三色の月曜日、あるいは誠実という名の断絶
月曜日の朝。オフィスフロアに漂う空気は、先週末のあの穏やかな日曜日の余韻を、無機質な事務連絡の山で塗りつぶしていく。
佐伯麻衣は、パソコンのモニターを見つめながら、時折ふっと自分の指先を見た。そこにはまだ、高瀬さんの部屋で、あるいは公園で繋いだ手の感覚がかすかに残っている。
けれど、その幸福感のすぐ隣には、あの日曜の朝に画面を震わせた『和久井奈々子』という名前が、消えない黒点のようにこびりついていた。
*
一方、高瀬の職場では、異なる熱量が渦巻いていた。
和久井奈々子は、プロジェクトの資料を整理しながら、ちらりと離れた席に座る高瀬の背中を盗み見た。
高瀬は、いつも通り誠実で、落ち着いている。けれど、奈々子の鋭い感性は、彼の中に起きた微かな変容を逃さなかった。どこか遠くを見つめるような優しい眼差し。週末を越えて、彼の魂が自分ではない「誰か」の場所に深く根を下ろしたのではないかという予感。
(……高瀬さん、あの日曜日の電話、出なかった)
奈々子は唇を噛んだ。彼女は狡猾な女性ではない。むしろ、仕事に対しても恋に対しても、全力でぶつかることしか知らない、太陽のような女性だった。高瀬が中途で入ってきた日から、彼の物静かな、けれど深い知性に惹かれていた。彼に振り向いてほしい。その一心で、彼女は彼が馴染めるように奔走してきたのだ。
「高瀬さん。今日、帰りにお時間ありますか?」
終業間際、奈々子は高瀬のデスクに歩み寄った。迷いのない、真っ直ぐな声。
高瀬は驚いたように顔を上げ、一瞬だけ逡巡するような間を置いたが、彼女の真剣な目を見て、静かに頷いた。
「……ええ、少しなら。行きましょうか」
奈々子が選んだのは、オープンなテラス席がある、活気あふれるスペインバルだった。麻衣が用意した静寂な食卓とは正反対の、音楽と笑い声が交差する場所。
「高瀬さん、お酒飲めないのに付き合ってくれてありがとうございます」
奈々子はサングリアを片手に、屈託なく笑った。
「ここのアヒージョ、すごく美味しいんですよ。高瀬さん、旅の話好きだから、こういう陽気な雰囲気も合うかなって」
彼女の話は、仕事の熱い議論から、最近始めたヨガの話、そして彼女自身の家族の話まで、弾けるように広がっていった。
高瀬は、そんな彼女を眩しそうに見つめていた。
仕事での「有能な後輩」としての彼女しか知らなかったが、プライベートの彼女は、驚くほど活発で、生命力に溢れていた。彼女といると、自分の年齢さえも忘れさせてくれるような、前向きなエネルギーが伝わってくる。
しかし、不意に奈々子がグラスを置き、高瀬をじっと見つめた。
「……高瀬さん。私、日曜日に電話したの、仕事の話じゃなかったんです」
高瀬は烏龍茶のグラスを握る手に力を込めた。
「……わかっています」
「私、高瀬さんのことが好きです。仕事ができるところも、時々寂しそうな顔をするところも、全部。……私じゃ、ダメですか?」
奈々子の告白には、駆け引きも、麻衣への当てつけもなかった。ただ純粋に、彼を想う気持ちだけがそこにあり、それがかえって高瀬の胸を痛ませた。
彼女は誠実だ。その想いを、軽々しく扱うわけにはいかない。
「和久井さん……ありがとう。君の気持ちは、本当に嬉しい」
高瀬は言葉を慎重に選びながら続けた。
「でも、僕は……。今、大切な人がいる。その人との時間を、丁寧に育みたいと思っているんだ」
奈々子の目に、みるみるうちに涙が溜まった。けれど、彼女はそれを零さなかった。
「……佐伯さん、ですよね?」
高瀬は答えなかった。それが肯定であることを、奈々子は悟った。
「佐伯さんは、私とは違う、落ち着いた大人の魅力がある人だと思います。でも……私だって、高瀬さんを想う気持ちは負けません。今はダメでも、私が高瀬さんを笑顔にできるって信じてますから」
彼女は涙を拭い、強がりの笑顔を見せた。
その潔さが、高瀬の心に深い楔を打ち込んだ。
*
週末がやってきた。
麻衣は、高瀬に『今週末、もしよければ私の家で映画の続きを……』とメッセージを送ろうとした。
けれど、高瀬から届いたのは、意外な内容だった。
『麻衣さん。今週末は、少し一人で考えたいことがあります。お誘いしたいのは山々なのですが、一日だけ、自分自身と向き合う時間をください。また週明けに、僕から連絡します』
同じ頃、奈々子からの『明日、もしお暇ならドライブに……』という誘いに対しても、彼は同様の言葉で断りを入れていた。
麻衣は、スマートフォンの画面を見つめたまま、凍りついた。
「一人で考えたい」
その言葉は、大人の恋愛において、しばしば「終焉の序曲」あるいは「重大な選択」を意味する。
和久井奈々子という、三十七歳の真っ直ぐな女性の存在。彼女が高瀬にぶつけたであろう情熱。
(彼は、迷っているんだ……)
四十三歳の麻衣が持つ、穏やかで生活の染みた愛。
三十七歳の奈々子が放つ、瑞々しく未来へ向かう愛。
どちらを選ぶべきか。あるいは、誰かと生きることそのものを、もう一度再定義しようとしているのか。
麻衣はキッチンに立ち、いつも通り作り置きを作り始めた。
けれど、野菜を切る音も、出汁の香りも、今の彼女には何の慰めにもならなかった。
一人きりの週末。
静寂は、かつての自由な時間ではなく、高瀬を失うかもしれないという恐怖で満たされていた。
一方、高瀬は一人、海が見える高台にいた。
麻衣と食べた料理の味、奈々子が流した涙。
二人の誠実な女性に囲まれ、彼は自分自身の「わがまま」と、もう一度対峙していた。
誰かを幸せにするということは、誰かを傷つけるということでもある。
その責任を背負う覚悟が、今の自分にあるだろうか。
月が昇り、暗い海を照らし出す。
嵐の前の、あまりにも冷ややかな静寂。
三人の運命は、この週末の沈黙の果てに、決定的な局面を迎えようとしていた。




