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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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10/24

牙を隠した微笑、あるいは宣戦布告

 月曜日の朝、オフィスへ向かう足取りはいつになく重かった。

 週末のあの写真は、毒のように私の精神をむしばみ続けていた。スマートフォンのフォルダに保存したわけでもないのに、目を閉じれば、バーベキューの火に照らされた高瀬さんと、その隣で屈託なく笑う和久井奈々子の姿が鮮明に浮かび上がってくる。

 けれど、感傷に浸る時間は与えられなかった。

 出社してすぐ、先輩の佐藤から声をかけられた。

「佐伯さん、今日の午後、例のITコンサル……高瀬さんの会社に同行してくれる? システムの最終確認、君の意見も聞いておきたいんだ」

 心臓がドクリと跳ねた。

 行きたくない。今の混乱した心のまま、彼に会うのが怖い。

 けれど同時に、確かめたいという衝動が私を突き動かした。仕事という大義名分があれば、私は「佐伯麻衣」というプロフェッショナルの仮面を被って、彼の日常を覗き見ることができる。

「……承知いたしました。準備します」

 *

 午後二時。高瀬さんの会社が入るオフィスビルは、ガラスとスチールに囲まれた近未来的な空間だった。

 受付を済ませ、案内された会議室へ向かう途中、開かれたオフィスフロアを通り抜ける。

 そこで、私は「それ」を見てしまった。

 フロアの中央、デスクに身を乗り出すようにして、高瀬さんが一人の女性と話し込んでいた。

 写真で見た、あのショートボブ。和久井奈々子。

 彼女は高瀬さんのパソコンの画面を指差し、何かを楽しそうに、けれど真剣に話している。高瀬さんもまた、柔らかな笑みを浮かべながら彼女の言葉に頷いていた。

 仕事中の彼。私の知らない彼の顔。

 二人の間には、昨日今日で築かれたのではない、積み重ねられた「時間」と「信頼」が空気のように流れていた。

 胃の奥がキュッと絞られるような痛みを感じる。

 佐藤先輩が「あ、高瀬さん」と声をかけた。

 高瀬さんがこちらを向き、私と目が合った。

 一瞬、彼の瞳に驚きと、それから隠しきれない喜びが走ったのを私は見逃さなかった。

「……佐藤さん、麻衣……佐伯さん。いらっしゃいませ」

 彼は慌てて立ち上がり、私たちの方へ歩み寄ってきた。その後ろを、奈々子が影のように付いてくる。

「ご紹介します。こちら、今回プロジェクトのサポートに入ってもらっている後輩の和久井です。僕はまだこちらのオフィスに異動して日が浅いので、彼女にはいろいろと助けてもらっているんですよ」

 高瀬さんは、何の屈託もなく彼女を紹介した。その紹介の仕方が、いかにも「優秀で信頼できる部下」を誇りに思っているようで、余計に私の胸をうずかせる。

「和久井奈々子です。いつも高瀬がお世話になっております」

 奈々子は丁寧に頭を下げた。

 透き通るような肌、快活な声。近くで見れば見るほど、三十七歳という年齢が持つ「若さと成熟のバランス」が完璧であることを思い知らされる。

「佐伯です。こちらこそ、いつもお世話になっています」

 私は最大限の敬意を込めて挨拶を返した。

 その時だ。

 顔を上げた奈々子の瞳が、一瞬だけ、私の視線を射抜いた。

 それは、挨拶の延長線上にあるはずの穏やかな光ではなかった。

 彼女の視線は、私の顔から、今日のために選んだ少し高めのパンプス、そして指先にまで一瞬で走り、そして再び私の目に戻ってきた。

 その瞳の奥に宿っていたのは、冷徹なまでの「品定め」と、隠しきれない「敵意」だった。

(……ああ、この子。高瀬さんのことが好きなんだ)

 女性特有の本能が、警報を鳴らす。

 彼女の微笑みは完璧だった。けれど、その目は「あなた、この人に相応しいと思っているの?」と、音もなく私に問いかけていた。

「佐伯さん、また今度ゆっくり、高瀬を交えてお話ししたいです。彼、いつも佐伯さんのこと『仕事が正確で尊敬できる』って言ってるんですよ」

 奈々子の言葉には、微妙なトゲが含まれていた。

 わざわざ『仕事が』という限定をつけ、さらに『高瀬』と苗字を呼び捨て(あるいはそれに近い親密な響き)にすることで、自分の方が彼に近い場所にいることを誇示している。

「……ありがとうございます。恐縮です」

 私はそれだけを言うのが精一杯だった。

 打ち合わせの間中、私の意識は会議の内容よりも、背後に座る奈々子の気配に集中してしまった。

 高瀬さんはプロフェッショナルだった。仕事の話をする彼は誠実で、理知的で、やはり私が惹かれた通りの人だった。

 けれど、打ち合わせが終わり、エレベーターホールまで見送りに来てくれた彼の表情には、どこか落ち着かない影があった。

「麻衣さん、あの……土曜日は本当にすみませんでした。改めて、埋め合わせの相談をさせてください」

 佐藤先輩が少し離れたところで電話をしている隙に、高瀬さんが小声で囁いた。

「……はい。また連絡しますね」

 それだけを交わして、私は逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。

 オフィスに戻る車中で、私は激しい焦燥感に襲われていた。

 先日キャンセルになった公園デートの日は、まだ決まっていない。

 このまま私が「物分かりの良い大人」を演じて、沈黙を守り続けていたら。

 あの三十七歳の、情熱と自信に溢れた彼女は、躊躇なく彼との距離を詰めていくだろう。

(……この歳で、こんなに嫉妬に狂うなんて)

 自分自身に失望する。

 けれど、同時に確信していた。

 私はもう、高瀬さんのことを「いいな」と思っている段階ではない。

 彼を、誰にも渡したくない。

 自分の人生に再び灯ったこの微かな熱を、守り抜きたいと本能が叫んでいる。

「……私、本気なんだ」

 独り言が、窓ガラスに触れて消えた。

 四十三歳のバツイチ。

 プライドも、傷つくことへの恐怖も、今の私には奈々子という脅威に立ち向かうための足かせでしかない。

 私は、カバンの中からスマートフォンを取り出した。

 まだ熱の残る指で、メッセージを打ち始める。

 

『高瀬さん。埋め合わせですが……公園ではなくて、私の家に来ませんか? 私の作った料理、やっぱり高瀬さんに一番に食べてほしいんです。今週末、空いていますか?』

 送信ボタンを押す直前、指が止まる。

 家へ呼ぶことの意味。奈々子の挑発的な目。43歳の自分の身体。

 それらすべてを飲み込んで、私はボタンを強く押し込んだ。

 もう、後戻りはできない。

 奈々子に彼を奪われるくらいなら、私は私のすべてを賭けて、彼の心を掴みに行く。

 

 窓の外、雨が降り始めていた。

 冷たい雨音を聞きながら、私の心には、これまでにないほど激しい炎が燃え盛っていた。


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