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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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目覚めの素顔、あるいは嵐の前の静寂

 カーテンの隙間から差し込む光が、瞼の裏側を淡い琥珀色に染めていた。

 意識がゆっくりと浮上してくる中で、まず感じたのは、身体を包み込む柔らかなシーツの感触と、そして——すぐ隣にある、自分以外の確かな熱量だった。

 そっと目を開けると、そこにはまだ眠りの中にいる高瀬さんの横顔があった。

 昨夜、彼は私の言葉をすべて受け入れ、ただ静かに私を抱きしめて朝まで過ごしてくれた。身体の痛みはまだ微かにあるけれど、彼に触れられていた場所からじんわりと解けていくような、不思議な安堵感に満たされている。

 私が身動きをすると、高瀬さんの睫毛がかすかに揺れた。

「……おはようございます、麻衣さん」

 まだ眠気の残る、低く掠れた声。その響きが、私の心臓を甘く締め付ける。

「おはようございます。……よく眠れましたか?」

「ええ、驚くほど。……もう少し、こうしていてもいいですか?」

 彼は子供のように腕を伸ばし、私をもう一度引き寄せた。彼の胸の鼓動が、ダイレクトに私の背中に伝わってくる。五年前、当たり前だと思っていたこの距離が、今は奇跡のように尊い。

 しばらくして、彼が先にベッドを抜け出した。

「麻衣さんは、もう少しゆっくりしていてください。僕、朝食を準備してきます。……キッチン、お借りしてもいいですか?」

「ええ、もちろんです。……でも、そんな」

「僕にやらせてください。昨日の美味しいお礼です」

 彼はいたずらっぽく笑い、私のクローゼットから貸し出したTシャツ姿で部屋を出ていった。

 一人残されたベッドの中で、私はキッチンの音に耳を澄ませた。

 お湯の沸く音、冷蔵庫が開く音。かつて私の生活の一部だった音が、今は新しい色彩を帯びて聞こえる。

 意を決して、私は洗面所へと向かった。

 鏡の前に立つ。

 そこには、昨日の念入りなメイクを落とし、少し浮腫んだ目元と、四十三年という時間を正直に刻んだ素顔の私がいた。

(……どうしよう。少しだけでも、おしろいを叩こうかな)

 ファンデーションに手を伸ばしかけて、私は止まった。

 昨夜、彼は私の「不完全さ」を丸ごと愛おしいと言ってくれた。そんな彼に対して、今さら隠し事をするのは、自分自身の心を偽るような気がした。

 私は冷たい水で顔を洗い、ただの保湿クリームを丁寧に馴染ませる。

 

 もう、武装はいらない。

 ありのままの私を見て、それでも隣にいてくれる人を、私は信じたい。

 リビングに戻ると、香ばしいパンの香りが立ち込めていた。

「お待たせしました。あり合わせの材料ですが」

 テーブルには、こんがりと焼けたトースト、半熟の目玉焼き、そして私が昨日作り置きしておいた小松菜のお浸しが、センス良く並べられていた。

「……美味しそう。ありがとうございます、高瀬さん」

「素顔の麻衣さんも、素敵ですね。なんだか、本当の君に会えた気がします」

 彼は私の心の迷いを見透かしたように微笑み、椅子を引いてくれた。

 穏やかな朝食。

 けれど、その静寂を切り裂くように、テーブルの上に置かれた高瀬さんのスマートフォンが激しく震えた。

 

 画面に表示された名前。——『和久井奈々子』。

 一瞬、空気が凍りついた。

 日曜日の朝。仕事でもない時間に、彼女が彼に電話をかけてくる意味。それは、同僚という一線を越えた、明らかな執着だった。

 高瀬さんの眉間に、微かな皺が寄る。

 彼は私の顔を一度見つめ、迷うことなくスマートフォンの画面を伏せた。着信音を無視し、彼はそのままコーヒーのカップを手にする。

「……出なくて、いいんですか?」

 私は努めて冷静に問いかけた。

「いいんです。今は、麻衣さんとの時間を誰にも邪魔されたくない」

 彼は静かに、けれど揺るぎない口調で言った。

 その言葉には、奈々子という「若さ」や「可能性」ではなく、目の前にいる私という「現実」を何よりも大切にするという、彼なりの宣戦布告が含まれている気がした。

「麻衣さん。……埋め合わせの公園デート、今日、行きませんか? 午後から少し歩くだけでも。昨日の続き、青空の下で聞かせてほしいんです」

 私は、溢れそうになる涙を堪えて頷いた。

 

 *

 午後の公園は、新緑が眩しいほどに輝いていた。

 私たちは手をつなぎ、ゆっくりと散歩道を歩いた。

 大きな池のほとりで立ち止まり、風に揺れる水面を眺める。

「高瀬さん。私……昨日の夜から、ずっと夢を見ているみたいです。こんなに自分が大事にされていると感じたのは、初めてかもしれません」

「僕もです。……麻衣さん、これからのこと、ゆっくり考えていきませんか。二人で歩いていく未来を」

 彼の指が、私の指と絡まり合う。

 日曜日の柔らかな光。幸せすぎて、少しだけ怖くなるほどの時間。

 私は、奈々子さんの影も、自分の年齢への不安も、すべてこの風に溶けていけばいいと願っていた。

 けれど、私たちはまだ知らなかった。

 高瀬さんのスマートフォンに届いた、無視し続けた着信の後に続く、奈々子からの最後通牒のようなメッセージの内容を。

 

 そして、明日から始まるオフィスという名の戦場で、彼女がどんな罠を仕掛けて待ち受けているのかを。

 空の端から、薄黒い雲がゆっくりと広がってきていた。

 嵐の前の、あまりにも美しすぎる静寂。

 私は、彼の手を離さないように、より強く握りしめた。


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