時の静止、あるいは愛しき不完全
部屋の明かりを落としたリビングには、街灯の微かな光と、淹れたてのコーヒーから立ち上る湯気だけが、私たちの境界線を曖昧にさせていた。
ソファに並んで座る。高瀬さんの右肩が私の左肩に触れそうで、触れない。そのわずかな距離が、今の私には地平線のように遠く、そして深淵のように深く感じられた。
高瀬さんの視線が、ゆっくりと私を捉える。
彼の瞳の奥には、確かな熱があった。それは、水族館の青い闇で見せた慈しみでも、ビストロで語り合った共感でもない。目の前にいる私という「女」を、丸ごと手に入れたいと願う、静かだが抗いようのない渇望だった。
彼の手が、私の頬に触れる。
指先の熱が肌に伝わった瞬間、私は反射的に目を閉じた。
「……麻衣さん」
名前を呼ばれ、唇が近づいてくる。
私の身体は、五年の空白を埋めるように彼を求めていた。けれど、下腹部の奥でずっしりと重く、鈍い痛みが「現実」を突きつけてくる。
(ダメ、言わなきゃ。でも、どうやって……?)
彼の唇が、私の唇に触れる。
柔らかく、震えるほど優しいキス。それは、これまでの不安をすべて溶かしてしまいそうなほど甘美だった。
けれど、その情熱が深まろうとした瞬間、私は堪えきれずに彼の肩を小さく押し返した。
「……ごめんなさい」
絞り出すような私の声に、高瀬さんの動きが止まった。
部屋の空気が一瞬で氷結する。
彼の瞳に戸惑いの色が走り、それからすぐに、自分を律しようとする大人の理性が戻ってくる。
「……すみません。僕、焦りすぎましたか?」
彼が手を引こうとした。その寂しげな横顔を見た瞬間、私は彼のシャツの袖を、縋るように掴んでいた。
「違うんです。嫌いなわけじゃない。むしろ、その……私だって、高瀬さんに触れてほしい。でも」
私は俯き、膝の上で握りしめた拳を震わせた。
「……よりによって、昨日から、始まったんです。女性の日が。二日目で、一番、ひどい日で」
その言葉を口にした途端、私は自分がひどく醜く、惨めな存在に思えた。
四十三歳にもなって。彼を自分から部屋に誘っておいて。
身体が、自分の心を裏切っている。
奈々子さんのような若々しく完璧な肉体なら、こんな時でも美しく振る舞えるのだろうか。
私は彼に、一番見られたくない「生々しい不完全さ」を晒してしまった。
部屋に、長い沈黙が流れた。
それは、時計の秒針の音さえも消えてしまったかのような、不思議な時間だった。
私は彼の失望を、あるいは気まずいフォローを予想して、ギュッと目を閉じていた。
けれど。
「……よかった」
耳元で聞こえたのは、あまりにも予想外の、穏やかな吐息だった。
顔を上げると、高瀬さんは少しだけ困ったように、けれどこの上なく愛おしそうに私を見つめていた。
「よかった?」
「ええ。麻衣さんが僕を拒絶したんじゃなくて、安心しました。……それに、そんなことで悩んで、言い出せずにいた麻衣さんが、なんだかたまらなく愛おしくて」
彼は再び私の頬に手を添えた。今度はさっきよりもずっと、確信に満ちた熱。
「そんなこと、全く気にしなくていいんですよ。……今日、僕が麻衣さんの家に来たのは、麻衣さんの身体だけが目当てだったわけじゃない。麻衣さんが作ってくれた料理の温かさを、この部屋に漂う麻衣さんの気配を、もっと近くで感じていたかっただけなんです」
「でも……」
「何も起きないからって、麻衣さんに魅力がないなんて思わないでください。四十三歳の、等身大の麻衣さんが抱えている今の状況も含めて、僕は大切にしたい。……むしろ、そんなに僕に対して誠実でいようとしてくれたことが、何よりも嬉しい」
彼は私の額に、そっと自分の額を合わせた。
混ざり合う吐息。
彼の言葉が、私の心の奥底に澱んでいた自己嫌悪を、一つひとつ丁寧に掬い上げていく。
「今日は、ただこうして一緒にいましょう。……もし麻衣さんが許してくれるなら、僕は今日、このまま帰らずに、ただ君の隣で眠りたい。身体の痛みが少しでも和らぐように、僕にできることがあれば何でもさせてください。……そんな、穏やかな夜があってもいいと思いませんか?」
私は言葉を失った。
離婚してからの五年間、私は誰かに「甘える」という方法を忘れていた。自分の身体の不調も、心の揺れも、すべて一人で処理するのが「強い女」の証だと思い込んでいた。
けれど、目の前のこの人は、私の「弱さ」を、まるごとギフトのように受け取ってくれたのだ。
「……高瀬さん」
「はい」
「……不器用な私でも、いいんですか?」
「不器用だからこそ、僕は麻衣さんに惹かれたんです。……さあ、コーヒーが冷めてしまいました。もう一度、温かいものを淹れ直してきます。麻衣さんはソファで横になっていて」
彼は立ち上がり、手際よくキッチンへと向かった。
背中から伝わってくる、揺るぎない安心感。
私は彼の言う通り、ソファに体を預け、毛布を胸まで引き上げた。
お腹の奥の痛みは、相変わらずそこにある。
けれど、心の中にあったあの刺すような焦燥感は、もうどこにもなかった。
四十三歳の夜。
ドラマチックな結末も、燃え上がるような熱狂もないけれど。
お互いの「不完全さ」を認め合い、静かに時間を分かち合う。
キッチンから聞こえるお湯の沸く音と、彼の鼻歌。
それが、私にとってどんなラブソングよりも美しく響いていた。
私はゆっくりと目を閉じ、これから始まる、長く温かな夜の気配に身を委ねた。
明日は今日よりも、もっといい日になる。
高瀬さんの言葉を信じて、私は初めて、自分自身の身体を、自分自身の年齢を、愛おしいと思えた。




