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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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11/24

聖域(サンクチュアリ)の食卓、あるいは静かなる儀式

 月曜日の夜、スマートフォンの画面が短く震えた。

『楽しみです。麻衣さんの手料理をいただけるなんて、最高の週末になりそうです』

 高瀬さんからの返信。その短い一文を読んだ瞬間、私の心の中にあった奈々子の冷ややかな視線は、霧が晴れるように消えていった。

 

 彼が来てくれる。私の、誰にも侵されたことのない、この静かな聖域に。

 

 それからの数日間、私はまるで何かに憑りつかれたかのように、週末のための「準備」に没頭した。

 まず取り掛かったのは、献立の作成だった。これまで私は、自分を支えるための効率的な「作り置き」を美徳としてきた。けれど、彼に食べてもらうのは、タッパーから移し替えただけの料理ではない。その瞬間に完成し、最も芳醇な香りを放つ「生きている料理」でなければならなかった。

(高瀬さんはお酒を飲まないから、味付けは少しだけメリハリをつけて。旅が好きな彼なら、少し変わったハーブ使いも喜んでくれるかしら……)

 ノートを広げ、メニューを書き連ねては消し、また書き直す。

 前菜には、旬の野菜を使った和風のジュレ寄せ。メインは、時間をかけて煮込んだ牛すね肉の赤ワイン煮――いや、お酒を飲まない彼には、出汁の効いた和風の煮込みの方が胃に優しいかもしれない。

 考えれば考えるほど、料理は彼への「手紙」のようになっていった。私のこれまでの人生、大切にしてきた価値観、そして彼への今の想い。それらをすべて一皿に閉じ込めたいという、強烈なまでの執着が私を突き動かしていた。

 献立が決まると、次は部屋の掃除だった。

 平日は仕事に追われ、週末にまとめて掃除をするのがルーチンだったが、今回は次元が違った。

 

 まずは床の拭き掃除から。四つん這いになり、フローリングの木目を一つひとつなぞるように磨き上げる。普段は気に留めない部屋の隅の埃、棚の奥のわずかな汚れ。それらすべてが、今の私の「女としての綻び」のように思えて、許せなかった。

 キッチン、バスルーム、トイレ……水回りは特に念入りに磨いた。蛇口の曇りを消し、鏡をピカピカに磨き上げる。まるで、年末の大掃除か、あるいは神を迎え入れるための清めの儀式のようだと、自分でもおかしくなる。

(四十三歳にもなって、何を必死になっているんだろう)

 ふと鏡に映った自分の姿を見る。髪を振り乱し、掃除用具を握りしめた私は、洗練された和久井奈々子とは程遠い、泥臭い生活の塊だった。けれど、この生活の匂いこそが、彼女には決して持ち得ない、私の「厚み」なのだと信じたかった。

 

 彼を部屋に呼ぶ。

 それは、私のすべてを彼に委ねるということだ。

 四十三歳の身体、使い込まれたキッチン、お気に入りの古い本。それらを見たとき、彼はがっかりしないだろうか。

 不安と期待が、交互に波のように押し寄せ、金曜日の夜は結局一睡もできなかった。

 *

 土曜日の午後。約束の時間の十五分前、私は最寄りの駅の改札前に立っていた。

 新調したラベンダー色のワンピースではなく、今日はリネン素材の清潔感のあるシャツに、動きやすいワイドパンツを合わせている。エプロンをして家で待っているのも考えたが、初めての訪問で迷わせてはいけないと思い、迎えに行くことにした。

 

 人混みの中から、見慣れたシルエットが現れる。

 高瀬さんだ。今日はリラックスした雰囲気のサマーニットに、上質なコットンパンツ。手には小さな紙袋を提げている。

「麻衣さん、お待たせしました」

 私の姿を見つけると、彼はパッと顔を輝かせた。その笑顔を見ただけで、一週間の焦燥感がすべて報われた気がした。

「いえ、私も今来たところです。……今日はありがとうございます」

「こちらこそ。麻衣さんの街を歩けるのを、ずっと楽しみにしていました」

 駅から私のマンションまでの十分ほどの道のり。

 私たちは、何てことのない日常の話をしながら歩いた。けれど、私の心臓は、水族館の時よりも激しく鼓動を刻んでいた。あと数分で、彼が私の扉をくぐる。

 

「ここです。どうぞ、入ってください」

 玄関を開け、彼を招き入れる。

 高瀬さんは「失礼します」と丁寧な足取りで部屋へ上がった。

「……素敵な部屋ですね。麻衣さんの雰囲気にぴったりだ。あ、これ、お土産です。甘いものが好きだとおっしゃっていたので」

 彼が差し出したのは、有名店の洋菓子。

「ありがとうございます。後で一緒にいただきましょう。……さあ、座ってください。今、仕上げをしますから」

 リビングに彼を残し、私はキッチンへ向かった。

 ここからは、私の独壇場だ。

 コンロには、すでに下準備を終えた鍋が並んでいる。

 私はエプロンを締め、髪をまとめると、深く一つ呼吸を置いた。

 

 トントントン、と規則正しい包丁の音が部屋に響く。

 リビングからは、高瀬さんが私の棚の本を眺めたり、音楽に耳を傾けたりしている気配が伝わってくる。

「麻衣さん、この古い映画のパンフレット、僕も持っています。気が合いますね」

 ソファに座る彼が声をかけてくれる。

「本当ですか? 昔、名画座に通い詰めていた頃に買ったんです。……高瀬さん、お腹空いていませんか? もうすぐできますよ」

 ダイニングテーブルに、次々と料理を並べていく。

 

・前菜:焼きナスの和風ジュレ、ミョウガを添えて

・小鉢:彩り野菜の肉巻き、自家製甘辛ダレ(先日LINEで話したもの)

・温菜:鴨のロースト、黒胡椒とハチミツのソース

・メイン:真鯛と木の子の土鍋炊き込みご飯、三つ葉の香り

・汁物:蛤のお吸い物、柚子の皮を浮かべて

 お酒が飲めない彼のために、冷たい水出しのほうじ茶をガラスのデキャンタに用意した。

 

「……すごい。麻衣さん、これ、全部作ってくれたんですか?」

 テーブルに着いた高瀬さんは、驚きのあまり声を失っていた。

「ええ。高瀬さんに食べてほしくて。……冷めないうちに、どうぞ」

 私たちは手を合わせ、「いただきます」と声を揃えた。

 高瀬さんがまず箸を伸ばしたのは、あの肉巻きだった。

 一口食べ、ゆっくりと咀嚼する。

 私は、まるで試験の結果を待つ受験生のような心地で、彼の反応を凝視した。

 

「……美味しい」

 彼は深く、噛み締めるように言った。

「麻衣さんの料理は、優しいのに、一本芯が通っている。……ああ、なんだか、心の底から落ち着く味です。こんなに丁寧に作られたものを食べられるなんて、僕は本当に幸せだ」

 その言葉を聞いた瞬間、私の瞳にじわじわと熱いものが込み上げてきた。

 奈々子への嫉妬、年齢への焦り、身体への自信のなさ。

 そんな汚泥のような感情が、彼の「美味しい」という一言で、すべて浄化されていく。

 

「良かった……。高瀬さんにそう言ってもらえるのが、一番嬉しいです」

 

 食事は、ゆったりとした時間の中で進んだ。

 高瀬さんは旅先での不思議な料理の話をしてくれ、私はこの街の美味しいパン屋さんの話をした。

 テレビの音も、スマートフォンの通知音もない。

 ただ、食器が触れ合う音と、私たちの声だけが、琥珀色の照明の下で重なり合っていた。

 

 窓の外では、都会の夜が更けていく。

 けれど、この食卓の上だけは、何者にも邪魔されない、穏やかで濃密な「二人だけの時間」が流れていた。

 

 料理を食べ終え、土鍋のご飯が底をつく頃、私たちはこれまでにないほど自然体で笑い合っていた。

 

 四十三歳の恋愛。

 それは、外の華やかな景色を見に行くことではなく、こうして誰かのために「居場所」を整え、共に温かなものを食べる、その尊さを分かち合うことなのかもしれない。

 

 食後のほうじ茶を啜りながら、私はふと、彼の穏やかな瞳を見つめた。

 

 ……夜は、まだ始まったばかりだった。


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