇る。

 

 四十三歳の女性が、迷いながら、震えながら自分を招き入れてくれた勇気。

 丁寧に引かれた出汁の香り、使い込まれたキッチン、そして、自分の不完全さを隠さずに打ち明けたあの時の涙。

 彼女といると、不思議と自分の「わがまま」が、誰かのための「こだわり」に変換されていくような気がした。彼女もまた、一度壊れた人生を自分の手で丁寧に繋ぎ合わせようとしている。その「再生」の過程に寄り添いたい、その隣で、今度は逃げずに歩んでみたい。

 

 麻衣といる時間は、なぎのように静かで、深い。

 彼女となら、何も話さなくても、ただ隣にいるだけで人生の余白を慈しむことができる。

 

 しかし。

 高瀬の脳裏に、もう一つの眩しすぎる光が差し込む。

 和久井奈々子。

 スペインバルの騒がしい喧騒の中で、真っ直ぐに自分を見つめてきた彼女の瞳。

 三十七歳という、生命力に溢れた彼女の存在は、高瀬の枯れかけていた心に、荒々しいまでの活力を注ぎ込んだ。

「私じゃ、ダメですか?」

 その言葉は、高瀬の理性を粉々に砕くほどの力を持っていた。

 彼女は、自分がこれまで避けてきた「外の世界」へと強引に手を引いてくれる。彼女の放つパワー、未来への根拠のない自信、そして自分を必要としてくれるという切実な熱。

 彼女と歩む未来は、きっと彩りに満ち、常に新しい風が吹くことだろう。自分が失いつつある若さや情熱を、彼女という鏡を通して、もう一度手に入れられるのではないかという誘惑。

 

 麻衣は、高瀬にとっての「安息」であり「鏡」だった。

 奈々子は、高瀬にとっての「活力」であり「希望」だった。

 

 高瀬は深く溜息をつき、砂浜に座り込んだ。

 自分がどうしようもなく優柔不断であることを痛感する。二人の女性を天秤にかけるような真似をしている自分自身が、鏡を見るのも嫌になるほどに浅ましく思えた。

 

 どちらの女性も、誠実だ。

 麻衣は、自分の「女性の日」という最もプライベートで生々しい部分さえも曝け出し、高瀬の反応を待った。

 奈々子は、職場の立場もプライドも捨てて、一人の女性として正面から愛を告げてきた。

 

 彼女たちの人生の時間は、今この瞬間も刻一刻と過ぎている。

 四十三歳の麻衣にとっても、三十七歳の奈々子にとっても、この「今」という時間は、何物にも代えがたいほどに貴重なはずだ。

 

 曖昧な返事をして、二人を繋ぎ止めておくことは絶対にできない。

 もしそれをすれば、自分はかつての離婚時以上に、救いようのない卑怯者になるだろう。

「……何が、怖いんだ」

 

 高瀬は自らに問いかけた。

 結局、自分が恐れているのは「再び誰かの人生を背負い、そして失敗すること」なのだ。

 一人でいれば、誰の期待も裏切らない。誰の涙も見なくて済む。

 けれど、麻衣と出会ってしまったことで、その「平和な独房」の壁は崩れ落ちた。

 誰かのために料理を選び、誰かのために明日の予定を立て、誰かの温もりを感じながら眠る。

 そんな「当たり前」の、けれど奇跡のような日々が、これほどまでに愛おしいものだと思い知らされてしまった。

 

 波の音が一段と激しくなる。

 高瀬は目を閉じ、二人の声を、二人の笑顔を、交互に思い描く。

 

 麻衣の、あの控えめな、けれど確かな信頼を湛えた眼差し。

 奈々子の、あの弾けるような、けれど傷つくことを覚悟した笑顔。

 

 高瀬は立ち上がり、砂を払った。

 もはや、逃げることはできない。

 

 彼は知っていた。誠実であるということは、どちらかを選ぶということではない。

 自分が、これからの人生を「誰として」生きていきたいのかを決めることなのだと。

 

 麻衣という深い森の中で、静かな雨音を聞きながら年を重ねていく自分。

 奈々子という眩しい海で、荒波を乗り越えながら新しい景色を追い求める自分。

 

 高瀬の心の中で、天秤がゆっくりと、けれど決定的な重みを持って傾き始めた。

 

 彼はスマートフォンを手に取り、まずは一通のメッセージを打った。

 それは、週明けの月曜日に、ある場所で会いたいという誘い。

 

 夜の海が、彼の決意を飲み込むように、深い黒に染まっていく。

 一人の男の苦悩が終わる時、三人の運命は、もう二度と戻れない激流へと足を踏み入れようとしていた。

 

 高瀬の歩幅は、先ほどよりもずっと力強かった。

 誠実であるための代償として、彼は自らの手で、この平穏な週末に終止符を打った。

 

 明日。

 彼は、自らの言葉で、自らの人生に名前をつける。

 それが、一人の女性を深く傷つけ、もう一人の女性の人生を永遠に変えてしまうことになったとしても。


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